第57話
「ここが豊川稲荷ですか。おっきいです」
境内へ入ると、いなりが麦わら帽子の下で目を丸くした。
広い境内。
大きなお堂。
行き交う参拝客。
並ぶのぼり。
町の中にあった小さな稲荷社とは、雰囲気も規模もまるで違う。
稲荷信仰には、神と仏が近い場所にあった長い歴史があるらしい。
宇迦之御魂神様いわく、縁が深い場所なら、こうして顔を出すこともできるのだという。
「そうだな。俺も初めて来たよ」
「まず、お参りです」
「ああ、そうだな」
親父、母さん、俺、いなりの四人で、本堂へ向かう。
手を合わせる。
隣では、いなりが真剣な顔をしていた。
いつものように俺の袖を掴んでいるけれど、その目はまっすぐ前を見ている。
その姿を見ていると、ここへ連れてこられてよかったと思えた。
お参りを終えた俺たちは、順路に沿って霊狐塚の方へ向かった。
のぼりが増え、朱色が視界を埋め始めた頃。
ふっと、周囲の音が遠ざかった。
さっきまで聞こえていた参拝客の声。
砂利を踏む音。
遠くの店から聞こえる呼び込み。
そういうものが、薄い膜の向こう側へ押しやられたように感じる。
空気が変わった。
「ようこそ、豊川稲荷へ」
柔らかな声が響いた。
そこに、宇迦之御魂神様がいた。
以前、小さな稲荷神社で会った時と同じように。
穏やかな笑みを浮かべている。
「宇迦之御魂神様。来ました」
俺は頭を下げた。
いなりも慌てて、麦わら帽子を押さえながら頭を下げる。
「宇迦之御魂神様。お久しぶりです」
「まあ。ほんとに会えるのね」
横で、母さんが驚いた声を上げた。
親父は目を閉じ、静かに頭を下げている。
「あらあら。いなりがお世話になっております」
宇迦之御魂神様が、母さんへ柔らかく微笑んだ。
「いえいえ。いなりちゃんはしっかりしていて、とても助かっていますわ」
「いなりちゃん。いいあるじだけでなく、いいお家に巡り合えたようね。よかったわ」
「はい」
いなりは少し照れたように、それでも嬉しそうに答えた。
「父様も母様も、いなりによくしてくださいます」
「それに、透さんも、いなりちゃんも。とても頑張っていますね」
「そう言ってもらえてよかったです」
俺が答えると、宇迦之御魂神様は満足そうにうなずいた。
それから、少しだけ言いにくそうな顔になる。
「あの。小森一さん、恵さん」
「はい」
親父と母さんが、そろって返事をした。
「ひとつ、お願いがあります」
宇迦之御魂神様は、いなりを見た。
「いなりちゃんの、父と母になっていただけませんか?」
「え?」
母さんが目を丸くする。
親父も、少しだけ驚いたように眉を動かした。
「詳しい話は、このあと真清田神社の方から説明があります」
宇迦之御魂神様は、少し申し訳なさそうに続けた。
「いなりちゃんが、これから人として暮らしていくなら。学校へ通うことも、外へ出ることも、考えなければなりません」
いなりの小さな手が、俺の服の裾をきゅっと掴んだ。
「神社の関係者の方々に相談して、真清田神社の宮司さんにも話を通してあります」
「真清田神社に、ですか?」
親父が尋ねる。
「はい。透さんたちの住む地域を見守る、一宮ですから」
宇迦之御魂神様は、少し困ったように笑った。
「ただ、ここ豊川稲荷は寺院ですから。神社の方々と正式なお話をするには、別の場所へ行っていただく必要があるのです」
神様でも、そこはきちんとしているらしい。
というか、宇迦之御魂神様が関係者に話を通した時点で、かなり大ごとではないだろうか。
神様からのお願い。
それはもう、ほとんど神命なのでは?
神社の人たち、ご苦労様です。
そんなことを考えていると、宇迦之御魂神様が手を胸の前で合わせ、少しだけ首を傾げた。
「ですので。お手数をおかけしますが、真清田神社へ向かっていただけませんか?」
……かわいいな。
そう思って見ていたら、いなりが俺を見上げて、むっとした顔をしていた。
とりあえず、頭を撫でておく。
「あるじ?」
「いや。何でもない」
「むぅ……」
「私たちは、真清田神社へ行けばよろしいのでしょうか?」
親父が尋ねる。
「はい。尾張一宮の真清田神社です」
「分かりました」
親父は、すぐに答えた。
その横で、母さんがいなりを見つめる。
「それで、いなりちゃんを預かってほしいということなのね?」
「はい」
「もちろんですわ」
母さんは迷わなかった。
「いなりちゃんは、もううちの家族ですもの」
いなりの肩が、小さく震えた。
「大手を振って、家族だと言える環境にしてくださるなら。こちらこそ、ありがとうございます」
「母様……」
いなりは、今にも泣きそうな目で母さんを見上げた。
母さんはそんな彼女を抱きしめる。
「当然よ。いなりちゃんは、うちの子なんだから」
「あ、あの。母様。外ですので、少しだけ……」
口では困っているけれど、いなりは逃げなかった。
宇迦之御魂神様は、そんな二人を見て優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。それでは、真清田神社でお会いしましょう」
そう言って、宇迦之御魂神様は静かに笑った。
次の瞬間。
周囲の音が戻ってくる。
参拝客の声。
砂利を踏む音。
遠くの店のざわめき。
俺たちは、霊狐塚の近くに立っていた。
まるで、最初からそこに宇迦之御魂神様はいなかったみたいに。
「さて」
親父がスマホを取り出し、地図を確認する。
「ここから一宮までは、一時間半くらいか」
「親父。申し訳ないけど」
「家族のためだもの。行けるわよね、お父さん」
母さんが笑いながら言う。
「当然だ」
親父は即答した。
「でも、俺。せっかく豊川稲荷に来たんだから、もう少し見て回りたいかな」
「そうね」
母さんもスマホで時間を見る。
「今、十時半くらいだし。お昼を食べてから行きましょう」
「この辺の稲荷寿司はおいしいって、聞いたことがあるぞ」
「稲荷寿司!」
いなりの耳が、帽子の下でぴくっと動いた気がした。
「食べたいです」
「いなりちゃんも好きそうだものね」
母さんが笑う。
「食べてから、真清田神社へ向かいましょう」
「はいです!」
さっきまで少し緊張していたいなりは、今度は目をきらきらさせていた。
家族になるための話。
これから先の話。
大事なことは、たぶん真清田神社で待っている。
でもその前に。
まずは、みんなで稲荷寿司を食べることになった。




