01_くしゃみで開戦
ミナ・ロウは、くしゃみで戦争を始めた。
正確には、七十年続いた戦争を、休戦一年目にして再開しかけた。
その日のリハーサルで、ルクが一拍だけ早く入った。
待つあいだ、彼は太鼓の縁を指で叩いていた。
短、短、長。
休符。
短、長、短、短。
「そこ、違う」
「本番じゃないだろ」
「本番じゃないから直すの」
「鳴ってないところまで数えるのか」
「休符も譜面のうち。そこへ音を置いたら、別の小節になる」
ポロが舞台中央へ位置印を貼った。
ターラが指揮棒の先で一歩ぶん動かす。
「セラ、終止音のあと中央を空ける。五人とも袖へ入るまでが一場面。退場を端折ると、観客は拍手を始められない」
「音はもう終わってます」
「舞台は終わってない」
ミナは銀色のコルネットを構え直した。冷えたマウスピースに触れた上唇が、わずかに引きつる。息を入れる前から、管の冷たさで音程が上ずるのが分かった。
「最初から。今度は譜面どおり」
譜面どおりなら、失敗した場所を紙の上で指せる。
自分で選んだ音には、指せる場所がない。
ミナは、その空白が嫌いだった。
ターラが指揮棒を上げた。
「へっ――」
そこで止めればよかった。
止まらなかった。
「――くしゅん!」
銀色のコルネットのベルから、予定より半音高い音が出た。
明るすぎる音が赤い客席を跳ね、金色の欄干を走り、透明壁へ当たった。壁の向こうから、二十四隻ぶんの低い主機音が返ってきた。
嬰ハだった。
出すはずだったのは、ハだ。
ミナが最初に気にしたのは、その半音だった。
旧帝都アウレリア第七冠港。《金冠劇場》の舞台上である。
客席はまだ空だった。三千二百席。赤い椅子。金色の欄干。旧帝国の趣味を、費用の許す限り全部盛りにした劇場だった。
舞台の正面は巨大な透明壁になっている。その向こうには星空と、退役を待つ旧帝国近衛儀礼艦隊二十四隻が、きれいに二列で浮かんでいた。
その二十四隻が、一斉に主機を点火した。
前列十二隻だけが港を離れ、本来の入港線より一段高い航路へ滑り出す。
ミナは楽器を口から離した。
「……今の、私?」
指揮台のターラが振り返った。
「あなたのくしゃみに、あんな推力はない」
座長兼指揮者のターラは、舞台袖の請求書を片手に持ったままだった。薄い赤の燕尾服。背中の裾だけ、昨日ポロが縫ったので色が違う。
「たぶん」
「たぶんを付けないで」
舞台後方で、ルクが大太鼓の撥を持ち上げた。
「俺、まだ叩いてないぞ」
「あなたが叩く前から事件が起きる日もあるのね」
ミナが言うと、ルクは撥を下ろした。
低い警報音が鳴った。
透明壁の向こうで、前列十二隻が高い航路を進み続ける。冠港の外周に停泊している星系連盟の護衛艦隊が、それを見て散開した。
舞台上の全員が黙った。
歌唱アンドロイドのセラだけが、両手を胸の前で組んだ。
「美しいですね」
「感想を言う場面じゃない」
「では悲鳴を?」
「それもまだ早い」
警告灯が六つ、白から赤へ変わった。
ルクが言った。
「悲鳴、今だぞ」
ポロが悲鳴を上げた。
怪力の舞台係は、ちょうど大道具の宮殿柱を一本抱えていた。驚いた拍子に柱を取り落とす。
柱が床の印へ倒れた。
透明壁の向こうで、旧帝国艦隊が右へ九十度旋回した。
「……ポロ」
「ごめん」
「柱は?」
「壊れてない。壊れたら直す」
「じゃあ、元の印へ戻して」
ポロが柱を起こす。
二十四隻が左へ九十度戻った。
ミナはコルネットを見た。柱を見た。艦隊を見た。
最後にターラを見た。
「これ、舞台とつながってる」
「そんな劇場は嫌いよ」
劇場の非常回線が開いた。
『舞台上の全員、その場を動くな!』
男の声だった。
『私は第七冠港警備総監、エルゴ・サリス提督だ。演奏を中止しろ。繰り返す、演奏を――』
ルクが、反射的に太鼓へ撥を落とした。
どん。
旧帝国艦隊の前列十二隻に赤い作動灯が点き、砲撃手順が一段進んだ。
ルクは撥を持ったまま固まった。
「今のは俺だ」
「次は認める前に手を止めて」
ミナは言った。
連盟護衛艦から警告射が放たれた。
青白い光が、旧帝国艦の鼻先を横切る。
次の瞬間、二十四隻の砲塔が全部、連盟側へ向いた。
港内通信が一斉に鳴り始めた。
退避命令。停戦監視局。港湾管制。式典局。報道回線。誰かの怒鳴り声。誰かの祈り。
ターラはそれを全部無視し、請求書を裏返した。
「ミナ」
「なに」
「最初の音、もう一回出せる?」
「絶対に嫌」
「だよね」
ターラは紙の余白に、太い字で書いた。
《危険手当 要再交渉》
そこへ劇場の正面扉が開き、十人ほどの警備員が走り込んできた。
先頭にいたのは、白髪の男だった。
エルゴ・サリス提督。
旧帝国の制帽をかぶり、しかし肩章は外されている。休戦後の規則で、旧帝国の階級章は儀礼以外では使えない。だからだろう。
胸には勲章が十二個あった。
階級章の代わりには十分だった。
「誰が楽譜を変えた」
サリスは舞台へ上がるなり言った。
ターラが答えた。
「そちらから支給された譜面です」
「その女が外した」
サリスがミナを指した。
ミナの背中が固くなった。
「一音です」
「一音で艦隊が動いた」
「その設計を私に怒られても困ります」
思ったより強い声が出た。
ルクが小さく口笛を吹いた。
撥の柄で、さっきと同じ短、短、長を打ちかける。
サリスの目が、ほんの一瞬だけ太鼓へ動いた。
ターラが睨むと、すぐやめた。
サリスは透明壁の向こうを見た。
旧帝国艦隊は、まだ砲撃作動灯を点けたまま静止している。
「この劇場は、もともと近衛艦隊の式典指揮所だった」
セラが首を傾げた。
「劇場ではなく?」
「劇場でもある」
「欲張りですね」
「帝国だったからな」
その返答だけは、少し疲れていた。
サリスは舞台中央の円形床を靴で叩いた。
「古い艦隊は、通信妨害や偽装命令を避けるため、特定の式典演奏を補助認証に使った」
サリスは五本の指を開いた。
「認証対象は五つ。音高、拍、舞台座標、儀礼具、入退場。それ以外は読まない。この五つを一つの鍵にした」
一本ずつ折りながら言う。
「音高は推進と航路。拍は火器の作動時機。演者と指定大道具の舞台座標は艦隊陣形。剣や冠などの儀礼具は、艦内設備と武装状態。入退場は指揮権と任務状態だ。割り当ては楽章が変わっても動かない」
「航路を示す音列は、終止音で初めて行き先として確定する。終止前なら候補、終止音が変われば別航路だ」
サリスは床の円を指した。
「楽章全体が鍵として認証されたあと、システムはその五系統の差分だけを読む。半音なら航路がずれ、一打なら火器手順が進み、人や指定大道具の位置なら陣形が変わる」
「休符は?」
ミナが聞いた。
「指定された休符は、ゼロの拍として認証する。鳴らさないことと、失敗して鳴らなかったことは、小節内の位置で分ける」
「半音を外したときの安全装置は」
「ない」
ミナはサリスを見た。
「皇室認証を通った演者は誤らない。帝国の設計規範にはそうある。認証後の差異は、失敗ではなく戦場で必要になった変奏と見なす」
「間違えない人間を作る代わりに、間違いを定義から消したんですね」
「儀式は正しい。それが帝国の秩序だった」
ミナは自分のコルネットを見た。
「じゃあ、私の嬰ハは」
「第一楽章を通したうえで、最後だけ戦時航路変奏として拾われた」
「最悪の採点方式ですね」
ターラが眉を上げる。
「それを先に言わないのが、旧帝国式の接客?」
「式典局は機能を知らなかった」
「あなたは?」
サリスは一拍置いた。
「知っていた」
外で、連盟艦隊がさらに距離を取った。
旧帝国艦隊の主機は止まっていない。
劇場の床に、赤い文字が浮かんだ。
《第一楽章 認証済》
《式典連鎖 継続中》
《終演まで手動解除不可》
ミナは読んだ。
もう一度読んだ。
「終演まで?」
サリスの顔が硬くなった。
「そうだ」
「中止しろって言いましたよね」
「第一楽章が認証されても、手動で切れると思っていた」
「今、知ってる人が二人に増えたわね」
ターラが言った。
床の文字が更新された。
《第二楽章 待機》
《開始猶予 十一分四十秒》
《未開始時、前楽章反復》
ルクが透明壁を見た。
「前楽章って」
前列十二隻の砲塔が、ゆっくり連盟艦隊を追尾している。
セラがにっこりした。
「アンコールですね」
ミナは目を閉じた。
戦争は、だいたい大きな理由で始まるものだと思っていた。
領土。門。王。補給。復讐。
少なくとも、花粉ではない。
ターラが指揮台へ戻った。
「全員、位置へ」
「本気?」
「止めるには終わらせるしかない」
ミナは楽器を握った。
指先が冷たかった。
正しい音を出せばいい。
今度こそ。
たったそれだけだ。
そのときは、まだそう思っていた。




