20.ガラス越しのキスと二人だけのクリスマスパーティー
奈美恵は部屋で一人になると、この数日間のことを思い浮かべていた。 数日間ではあるが、今まで生きてきた二十数年間にも勝るような数日間だったと思った。
部屋の窓からは雪に覆われた軽井沢の町が見える。 あちこちに飾りつけられたクリスマスのイルミネーションを眺めながら奈美恵は呟いた。「明日はお店に出ないと…」
翌朝早々に若田部はホテルを後にした。 向井にベンツを運転させて。 権藤は小林が乗って来たセダンで東京に戻った。 小林は引き続き護衛のために俊彦達に同行するよう若田部言い渡されていた。
ホテルのレストランでバイキング式の朝食をとるためにやってきた俊彦、奈美恵、小林の三人は、食事をしながら、その日の予定を話し合っていた。
「今日は祭日で仕事も休みだ。 ゆっくり軽井沢件物をして帰るか?」俊彦がパンにバターを塗りながら言った。『トシさんはやっぱり洋風の朝ご飯なのね』奈美恵はそう思いながら俊彦の提案を聞いた。
「いいですね。 雪のレマン湖はカップルにはお勧めらしいですから」小林が賛成だと意思表示する。 小林のメニューはいかにも“日本の朝ご飯”だった。
「マリはどうだ?」俊彦が奈美恵を見る。 奈美恵はしばらく考えてから口を開いた。
「会えるかしら…。 最後にあの人に会えるかしら?」奈美恵はうつむいたまま、小さな声で言った。 俊彦にとっては予想していた言葉だった。
「たぶん、取り調べの最中だから難しいかもしれないが、何とかなるだろう」俊彦はできるだけ、そうだとばれないように作り笑いをした。
「ごめんなさい。 わたし…」奈美恵が謝ろうとするのを俊彦はさえぎった。
「よし! じゃあ、警察署の見学にでも出かけるか!」と俊彦は陽気に言った。
「黒木さん、自分はちょっと遠慮したいですね…」小林が両手を合わせて懇願する。 当然と言えば当然の反応だが『こいつ、なかなか空気をうまく読む』俊彦が思った通り、小林のそのしぐさに、奈美恵の顔に笑みが戻った。
俊彦達が軽井沢警察署を訪れると、既に健司の取り調べは終わっていた。 健司はありのままをすべて自白し、十分に反省しているようなので情状酌量の余地はあるということだった。 そして、送検される前に30分程度なら面会可能だと許しが出た。
奈美恵は俊彦に、健司には一人で会って話をしたいと申し出た。 俊彦もそれを快諾した。「二人のことだから、今後のことも含めて、話してくればいい」
時間になると、奈美恵は面会ブースへ案内された。 ガラスの向こう側にまだ健司は来ていなかった。 先に着席して待っていると間もなく健司が現れた。 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「悪かったな。 今までずいぶん迷惑をかけた」健司がまず謝った。
「ううん。 いいのよ。 ちっとも気にしてないわ」奈美恵も微笑みかける。
その後は、しばらく見つめあったまま、沈黙が続いた。 二人はそのわずかな間の中で、お互いの気持ちを確認することができた。 そして健司が口を開いた。
「待たなくてもいから」健司のその言葉には少しの迷いもなかった。
「うん」奈美恵が少しだけ遠慮気味に言うと、健司は少し悪びれた風に念を押した。
「今度、どこかで偶然会って、俺に一目ぼれでもしたら、その時は付き合ってやってもいいけどな」そう言って健司は声をあげて笑った。
「うん!」奈美恵も大きくうなづいて健司に微笑むと、ガラスに唇を近付けた。 監視員が“コホン”と咳をしたが、健司は気にせず、ガラス越しの奈美恵の唇に自分の唇を合わせた。 そして、面会時間は終了した。
外に出ると俊彦と小林が待っていた。 奈美恵は二人のそばに行くと礼を言った。
俊彦も小林も笑顔で出迎えてくれた。
「さて、どうしようか? マッチョ君お勧めのレマン湖にでも行ってみるか?」と俊彦。
「いいえ、寄って欲しいところがあるの」
奈美恵と健司が住んでいたマンションはこじんまりとしたデザイナーズマンションだった。 2LDKの部屋は奈美恵が逃げ出した時に比べると、かなり散らかっていた。 奈美恵は部屋の片づけを始めた。 俊彦と小林も手伝った。
部屋が片付くと、奈美恵は家主に部屋を出ると伝えた。 そして、部屋の家具や家電製品はすべてリサイクル等で処分するつもりだと言った。 それを聞いた小林は自分が全部引き取って、退去の手続きもやっておくと申し出た。
「マリ姉さんのためならお安い御用ですよ」小林のその言葉に二人は唖然とした。
「姉さんって…」俊彦と奈美恵は顔を見合わせた。
「ここを引き払うってことは、黒木さんと一緒になるってことでしょう? だったら、姉さんじゃないですか」真面目な顔をして小林が言う。 俊彦は小林の頭を引っ叩いた。
「何、バカなことを言ってるんだ」そう言って奈美恵に向かって手を合わせた。
「そうね。 まだ決めてないけど、取り合えず、今日はお店もあるし、まず、この間の約束を守って貰わないとですよ」奈美恵はそう言って、俊彦の腕を取り、甘えるようにしがみついた。
「約束?」
「そう! 二人だけのクリスマスパーティー。 だから、早く帰ろう」奈美恵は俊彦の腕を引っ張って俊彦のRV車の方へ歩き出した。
「ねえ、小林さん? もしよかったら、そのクーペ貰って下さらない? 私にはもう必要ないから」そう言うと、小林に手を振って俊彦の車の助手席に乗り込んだ。
「ありがとうございます。 一生、大事に乗らせてもらいます」小林は深々と奈美恵に頭を下げた。
イヴの夜が金曜日だったので店は普段の週末以上に混んでいた。
閉店時間の深夜2時。 マスターは一斉に客を店の外に出した。 奈美恵は最後の後片づけと洗いものを手伝った。
「マリちゃん、今日はもういいよ」マスターがそう告げたとき、俊彦がやって来た。
「トシさん、お待たせしました」マスターは奈美恵を送り出すのが遅れたことを俊彦に詫びた。
「気にするなよ。 それより、俺も手伝うよ」俊彦はそう言うと、店のいすをカウンターに上げて床の掃き掃除を始めた。
奈美恵は俊彦に手を振ると「着替えてくるね」と更衣室へ向かおうとした。
「ヒュー! その格好も捨てがたいけどな」俊彦がそう言うと、クリスマス恒例、ミニスカートのサンタクロース姿の奈美恵は俊彦に向かってスカートの裾を広げてウインクした。
「すいません。 ありがとうございます」マスターは洗い物を終えた振りをしてホールに出てくると、俊彦からほうきを取り上げて、代わりにシャンパンを持たせた。
「親分からの差し入れです」ヴーヴ・クリコのイエローラベル、ブリュットジェロボアムだった。
「若田部さんにしては気が聞いたものをよこしたな」俊彦はその高級シャンパンを受け取ると、着替えてくる奈美恵を待った。
「お待たせ」着替えてきた奈美恵は、俊彦と最初に会った時と同じダブダブのセーターを着ていた。
外に出ると、雪が降り始めていた。
「わー! 雪だ。 わたし、東京で雪を見るのは初めてだわ」と、両手を広げて空を見上げる奈美恵。 俊彦はそんな無邪気な奈美恵をしばらく眺めていた。 そして、奈美恵の手を取った。
「さあ、パーティーへ出かけよう!」




