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続きそうな短編集【南風と潮騒の伝承】

異筆 土佐日記

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/07/17

 私の主人、きの貫之つらゆきは、紙の上で女になった。


『男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。』


 そう書くと、貫之は筆を置き、満足そうに一行目を眺めた。


「どう思う」


「一行目から殿が透けています」


「まだ一行しか書いていないぞ」


「だからこそ、よく透けています」


 主人は不満そうに、筆の尻でこめかみをかいた。


「では、どう書けば女らしくなる」


「女房たちに聞いてみてはいかがです」


「それでは私が書く意味がない」


「でしたら、初めから私に聞かないでください」


 しばらく考えた末、主人は自分で女心を考えることにしたらしい。


 最初からそうしてほしかった。



 十二月二十一日。


 土佐国司の任を終えた主人は、住み慣れた館を出た。


 出たとはいっても、すぐ船に乗ったわけではない。


 別れを惜しむ人々が、次から次へと酒を持ってきたからだ。


 二十二日も酒宴。


 二十三日も酒宴。


 二十四日には講師が餞別せんべつに訪れ、夜更けまで飲んだ。


 その夜の様子を、主人はこう書いた。


『一文字をだに知らぬものしが、足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。』


 文字の「一」さえ知らない者が、酔って足を「十」の字に踏み乱している。


 ずいぶん意地の悪い書き方である。


「見たままを書いただけだ」


「見たままを書くのは、男の日記ではなかったのですか」


「これは風雅に整えた事実だ」


 主人にとって事実には、風雅なものと、そうでないものと、絶対に紙へ載せてはいけないものがあるらしい。


 絶対に載せてはいけないものの筆頭は、自分の酔態だった。


 翌朝、主人は頭を押さえながら私に尋ねた。


「女ならば、長く住んだ土地を離れるとき、何を思うだろう」


「積み忘れた荷がないかと」


「もう少し情趣のあることだ」


「干しあわびを積み忘れています」


「鮑から離れよ」


「では、米俵を」


「物から離れよ」


「昨夜、殿がどなたかに差し上げた小袖のことなど」


「あれは差し上げたのではない。どこかへ紛れたのだ」


「私がしまってあります」


 小袖こそでを目の前に置いても、主人は誰かが戻しておいたのだと言い張った。


 やがて自分で女心を考え、別れの悲しみを書き始めた。


 本物の女たちに尋ねておきながら、その答えは一つも使わない。


 主人の胸の内に住む女は、荷を数えず、酒にも酔わず、いつでも月を見て歌を詠んでいる。


 ずいぶん手のかからない女だった。




 ようやく船が出ると、今度は風が止まり、波が立ち、港ごとに足止めされた。


 主人は空と海を眺めては歌を考えた。


 同行の者たちも、競うように歌を詠んだ。


 一首できるたびに船が一里進むのなら、私たちは三日で京へ着いただろう。


 だが、船は歌では進まない。


「羽根」という場所では、幼い女の子まで歌を詠んだ。


『まことにて、名に聞く所はねならば、飛ぶがごとくに都へもがな。』


 ここが名の通りの羽根なら、都まで飛んで帰りたい。


 そういう歌だった。


 皆、同じ気持ちだったので、大いに褒めた。


 主人も紙へ書きつけながら言った。


「歌として優れているわけではないが、心にはかなっている」


「幼い子の歌にも容赦がありませんね」


「褒めているではないか」


「先に貶してから」


「正しい評とは、そういうものだ」


「殿の歌も、同じように評してよいので」


「主の歌は、正しく褒めるものだ」


 女になったつもりでも、歌人の顔だけは隠せないらしい。


 大波に揺られた夜、主人は青い顔で筆を取った。


「海を恐れる女を書こうと思う」


「恐れていたのは殿では」


「私は恐れたのではない。胃のが海と意見を異にしただけだ」


「海へずいぶん激しく返事をなさっていましたね」


「覚えておらぬ」


 翌朝、主人は何事もなかったように、月と波の歌を書いた。


 実際の女たちは、夜通し転がる壺を押さえ、濡れた衣を乾かし、吐いた者の背をさすっていた。


 日記の女は、波を見て歌を詠む。


 実際の女は、壺を抱える。


 歌より壺のほうが重いからだ。


 私は主人のすずりを、いつもより少し遠くに置いた。


 主人は手を伸ばして、届かないと言った。


 私は聞こえないふりをした。




 一月二十三日、船頭が言った。


『このわたり、海賊のおそりあり。』


 たちまち船中の者たちは神仏へ祈り始めた。


 主人も、誰より大きな声で祈った。


 その夜、こう書いた。


『船中の者、皆おぢまどふ。』


「皆ではありません」


「誰が平気だった」


「船頭は笑っていました」


「船頭は海賊ではないか」


「その疑いは私も抱きました」


 主人は筆を止め、鼻歌をうたいながら櫂を操る船頭を見た。


「やはり皆ということにしておこう」


「殿が最も怖がっていたことは」


「皆の中に含まれている」


 主語を大きくすれば、個人の恥は薄くなるらしい。


 国司を務めた者らしい知恵だった。


 私も怖くなかったわけではない。


 ただ、主人の祈り声があまりに大きく、自分の恐れに構っている暇がなかった。


 海賊の噂を逃れ、難波まで来たころ、今度は住吉の神が船を進ませないと船頭が言い出した。


 御幣ごへいを捧げても、風はやまない。


 すると船頭は、神がもっと喜ぶ物を欲しがっているのだと言った。


 主人は苦い顔をした。


『眼もこそ二つあれ。ただ一つある鏡を、たいまつる』


 目は二つあるのだから、鏡の一つくらい差し上げよう。


 そう言って、たった一枚の鏡を海へ投げた。


 ほどなくして風は静まった。


「神の御心が満ちたのであろう」


「船頭の心も満ちたように見えます」


「何が言いたい」


「風がやむのを知ってから、鏡を求めたように見えましたので」


 主人は船頭を見た。


 船頭は海を見た。


 私は紙を見た。


 三人とも、見るべきものをよく心得ていた。




 旅のあいだ、主人は何度も女心を考えた。


 だが、一度だけ、女ならどう書くかと尋ねなかった夜がある。


『京にて生れたりし女子、こゝにてにわかにうせにしかば。』


 京で生まれた女の子が、土佐で急に亡くなってしまった。


 そこまで書いて、主人の筆が止まった。


 墨が乾いた。


 やがて主人は、歌を書いた。


『都へとおもふも、ものゝかなしきは、かへらぬ人のあればなりけり』


 都へ帰りたいと思うほど、帰らぬ子のことが悲しくなる。


 そういう歌だった。


 私は墨をすり直した。


 手元が震え、紙の隅へ一滴こぼれた。


 主人は墨の染みを見た。


 それから一度だけ、私の顔を見た。


 何も言わなかった。


 私も何も言わなかった。




 京へ着くと、主人は旅の記録を何度も直した。


「これならば、女が書いた日記だと思うであろう」


「どうでしょう」


「まだ私が透けて見えるか」


「初めよりは薄くなりました」


「褒めているのか」


「正しい評とは、そういうものなのでしょう」


 主人は顔をしかめた。


「女にしては、歌の評が厳しすぎるのでは」


「歌に男も女もあるものか」


「ならば、初めから男として書けばよかったのでは」


 主人はしばらく黙った。


「それでは、書けぬことがある」


「女なら書けるのですか」


「女というより、私でない者ならばな」


 その答えだけは、少し見直した。


 主人が欲しかったのは、女の姿ではなかったらしい。


 自分のままでは書けないことを預ける、別の声だった。


 ずいぶん遠回りではある。


 だが、京までの旅も、ずいぶん遠回りだった。


 主人は女の筆を置いた。


 私も、男の筆を置く。


 妻が夫の酔態を書けば、ただの恨み言になる。


 男の従者が主人の酔態を書けば、記録になる。


 そこで私は、男の従者を一人、紙の上に作った。


 紙を離れれば、私は紀貫之の妻である。


 主人は女の声を借りた。


 私は男の声を借りた。


 そして紀貫之は、船に酔った。


 妻としては黙っておくべきことだが、従者としては書き残さなければならない。




お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


『土佐日記』は、紀貫之が土佐から京へ帰る旅を、女の筆を借りて記した日記です。

「男もすなる日記といふものを――」という書き出しは有名ですが、内容を詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。酒宴や船旅を軽やかに綴る一方で、土佐で亡くした娘への悲しみも記されています。


なぜ貫之は、女の声を借りたのでしょう。

本作では、その傍らにもう一人、別の声を借りた者がいたことにしました。

自分のままでは書けないことが、あったのかもしれません。


気に入っていただけましたら、是非、他の『続きそうな短編集』もご一読ください。

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