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うつくしい本だと思っていた

 蘚苔(せんたい)類も恋をすると言い出したのは夫である。

 最近読んだ本に書いてあったらしい。


 せんたいるい、かろうじて聞き取れたものの、なんのことだかわからない。

「それ、何?」

「苔だよ」

 苔。


 その日は雨が降っていて、私は朝のコーヒーを淹れながら、気だるげな女性作家のようなことを言おうとしていた。

 雨の日に淹れるコーヒーって、雨の匂いがする気がしない? と。


 恋愛の面倒くさい部分を「繊細な筆致」で書きながら、「感受性豊か」に、実はなんでもないことに「ひそやかな驚きを見出し」文章にしたためる女はこの世に存在している。

 おしなべて言動のすべては気だるい。

 夫との生活をエッセイに書きながら、恋人の存在を匂わせ、それでいて孤独で透徹とした作家の魂を持つ自分について語る。

 ついでに、小説にもエッセイにも詩にも、食べ物をさりげなく美味しそうに書き込む。食い意地なんかべつに張ってないわ、でもあのとき食べた薔薇の砂糖漬けや蜂蜜ミルクティーは美味しかった、と。

 そういう女が言いそうなことを、自分もたまには言ってみようかと思ったのだ。


 苔の恋に持って行かれてしまった。


「人間は恋をする。苔も恋をすると考えたひとがいた。苔が発情する条件を見極める実験を繰り返し、つぶさに観察したんだ」

 苔が発情。たしかに、実験で性質をあぶりだそうとするならば、「恋」は内心の揺れ動きではなく「受粉」等の子孫生成の行為として規定した方がよく、その限りにおいて「発情」と言い換えるのが妥当かもしれないが。


「どのように」

「肥しをね。つまり人糞を土鍋で煮て、ぐつぐつに熱したものを与えたときが、一番苔の発情が活性化するとして論文に書いた」

 決して想像してはいけない。雨の匂いを思い出せ。


 夫はそこで、私がこれから読もうと思っていた「第七官界彷徨」という文庫本を持ち上げた。

 大正時代に吉屋信子らとともに活躍した女性作家・尾崎翠。


 いつもSNSにうつくしい料理の写真をアップするユーザーが、魂の一冊として挙げていたので買ってみた。兄や従兄と暮らしながら、詩人になりたいと夢見ている炊事係の女の子のお話だという。めくるめくうつくしい恋と料理の予感。

 気だるげな女性作家とは一風違った、瑞々しさ溢れる内容に違いない。


「若い男女が出て来るが、この本の中で恋が成就するのは苔だけだ。何しろ序盤の印象的なシーンといえば、苔や大根の研究のために部屋に肥しをため込んでいる男が出て来るが、悲惨なことにその部屋をヒロインが掃除しようとしたときに、それを端からひっくり返してしまうくだりで」

 そこまで言ってから、夫はようやく重大なネタバレをしたことに気づいたらしく、口をつぐんだ。


「およそ想像を絶する」

 私は素直に感想を告げた。あのうつくしい写真を撮り続け詩のような言葉とともにSNSにあげていたユーザーは、何を思ってこの本を魂の一冊として紹介したのか?

(料理ものでは最近定番の「江戸」から少し時代が下った頃の、決して豊かではなくとも丁寧な食生活が書かれた珠玉の小説だと信じていたのに)

 まさか部屋の中で、肥しを土鍋で丁寧に煮る様子がつぶさに描かれた本だったとは。


(想像を絶する上に、ネタバレをされたけど)

 読む。

 掃除をしようとして「余計なこと」をしてしまったシーンまでたどり着いたら、あまりの不幸に泣いてしまうかもしれない。気を強くもって読もう。


「私まだ読んでないの」

「そうだよね。ごめん、置いてあったから読んじゃった」

 夫は神妙な様子で謝って本を差し出して来た。

 それから「ありがとう」と私がドリップで丁寧に抽出したコーヒーのマグカップを持ち上げた。


 窓の外はやや薄暗く、しとしとと雨の降る音がする。

 真新しい文庫本の一ページ目を開いた私は、すでに目で文字を追っていた。


「今日は雨だね。雨の日はコーヒーまで雨の匂いがする」

 夫が、私の言おうとしていたはずのことを独り呟いていた。

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