第11話 怒りの三狼
空を眺めていた。
先程まで真っ赤だった世界は元に戻り、目の前には青い空と羊の形をした雲が広がっていた。
もう何分こうしているだろうか……。
顔を下に向けたくなかった。
母さんが死んだ。それも目の前で。
分かっている。分かっているのだ。だが、それを実際に確認するのが怖い。
俺のせいで死んだ母さんの亡骸を確認するのが怖い。
俺のせいで死んだ二匹の狼の亡骸を確認するのが怖い
そう。俺のせいだ。
人間の声がする。
今まで意味の分からなかった奴等の言葉が明確に理解できる。
そして、今までの比じゃない範囲の情報が頭に入ってくる。
だから気づいてしまった。
街道に兵など一人もいないことが。
母さんとツーとスリーは無駄死にだった。
みんなで移動して街道を確認して、北の山へ逃げるのが最善だった。
間違えた。
だから、三匹死んだ。
俺が殺したのだ。俺の判断ミスで殺した。
人間の声が近づいて来る。
俺は諦めて顔を正面へ向けた。
最初に目に入ったのは、血だまりを作りながら倒れている母さんだった。
こちらに腹を向けているが、そのお腹はもう動いていない。
次に目に入ったのは、ワンだった。
顔は無表情でただ目の前の空間を眺めていた。
俺は顔を右へ向ける。
赤茶色の毛をした狼がそこにいた。
さらに俺は顔を右に向ける。
白毛の狼がそこにいた。
その胴体の上の表示は見たことがないものだった。
LV21フレイムウルフ
LV22ホワイトファング
薄々分かっていた。
俺も進化しているだろう。
人間の言葉が理解できるようになった事、索敵範囲が広くなった事。
拉げた左前足が元に戻った事。
それが今回得られた進化の恩恵だろう。
母さん達を犠牲にして手に入れた力の恩恵。
俺は自分の前足を確認する。
毛の色が真っ黒になっていた。
俺は黒か……。
もうさほど興味は無かった。
「ペコ」
白い方が近づいて来る。
「ロニ」
赤い方もこっちを見た。
二匹とも牙を剥いて怒っている。
獅子のように大きくなった体を縦に揺らして怒っていた。
「少し待ってろ」
返事は返ってこなかった。
俺は遠吠えをした。
逃亡チームと偵察に出た狼に聞こえるように全力で遠吠えをした。
そして北の山へ移動しろと命令を出した。
これで逃亡チームは北の山まで逃げ切れるだろう。
街道には人間はいない。
真っ直ぐ進めば、日が暮れる頃には到着するんじゃないだろうか。
「ワン。アイツらを守ってやってくれ」
「わかった。でもお前達も一緒だ」
ワンの真剣な目が俺を射抜く。
「俺は一緒には行けない。すぐそこに人間が来ている。
足止めをしないと追いつかれてしまうだろうよ。
だから行け。これは命令だ。従え」
俺はワンを睨んで強く、静かに言った。
ワンは悔しそうに歯を食いしばっていた。
俺はワンを睨み続ける。
やがて、諦めたようにワンは言った。
「チロ……死ぬなよ」
そう言い残して、逃亡チームの方角へ向かった。
逃亡チームを安全に移動させるために足止めをしてやらないとな。
そう、安全確保は大事だな。
嘘だ。
本当は人間を殺したい。
母さんを殺した人間という種族が憎い。
俺の胸の中はそれだけだ。
もう死んでも構わない。
人間を殺せるならばそれでいい。
ただの八つ当たりなのは分かっている。
それでも憎いものは憎い。
「ペコ、ロニお前らも行け」
一応言ってみた。
「やだ」
「いや」
短く強く返ってきた。
分かっている。
母さんの事が大好きだったこの二匹がここで引くわけがない。
俺と気持ちは一緒だろう。
ならば行こうか。
奴等を殺しに。
耳を澄ませる。
「あっちから遠吠えが聞こえたぞ」
「向こうだ。行くぞ」
「リード様に伝えにいく」
奴等の声がすぐそこに聞こえた。
「いくぞ」
「うん」
「ええ」
俺達は一斉に駆け出した。
作戦も何もない。ただ、敵の臭いと音がする方向に向かって走った。
ペコが頭一つ飛びぬけて速い。
俺もロニも進化してかなり速くなっているのが体感できたが、それでもなお速い。
ペコはそのまま人間の群れに突っ込んだ。
「あがっ」
断末魔は一つしか上がらなかった。
変わりに生肉を壁に叩きつけたような音が響く。
笑い声が混ざっている。これはペコのものだろうか……。
俺とロニが追いついた時には血の海が出来ていた。
その中心にペコがいる。
人間の首の上に片前足をのせ、白毛を真っ赤に染めて笑ている。
綺麗だった。
ペコは俺を見て満足げに笑う。
人間の臓物と肉片の真ん中で本当に楽しそうに笑っていた。
俺達の右側に人間が近づいて来る。
ロニがそれに気づいた。
ロニは口から火を吐いて森ごと人間を焼いた。
さながら火炎放射器のようだった。
赤茶色の毛は炎風に吹かれてゆっくり揺らめいている。
表情は見えなかったが、笑っているような気がした。
その火は瞬く間に燃え広がっていく。
「火事だ。逃げろ」
「逃げるぞ、このままじゃ燃え死んじまう」
「一度撤退だ」
人間が退いて行く。
そんな人間を俺達が見逃す訳もなかった。
ペコもロニも追撃を加えるべく炎の中に飛び込んでいった。
俺は炎の中に入らずに他の人間を探して、そっちへ走った。
俺は手当たり次第に人間を殺した。
鋭く尖った凶悪な爪で首を薙げば人間の首なんて軽々と吹っ飛んだ。
その爪を心臓に突き刺せば人間の胴体なんて軽く貫通した。
俺の体も一回り大きくなっている。
今までは目線が人間の腰くらいだったが、今は胸あたりにある。
殺しやすい。
無理に飛び上がる必要もない。
目の前の柔らかい肉に爪を突き立てるだけで殺せる。
人間を見るたびに母さんの顔と最後の姿がフラッシュバックする。
それが頭にちらつく度に怒りがこみ上げてくる。
人間に対する怒り。そして自分に対する怒り。
それを目の前の人間にぶつける。
しかし、どれだけ怒りをぶつけてもこの感情は無くならない。
俺の胸を締め付けて、存在を主張する。
痛い。苦しい。誰か助けてくれよ……。
ふと空を見ると煙がもうもうと上がっている。
ロニが暴れているようだ。
何人くらい殺しただろうか。
数なんて初めから数えてすらいなかったな。
まあいい。このまま森の出口まで追いかけて殺しつくす。
しかし、脚が止まった。
あの臭いがした。
あの香水のような臭いと油の臭い。
動け、動けと何度念じても体は動かない。
本能が拒否していた。
この期に及んでまだ生きたいと思っているのだろうか。
こんな失態を演じて?
俺のエゴでいったい何人死んだんだ。
そう考えても足はもう前には進んでくれなかった。
舌打ちをしたい気持ちになったがそれすらも上手く出来ない。
俺は諦めて撤退の遠吠えをした。
死ぬ覚悟は出来ているつもりだったのに……。
俺は体を巣穴へ向けた。
素直に体は動いてくれた。
この臆病者が。
そこから俺は自分の巣穴に向かって走った。
燃える森を無視して真っ直ぐ走った。
火傷で体中が痛い。
だがその痛みが今は心地よかった。
自分への罰のつもりか……。
そんな独り善がりの贖罪。
意味があるのか? そんなことはどうでもいい。そうしたかった。
巣穴の前には、ペコとロニが先に到着していた。
何も話さずに、ただ下を向いていた。
「血を流そう」
俺は二匹にそう言った。
ペコは返り血で酷い有り様だった。
あんなに綺麗な白だったのに、今では白い部分を探す方が大変だ。
ロニも、体中に灰が纏わりついている。
きっと俺も体中血まみれだろう。
二人とも返事こそしなかったが、俺に続いて燃え盛る木々の横の川で血を流した。
俺達は進化のせいで手狭になってしまった巣穴で向かい合っていた。
何を言えばいいかわからない。
ペコもロニもそうなのだろう。
ただ正面を見つめていた。
「母さんが……死んだ」
その言葉に意味なんか無かった。
何を言っていいかわからず、結局俺の口から出たのはそんな言葉だった。
でも、それを口にした途端に涙が溢れてきた。
視界が揺らいでいく。
胸が抉り取られたように痛い。
ひっひっと喉がひくつく。
「俺の……せいで…っく……俺のせいだ……ゴメン……ごめんな……」
驚くほど声が出ない。最後は自分にしか聞こえないような小さな声になってしまっていた。
もう涙が止まらない。
よだれと鼻水も止まらない。
俺は人間の赤ん坊のように声をあげて泣きじゃくった。
ロニも泣いていた。ペコも泣いていた。
俺達は時間を忘れて、その涙を死んだ母さんに捧げ続けた。