居眠り姫と王子様・21
年一投稿……!
自分が出した結論に責任を持とうと思う。けれどその結論で苦しい。後戻りはしないけれど、立ち止まってしまった。先に進むことが怖い。とても怖い。目指したものすべてを手放したこの先、いったいどうなるのだろう。
「――ちょっとすっぱいな。が、それがいい」
りんごを芯まで食べ尽くした上司が、ヘタの部分をポケットに入れたのをイェルクは見た。たしかにポイ捨てはいけないけれど、ポケットもないな、と思った。そんな風に自分のことも冷静に考えられたらいいのに。イェルクは今、人生の中で一二を争うような混乱の中にいる。
もう、決めたことだ。そう思ってあいさつ回りをしていた。ここのサボり場がスヴェンにバレていたことはちょっとした誤算だったけれど、かえってよかったと思う。一番心にかかっている人へ……あいさつに行く決心がついた。
「師匠」
屋上に両手足を広げて寝転がったままイェルクが声をかけると、スヴェンは「んー」と空を見ながら答えた。
「いっしょに、あいさつ行ってくれますか。――ハイデマリーさんのところへ」
予想していたのだろうか。スヴェンは「ああ、いいぞ」と即答してくれた。ありがたいな、とイェルクは思う。
その後、その場に沈黙が落ちた。街の喧騒が建物の壁を伝ってここまで上って来る。しばらくして、スヴェンが「……行かないのか」とつぶやく。
「行きますよ」
「……なにしてんだ、じゃあそれは」
「時の流れと空の青さには相関性があるのではないかと今思いついたので考えています」
「いや起きろよ」
スヴェンのつっこみに、イェルクは寝そべった姿勢のままで「待ってください。これはきっと世界の深淵に触れる内容だ」と早口で言った。スヴェンが実力行使で起き上がらせようとすると「いやあ! いやあ! 暴力反対!」とイェルクは転がって逃げる。
呆気にとられたスヴェンは、深呼吸の後に立ち上がり、イェルクを捕獲にかかった。
「いやああああああああ!」
「行くんだろうが、ハイデマリーのところへ!」
「いやああああああああ! いきたくないいいいいいいい!」
「問答無用だ。行くぞ」
ここ数年で背がめっきり伸びたイェルクでも、体格のいいスヴェンの手にかかればひょろがりの青年なのだろう。腰に腕を回され、ひきずって屋上から連れて行かれる。そうして建物から出されてしまえば、人目もあるので自立歩行しなければならない。
追い立てられるようにイェルクは商店街の中程にある花屋へと向かった。そこの売り子のおねえさんのハイデマリーさんは、かねてからイェルクの憧れの存在だったのだ。いろっぽい。とてもいろっぽい。今日もすてきだ、とイェルクは客と談笑しているその姿を見た。
「ほい。しゃんとして。行って来い」
スヴェンに背中を叩かれた。その叩き方が強くて数歩よろめいた。それで、ハイデマリーさんの視線がこちらを向き――
「――あらあ、イェルクに、スヴェンじゃない。お疲れ様!」
その、本当に花のような笑顔に、イェルクは腹をくくって彼女の前まで歩み寄った。
****
「メヒティルデのこと、本当に感謝しております」
応接室に二人を迎え入れ、女中が茶の準備を終えて壁際に下がった後。エルザ妃殿下はそう述べてルドヴィカへとほほ笑みかけた。
ルドヴィカは一気に緊張した面持ちで「滅相もございませんわっ」と述べる。ユリアンは少し笑って茶を口に運んだ。
本日妃殿下と同行されたアーダルベルト王子殿下の、年の離れた妹君。六歳のメヒティルデ殿下のやんちゃ振りは、ルドヴィカからも、ヨーゼフからも聞き及んでいる。ユリアンの子どもたちは二人とも幼少期から快活ではあったが、耳にした内容よりはずっとマシだったと思う。
幼い殿下に手本となる年長者が必要だというのは本当のことだろう。それにルドヴィカが選ばれたというのは得難い特権だ。それと同時に、これがルドヴィカにとって外との関わりを持つ機会となればいい。ユリアンも、そしてこの話を持ってきたヨーゼフもそう願っている。
「さっそくあなたの真似をしようとしています。それに、あなたとお食事をしたいみたいなの、あの子は」
エルザ妃殿下は、母親の顔でそう言った。先日、ルドヴィカの真似をして、クッションを持って逃げ回っていた話は聞いている。メヒティルデ殿下に懐かれている父ヨーゼフが上手く納めたみたいだが、子どもらしい発想の行動で思わず笑ってしまったものだ。
「……お食事ですか?」
「ええ。ルイーゼはとても綺麗にフォークを使うのですよ、と言ってみましたの。自分もそうしようと努力しておりますわ」
「まあ、それはすばらしいですわ!」
「シャファトのお家に行くのは、綺麗にフォークを使えるようになってからね、と約束しましたの」
エルザ妃殿下はそう言ってほほ笑む。それで今日は伴わなかったのか、とユリアンは得心した。話に聞いているメヒティルデ殿下であれば、二人がシャファト家へ行くと言えは、きっと来たいと言うだろうから。ルドヴィカも、六歳のころは苦労してフォークとナイフを使っていたものだ。子ども用の高めの椅子を用意しておかねばな、と思いながら、ユリアンは笑った。
「いつでもおいでください。王宮のように大きくはない屋敷ですが、精いっぱいのおもてなしをさせていただきます」
ユリアンがそう言うと、ずっと薄い笑みを浮かべて黙っていたアーダルベルトが口を開いた。
「――子どものころ、何度かお邪魔したね。そのときは、どうしてシャファト伯爵ともあろう方が、こんなに小さな邸宅で満足しているのだろうと思ったが……」
すっと部屋の中を見回すように、彼は続けた。
「……大人になったからわかることもあるね。とてもいい屋敷だ」
「ありがとうございます。代々のシャファトが愛してきた屋敷ですので、そう言っていただけてうれしいです」
「そうだろうとも。僕もここに住みたくなったよ」
お世辞ではない響きでアーダルベルトが言うので、ユリアンは「そこまで言っていただけて、恐縮です」と返す。自分の家が評価されるのはうれしかったのか、ルドヴィカは笑顔で「そうでございましょう!」と言った。アーダルベルト殿下は笑みを深めた。
「僕もルイーゼとお呼びしても? ルドヴィカ嬢」
「えっ? ええ、はい、どうぞ……」
思わぬことを言われたのか、ルドヴィカの言葉の最後は消え入りそうだった。元はと言えば快活なルドヴィカも、病を得てからは社交をしておらず、ユリアンもそれをよしとしてきた。よってどう反応するのがふさわしいのかわからず、気後れしたのかもしれない。ユリアンは安心させるためにこちらを見てくるルドヴィカへほほ笑んだ。あきらかにルドヴィカはほっとする。
「以前お会いしたときは、僕も幼かったし君もまだ少女だった。来年デビュタントと聞いたよ。素敵な淑女になったね」
ルドヴィカはびくりとして「えっ、ええ? あ、ありがとうございますわ……?」と疑問形で答え目を泳がせる。ユリアンは隠さずに本題へ入ってきたアーダルベルト殿下へ、笑みを向けた。
「ルドヴィカの、お披露目宮廷舞踏会のエスコートを申し出てくださったこと、本当に有り難く思っております」
「僕もそれなりに意を決して申し込んだんだけれどね? 振られてしまって、意気消沈している」
「本当に恐れ多いことです。息子のイェルクがぜひに自分が、と言っておりまして」
「うん、聞いたよ。それなら僕も引き下がらずを得ない」
苦笑しながらアーダルベルト殿下は言った。ルドヴィカはきょとんとした顔でユリアンを見る。そこらへんのことは話していなかったので、初耳過ぎて驚いたのだろう。
「――デビュタントにつきましては、娘もこれから体調を調えて行くところでもあります。もしものときのために、すぐに応対できるイェルクがふさわしかろうとも考えております」
アーダルベルト殿下は、理解していることを示すように深くうなずいた。そして「もし問題なく参加できるようだったら、僕からダンスを申し込んでも?」とルドヴィカへ向き直って言った。
「――だ、だだだ、ダンスですの!? わたくし、ぜんぜん、できませんわ!」
宣言するようなことでもないが、本当にそうなのだから仕方がない。ユリアンは苦笑して「それも、これから準備だね」と告げた。ルドヴィカは戦々恐々と肩をすくめる。
「あら、では、王宮へいらしたときに、メヒティルデといっしょにダンスのお勉強するのはいかがかしら?」
エルザ妃殿下が、まるで今思いついたかのように言った。おそらくそれも今日の議題のひとつなのだろう。ルドヴィカは今日何度目かの驚いた顔で「まあ、まあ! 殿下もお勉強されるのですか?」と言った。
「ええ。そろそろルイーゼのような淑女になってもらわなければね? あの子の調子に合わせて教育しようと思っていたけれど、今はなんでもやりたがるのよ。この機にね」
ルドヴィカがいい影響を与えているようだ。きっといっしょに練習するとなれば、それは見事に上達しそうだとも思った。子どもの吸収力はすさまじい。父ヨーゼフも、かねてからユリアンへメヒティルデ殿下の聡明さについて述べていた。
「メヒティルデ殿下は、体を動かすのがお好きだと父から伺っています。きっと良い踊り手になるでしょう」
「あら、あの子のお転婆を良く言ってくださってありがとう」
「御母堂のダンスのお上手さは、身に沁みて存じ上げておりますので」
互いに独身時代には、虫よけのためにファーストダンスを都合しあっていたものだ。懐かしく思い起こしながらユリアンは笑った。昔を眺めるような視線で、エルザ妃殿下も笑った。
「それを言うなら、ルイーゼもそうではなくて?」
「きっとそうでしょうね。イェルクも、そんな素振りはぜんぜんなかったのに、先日完璧に踊ってみせました」
「まあ」
扇を開いて口元に当てて、エルザ妃殿下は驚きをあらわにした。アーダルベルト殿下も意外だったらしく「へえ、そうなんだ」とつぶやいた。
「――まあ、お兄様はダンスもおできになりますの? さすがですわ!」
ルドヴィカが声を張り上げた。彼女にとって、イェルクは自慢の兄なのだ。長年民間の職業である警らを勤めながら、貴族としてのたしなみであるダンスをこなすと知って驚いたのだろう。両殿下の前で身内自慢になりユリアンはひやりとしたが、二人とも意に介さず笑う。
「あら、ではわたくしも、宮廷舞踏会でお相手をお願いしようかしら?」
「父さんがイェルクを睨み殺してしまいますよ。やめてあげてください、母さん」
朗らかな笑い声にルドヴィカも続いた。それはルドヴィカが、現国王の度を越した愛妻家、ジークヴァルト・フォン・トラウムヴェルトその人を知らないからだ。ユリアンはまったく笑えずに茶を口に運んだ。
「では、ルイーゼ。メヒティルデとともに練習してくださいますか?」
「まあ、まあ! 光栄ですわ! 適いますならば!」
エルザ妃殿下はその返事にほほ笑んだ。その表情には、やはり母親のような慈愛がある。
妃殿下は、ユリアンの妻――イェルクとルドヴィカの母であるオティーリエの親友だったのだ。よって、シャファトのことはいつも気にかけてくれている。だからか、彼女が次に口にした言葉を、ユリアンは温かな気持ちで聞いた。
「――ルイーゼ。わたくし、あなたのことを自分の娘とも思っておりますのよ。どうか頼ってくださいましね。できる援助はさせてちょうだい」
ルドヴィカはやはり驚き「まあ、もったいないお言葉ですわ! ありがとう存じます!」と言った。
オティーリエが存命だったころは、よくエルザ妃殿下もアーダルベルト殿下を伴って遊びに来ていたものだ。しかし、赤ん坊だったそのころの記憶はルドヴィカにはないのだろう。ユリアンも、あえてそのころの話はしなかった。
ルドヴィカの睡眠障害は、もしかしたらオティーリエの死が引き金になっているのではないか。
ずっと、そのことを、ユリアンは思っている。
その茶話会は和やかに終わった。共に昼食を、とユリアンが促すと、両殿下はそっくりな笑顔で会釈した。
****
肩を落とし項垂れ打ちひしがれて、とぼとぼと自分のところへ歩いてくるイェルクを、スヴェンは苦笑いで迎えた。その黒髪の頭をぐしゃぐしゃと撫で回して「よくやったよ、おまえは」と言う。
「――すっきりしただろ?」
ただそうひとこと聞いただけだが、イェルクは顔を上げて猛然と食いかかって来た。
「すっきりってなんですか⁉ 僕が振られるの前提だったんですか⁉」
「そりゃそうだろ。いくつ離れてると思ってんだおまえ」
「いくつですか⁉ いえ、そんなことよりも! 聞いてください師匠! 二人ですよ⁉」
「なにが」
しっかりとスヴェンの両腕をつかんで、助命嘆願もかくやといった勢いでイェルクは言った。
「――二人ですよ! 今日! 僕は! 二人の女性から振られたんですよ!」
「はあ? ハイデマリーの他に? だれだよ?」
どうやら、午前中にだれかとそんな話をしたらしい。警ら区域内で、そんな色恋沙汰の話は他にあったか? とスヴェンは首をひねった。
「二番商店街裏道通りの!」
「あー、うん」
「――カティンカちゃんに、婚約破棄されました!」
スヴェンは沈黙した。通行人の笑い声が通り過ぎて行く。イェルクは涙目でスヴェンを見上げている。
「……だれだ?」
「師匠も会ったことがありますよ! 以前かぼちゃの煮物をくれた奥さんのお宅です!」
「あー。あー?」
理解したが、理解できなくてスヴェンは二番商店街の方向を見る。そして、もう一度イェルクを見た。
「……あの家には、奥さんの他に、幼女しかいなかったが?」
「幼女とは失礼な! 淑女としての心根を持つ立派な娘さんですよカティンカちゃんは!」
「四歳だったか……?」
「イェルクのお嫁さんになってあげないって言われたんですよ! ずっと僕と結婚するって言ってくれていたのに!」
ぐぐう、と喉を鳴らして、イェルクはまた項垂れた。あまりにもしょーもない話にスヴェンがため息をついた。
「……イェルク」
「……はい」
「失恋の憂さ晴らしだ。仕事上がったら、飲むぞ」
スヴェンがそう言うと、イェルクは少しだけ頭を上げた。
「――おまえが好きな店でいい。俺のおごりだ。だから、先に詰め所戻って、日報書いとけ」
「承知しましたー!」
風のようにイェルクは去って行った。その単純明快さにスヴェンは笑った。
イェルクの背中が見えなくなったころ、スヴェンは先程イェルクが特攻し散った花屋へと足を向けた。そして店主の女性へ話しかける。
「――ありがとうな。マリー」
「あいよ。この礼は実家に帰省でいいよ。伯母さんからスヴェンはどうしてるって何度も問い合わせが来てるんだ」
「たっけえな。もう少し負けろ」
「じゃあハガキでも書いてやんな。母親孝行だ」
もう十年近く実家とは連絡を取っていない。従姉弟のハイデマリーとこの街で再会したのは偶然だ。死んだと思っていた息子が王都で警らをしているとわかって、実家では宴会になったらしいと聞いている。筆不精が災いしてこんなことになってしまったが、今度ばかりはそうも言っていられないだろう。
「そうだな……書いてやるか」
「あらあ、えらく素直だね」
「イェルクを見ていたら、そりゃ、な」
イェルクがこうして、好きな警らを辞める決意をしたのは、ひとえに家のためだ。
イェルクは、理解している。自分が今行っていることは、人の道には沿っていても、御家のためにはならないと。
だからこそ、警らをやめて、貴族としての正しい道――騎士を選んだのだ。
「それにしても……あんたの頼みとはいえ、惜しいことしたわあ」
「……おいおい」
「かわいいし、お貴族様だし。受けていたらあたし、一生食うに困らなかったわねえ。あー、もったいない!」
「やめろ! イェルクをおまえの毒牙にかけようとするな!」
見た目は二十代だが、自分と同じ三十代で三度の結婚経験がある毒婦の従姉弟へ、スヴェンは声を張り上げて言った。
「冗談よ。あたしがお貴族ごっこなんてできるわけがないじゃない」
「冗談に聞こえんかったが」
「そりゃ多少ね? 遊んでもよかったかな、とかね?」
「やーめーろ」
トラウムヴェルト警ら隊第七班地区は、第六班の方向から少しずつ夕闇が近づいていた。
ハイデマリーは「さてえ、あとひと仕事して、閉めますかねえ」と言いながら腰をさすった。
スヴェンは、見るともなしに橙色の日を眺めて、イェルクが護ろうとしていた街を見やった。