#31
「鉤束」
久々に聞いた、その呼び名。微かな驚きと共に、振り返る。
刀耶はその顔に、普段は見られない知性を湛えていた。
「刀、耶……」
「ここは、任せろ」
言葉の意味も理解しないうちに、刀耶はぼくの脇を抜けて鶫を肩で担ぎ上げ――そのまま、下界へと去っていってしまった。
「え…………」
そこまで経ってから、ぼくはようやく真っ当な呆気にとられたような声を、あげることが出来た。
上から潔子ちゃんと要が降りてきた。
わからない。あまりにわからないことばかりだった。
あれから、潔子ちゃんと要には、二人は気分が悪くなったから帰ったという言い方をした。よくよく考えれば一度も体調を崩したことがない二人だとまるで気分を害したから相対したという受け取り方も出来るのだが、その時のぼくにはそこまで気を遣う余裕はなかった。
結局そのあと、刀耶も鶫も施設内で見かけることはなかった。そしてそのまま、その日の部活動は解散となった。
帰り道を、一人歩く。なぜか妙に疲れた心地だった。考えてみれば、当然だった。今日一日、なぜかやること、やったことが多かった。施設へ行き、話し合いの末ピクニックに決まり、化学実験室で弁当を作り、未由と話し、ピクニックへ行き、途中鶫の様子がおかしくなり、急遽戻り、話し合い、この場面だ。
疲れた。今はただ、何事もなく部屋で一人になり、眠りたい心地だった。正直言うと、今は圭子さんにすら会いたくなかった。でもきっとぼくの帰りを配給された夕食と共に待ってるのだろう。そう考えると今の思考の失礼さに、余計疲れる心地だった。
歩く。夜の街を。誰もいない寂しい町を。ふと思う。外出を控えるように指示が出て、既に半年。
他の人間は、いったいどうしているのだろうか?
日差しが瞼を焼いた心地だった。
「…………」
黙って、体を起こす。そして目を開ける。窓から西日が部屋に差し込んでいた。
ひどい夢を見た気がした。
世界が、火で焼かれる夢。
そして、世界が崩壊する夢。
きっと日に日に少しづつ暑くなっている気候のせいだと思う。今まで気候制御装置が働いていた関係で温度計なんてないからわからないが、日中などはじんわりと汗がにじむようにすらなっていた。どこまで温度が上がるのか、わからない。
この世界の寿命がどこまでなのか、わからなかった。
「した、降りよう……」
自分に言い聞かせるように、口にした。この部屋で何かを口にするのなんて、初めてのことだった。すべて自分の心象世界での問答だったのに。これも、自分で考え始めてからの成果なのかもしれないと思った。
階段を下りると、圭子さんの声が聞こえた。
「あら、おはようございます透さん。今日は少し、遅いんですね?」
この言葉に皮肉は込められていない。どちらかというとぼくの体調の方を気にしての言葉だろう。
「すいません。昨日は少し、疲れてしまって」
「まぁ、そうですか。あまり無理はしないようにしてくださいね」
そう微笑み、テーブルの上に料理を並べていく。支給品の残りである缶詰たちだ。最初こそ代わり映えしない味付けに辟易したものだが、人間慣れれば慣れるものだった。
あまりにいつも通りの風景。
だけど遅く起き、妙な夢を見て、そのせいでいつもより頭が回っていたぼくは、ひとつの違和感を感じた。
「――あの、」
「なんですか?」
「ひとつ、質問というか、あるんですが?」
「はい、いいですよ。なんですか?」
「圭子さんは、ぼくが出かけている間は、なにをしているんですか?」
ほんの、一秒にも満つるか否かという、僅かな時間。空白が出来たような、気がした。
「家のお掃除や、洗濯などをやってますね。主に家事ですよ。外に出ることは、あまりないですね」
「そうですか……」
「それが、どうかしたんですか?」
視線がこちらを向き、ぼくは少しドキッとした。
「いえ……そういえばと、少し気になりまして」
――待て。
「……その、圭子さんは、なにか趣味というか、そういうものはないんですか?」
「趣味、ですか?」
質問を質問で返されたのも、おそらく初めてだと思う。
「あ、はい。その、圭子さんはぼくのお世話ばかりしてるので、なにか他に圭子さん自身のために取られている時間はないのかと……」
少し、考える素振り。
正直、これは初めて見ると思う。
「……ない、ですね」
どくん、と心臓が脈打った。