5.世界
世界――個人にとっては閉じたままの扉そのもの。誰しもがそれを開く権利を持っているが、誰もが目を背け自身に都合よく解釈し、心地よい泡沫に身を委ねる。
世界――すべてを持つものにとっては、くだらない現実そのもの。開いたところで待っているのはどこまでも続く日常だけだ。
だからイルミナ・ロッキンジーは彼女にとって、世界そのものである冬の森という箱庭を愛で続けていた。緩やかに崩壊へと向かい続けている、彼女の家を。
「いったい、何時から?」
誰かが囁いた。わたしには雑音にしか聞こえない、それは古代語だった。
音の羅列。これを知っていた気がする。遥か遠く離れたいつかの未来。
イルミナは音を確かめるように、先ほどから聞こえ続けている声――本当に?――を確認すべく数度繰り返した。音の羅列。古代語。
古代語ってなんだっけ?
わたしにとってそれは……頭痛がする。思考を綴ろうとするたび、脳髄の奥底で何者かが扉を叩いている。いや、叫んでいたのかも知れない。ともあれ痛みの元凶は間違いなくそれだった。いったい誰がわたしの頭に住み着いているというのか。家主に許可も得ず、勝手なことだ。
「君は自分の名前を言えるかい?」
今度はすんなりと入ってきた。名前。それは個人と世界を繋ぐ記号。あるいはわたしと冬の森を切り取るための呪い。
「呪い?」
自身の思考に驚いて、思わず声に出してしまった。声は「ああ、良かった」と独りごちるかのように零した。間違いない、これは声だ。はっきりと聴こえる。
「やぁ、繋がったみたいだ。体調はどうだい?」
「体調……悪くないわ」
「そいつは良かったよ。初めまして、イルミナ・ロッキンジー」
「イルミナ・ロッキンジー」
幾度かその名を口にするが、全く馴染みがない。これはわたしの名ではない。だが、声はそれが確定事項のように言う。なんなのだこれは。間違っている。何もかもが間違っている。だが、それが何なのかが分からない。
分からない?
わたしは気付いた。何故、これが最初に出てこなかったのか。
疑問。
わたしは何なのだ。
わたしは誰なのだ?
叫ぼうとして、出来ないことに気が付いた。わたしには口がない。それどころか、身体が存在していない。それどころか――それどころか、わたしは自身を認識していない。
「わたしは、いったい何なんだ?」
声は出た。だが、それはどこから現出したものなのだろうか。
「あなたはね」
先ほどとは違う声が聞こえた。そう、聴こえた。どこから? いったい、これはなに?
嗚呼、そうなのか。そういうことなのか。総てを悟った。何故だか知らないが、かの声が天啓を授けてくれたかのよう。いや、違う。天啓。それは……。
「あなたは、世界。この世界そのものなの」
そう、彼女に――イルミナ・ロッキンジーに天啓を授けるのは、このわたし。
彼らが、神と呼ぶもの。それがこのわたし。
そう、わたしこそがイルミナ・ロッキンジーだった。
無音。音が無い――それがかくも音に塗れることになるとは、わたしは知らなかった。無音、そして有音。その二つが矛盾なく存在しているこの空間は、歪な壊れものが列挙してくるかのよう。静寂と喧騒、破壊と再生。それらが混ざり合ったこの部屋、それこそが世界であると認識しかけて、わたしははっとした。
いけない。この場に取り込まれるのは良くない。
身じろぎするだけで驚くほどの音。わたしの鼓膜はどんな微かなものだろうと聞き洩らさないだろう。果てしない時にも感じられた詠唱は終わり、目前に陽炎のように佇んでいる世界がわたしにも視認できた。
「世界は死んじゃったんだ。だからこうしないと会話もできない」
隣に居る男がゆっくりと声を出した。単語を区切り、一音を大切に――そしてぞんざいに。異界から発せられる言葉のようで、わたしは居心地の悪さを感じた。
「世界」
確認するように声を出した。そうしないと狂ってしまいそうだった。
世界。それは、今わたしの視界に入る情報そのものだ。
見知らぬ材質の石組みで作られた二十フィート程度の小部屋。
隣に佇む大男。
わたし自身。
ザック。エディ。ピーター。マッシュ警部。アドラー。アルバート。殿下。シャーガー。シャーラスタニ。女王陛下。ミニット。ルエイン。ルカ。ソロモン。ジョリー・アンナ。
脳裏に冬の森で会った彼らの顔が浮かんで消えた。だが、一人足りない。
足りないはずなのに、わたしが彼女を思い出すことはなかった。
その違和に気付いた瞬間、わたしは思わず顔を、ある空間に向けた。
目前の名状しがたい存在。
男だとも女だとも言え、少女のようであり老練たる空気を纏い、赤子みたいな無垢と悠久たる悪意を持つ存在。
――言語化なんて不可能だ。
「言語化なんて不可能――今貴女はそう思ったわね」
鼓膜を叩いた音。いや、直接脳髄を揺らすような感覚。それを紛れなく古代語だと理解してはいるが、決して音ではない。この場が既に彼岸みたいなものだ。わたしは何もかもが間違っていて、総てが正確だと理解しかけている。
理解。
それすらも蚊帳の外な気がした。解る必要なんてない。ただ寄り添えばいいのだ。それこそが……。
「――世界なのだから」
声が微笑んだ気がした。違う。彼女(あるいは彼)は嗤ったのだ。イルミナの無知を、自身を呼んだ大男の愚かさを、何よりこの狂った何か、そのものである自分を。
「世界はね、揺れ動いているんだ。絶えず流れる自身の中で」
「動く?」
当然だろう――そう言う代わりに男は右手をかざした。
「ほら、動いている。ぼくだけじゃない。イルミナ、君だって動いているだろう?」
あなたにファーストネームを呼ばれる覚えはありません。そう言うつもりだったのに、男の一人称が『ぼく』だということが可笑しくて、思考は吹き飛んだ。
直後、空気が緩んだ感覚をわたしは、はっきりと感じた。それとは対照的に震え続ける右手を見た。ああ、確かに動いている。
そう、これこそが世界。
「その通り。わたしはイルミナ・ロッキンジーと呼ばれる貴女であり、隣にいる彼、 ・クウェルブ・イザクそのものでもあり、その実はなんでもない。それこそが世界」
「今、彼のファーストネームを何と?」
「ファーストネームは聞こえない、感じない、理解できない。それは今現在わたしが知り得ない情報だから」
「わたし……?」
「そう。わたしは貴女。貴女は彼」
禅問答のような台詞だ。だが、その通りなのだろう。
何せ相手はこの世の理そのものなのだから。だから。男は言葉を発した。それだけが恃むべきものであると信じて。おずおずと。しかしはっきりと。
「答えを教えて欲しいんだよ。君は口下手なぼくと違って、イルミナに彼女の望む答えを教えてあげられるだろう?」
「それは無理」
「何故!?」
男の代わりにわたしは叫んだ。彼が言った通りだろう。言葉をよすがとするわたしが納得する解を与えられるのは世界そのものだけなはずだ。
おためごかしでいい。あたしに都合のいい答えでいいから欲しい。イルミナ・ロッキンジーはそれだけを望んでいたのに、世界はどこまでも残酷だった。
「貴女が知っていること。その全てが正解だから。イルミナ・ロッキンジー。貴女は先ほどから震えていますね。それは貴女のものではなく、このわたしのもの。貴女が解する言葉をひとつでいいから落としてごらんなさい。それが答えなのだから。これはね、『埋葬』なの」
――『埋葬』。
彼は言った。
「今から『埋葬』を始めよう」
男は言った。
「世界は死んじゃったんだ。だからこうしないと会話もできない」
だが、イザクは言っていなかった。今回の『埋葬』はいったい誰を繋ぎとめるものだったのかを。
言葉が出ない。
大事に、こころの奥底にしまっておいたはずだった名前を呼ばわろうとしても、出てきたものは非情な現実だけだった。
少女の口から出てくる単語は全て古代語。
少女の思考に費やす言語は総て古代語。
わたしは古代語しか解さないようになってしまった。
そう。
わたしは……死者は公用語を話せない。
感想をいただけると励みになります。