現実対虚実
黒。
塗り固められた漆黒の夜空。
宵の口……否、それは虚ろな生き物の形をしている。
ボコボコと泡立ちながら膨れ上がったライゼリュートの背面は、背嚢を思わせる形へと変わる。パキ、メキ、と音を立てながら左右に分かたれた背部から、堰き止められていた川へと一気に流れ込む濁流のごとく勢いで『黒』が噴出する。
轟音が耳をつんざく。
黒色の鱗粉、その粉塵に赤色が混じり始める。
黒に入り混じる赤。
毛細血管を思わせる赤い管が形成されて網状になり、その網に張り付くようにして黒色の肌が形成される。そこに肉付けされてゆく、赤、赤、赤……黒と赤の泡が入り混じりながら筋肉、脂肪を作り上げ淡黄色のリンパ液を撒き散らした。
そう、それは肉の塊。
黒い空を思わせるほどに巨大な肉塊の左右からは、四本ずつ、計八本の脚が血管を生やしながら、筋肉、脂肪を作り、真皮を張り合わせながら生えてくる。
その巨大な脚は――
「きゃぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
数百もの人間を建造物ごと押し潰した。
悲鳴。
悲鳴、悲鳴、悲鳴。
逃げ惑う人々へと向かって、うねりながら喜悦を示した肉塊は『口』を開いた。
それは、空間に開いた『画』だった。
ヒエロニムス・ボスによる絵画『祝福された者の天国への上昇』に描かれた光の漏斗のようなトンネルを思わせる異空間……忽然と眼前の虚空に現れた異空を前にして、天を仰いだ人々は手を差し伸ばし――吸い込まれる。
断末魔だけを現世に残し、隠世へと人体が吸われてゆく。
死ぬ。
死ぬ、死ぬ、死ぬ……人が死んでゆく。
「ラーララーラララー♫」
上部から八本の腕を生やした肉塊は、金剛鈴を鳴らしながらリズムをとり、手にもった五鈷杵をかち合わせて拍手した。
「ラーララーラララー♫」
音痴な声を張り上げ、脚を踏み鳴らしながら。
「ラーララーラララー♫」
肉塊は虐殺へと親しみを籠める。
べちゃ、べちゃ、べちゃっと、真っ赤に染まった足裏が粘つく音を立ててる。
イタリア・ナポリの舞曲であるタランテラの曲調で、穢れのない処女がぶどうを踏んでワインを作るみたいにして、無邪気な肉塊は人体を踏みにじりながら赤い液体を地面へ擦り付ける。
8分の6拍子で、人間がひしゃげる。
あっちへいったり、こっちへいったり。
破壊と惨殺のタランテラは、葬送曲へと移ってゆく。
ひょっこり、ひょっこり、左右に全身を揺らしながら人間を踏み潰す肉塊に乗った唯一の人間。
「…………」
三条屍は、無垢な少女の遺骸を抱えたまま無惨を俯瞰する。
「…………」
その目には、なにも映ってはいない。
「…………」
いや、映そうとはしていない。
ただ、彼は、終わりを見届けようとしているだけだ。
己が大切に抱いてきた全てを壊した世界への怨返しを完遂し、無辜の民に紛れた藤原光栄を確実に殺すため彼は長和六年の禍を観察する。
「…………」
たったひとつ遺った『陽』を救うため。
「…………」
たったひとつ失った『光』を愛すため。
「…………」
三条屍は、人間性を捨てる。
だから、俺は、彼が取り落とした鉈を拾った。
ゆっくりと。
人間を捨てた彼は、俺の方へと目を向ける。
「……陽様の式か」
「俺の存在を感じ取れるってことは、どういう状況なのかは理解出来るだろ?」
「おまえがなにを言っているのかまではわからん……だが、おれにおまえが感じ取れるということは陽様の払暁叙事が強制開眼へと至ったということ」
カバネはささやく。
「陽様は、おまえに助けを求めている」
「理解してるなら、今直ぐにこの狂宴をやめろ」
「いや、おまえにおれを止めて欲しいのか」
彼の濁った目玉が俺を捉える。
「いずれにせよ、おれの答ふは同じ」
彼はつぶやく。
「止められるものなら止めてみろ」
俺は真っ直ぐに駆け走り――カバネは腰の七宝夜桜を抜いて――刃と刃が重なり、紫電が弾け飛んだ。




