プロローグ 『フィラル・アレ』
正面に立つ巨大な魔物———魔巨人。
腰には薄汚れた巾着を巻き、鍛え上げられた上半身を剝き出しにしている。
右手と左手に、それぞれ長剣を握っている。
人間を見つけた瞬間、躊躇なく斬りかかってくる凶悪な魔物だ。
だが、それは相手に認識されたと場合の話。
今の俺には関係ない。俺は堂々と魔巨人の正面へ歩み寄る。
目の前まで近づいても、魔巨人は微動だにしない。
気付いていないのだ。そこに俺がいることを。
ここで仮に大声を出したり、物音を出しても、気付かれることはない。
十分な間合いへ入ると、両手で握った斧を大きく振りかぶった。
「グウオオォォォォ!」
振り下ろした刃が、魔巨人の左足首を断ち切る。
巨体が大きく傾いた。片足を失った身体では、自らの重量を支えきれない。
轟音を立てて地面へと倒れ込む。
「よし」
悠長に、俺は転倒した首元へ駆け寄る。
魔巨人の弱点は人間と同じだ。心臓を潰すか、首を落とすか。今回は後者を選択した。
「よいしょっと」
首元めがけて斧を振り下ろす。鈍い音と共に首が胴体から離れた。
真っ向勝負なら勝ち目はなかった。傷一つ付けられずに殺されていただろう。
だが今の俺は違う。
敵は俺を認識できない。反撃を恐れる必要もない。
だからこそ、かつて苦戦していた魔物さえ容易く倒すことができる。
倒れた魔巨人は魔石だけを残し、全身を黒い粒子へと変えて消滅した。
俺は落ちた魔石を拾い上げる。本来なら、ギルドで換金してくれる貴重な資源だ。
しかし、今の俺に売る相手はいない。
かといって放置すれば他の魔物が飲み込み、この階層に相応しくない強力な個体に変異してしまう可能性がある。荷物になるだけだが、他の冒険者の事も考え、仕方なく回収する。
「はあ・・・本当に便利だけど、不便でもあるな。この体は」
そう呟いて、自嘲気味に笑った。
あの日から。あの魔物に遭遇した日から。———俺は誰にも認識されない存在になった。
「識喰竜」ーーー地下迷宮8階層に出現した謎の小型竜。
暗い洞窟の中でも、一際目立つ純白の鱗。
凶暴性はなく、自ら襲い掛かってくることはない。
だが危機を察知した瞬間、半径100メートルを覆う息吹を放つ。
その息吹を浴びた者は、人間であろうと魔物であろうとーーー誰からも認識されなくなる。
いつもお世話になっている売店の店主に手を振っても、
お金のない自分に、武器を安く販売してくれる鍛冶屋の親父の肩を叩いても、
そして、共に迷宮攻略を目指してきたパーティーの仲間の名前を呼んでも、
誰一人として振り向かなかった。
聞こえていないわけではない。見えていないわけでもない。
最初から、そこに俺など存在していないかのようだった。
どうしたら、自分の存在を認識してもらえるようになるのか、俺は解決方法を探した。
図書館に通い、魔物に関する書物を片っ端から読み漁った。
そして、一冊だけ見つけた。識喰竜について記された本を。
著者もまた、まんま自分と同じ被害者だった。
その本には、こう書かれていた。
【過去の自分では、成し遂げることができなかった偉業を達成せよ。過去を超えた時、徐々に存在認識は塗り替えられる】
過去の俺にできなかった偉業。そんなもの一つしかない。
ーーー地下迷宮制覇。冒険者であるなら、誰もが夢見る到達点。
自分の認識を取り戻す方法は、それしかない。
俺———フィラル・アレは存在を失った冒険者だ。




