某高校生の悩乱
死神になったと言っても実感は湧かなかった。
特段、変わったところは見受けられない。死神のイメージとして真っ先に浮かぶあの大鎌も、「まだ千隼には早いよねー」と渡してもらえなかった。みんなが羽織っている黒衣も、「千隼の学ラン黒いしそれでいいんじゃなーい?」と、そのままだ。
死神。アニメや漫画でよく見る存在に自分がなってしまったのだが、なんとも言い難い気分だ。普通の高校生が勇者や王様になる、だとかいう類の創作はよく見かけるが、死神はどうなんだろうか。喜ぶべきなのか怯えるべきなのか……とりあえずは保留にしておこう。
「“玖の称号を以って命ずる。開け”」
城を出ると堅固な石造りの門。重々しく巨大な扉は、かざりが一言そう告げるだけで、石が擦れる地響きのような音を立ててひとりでに開いた。
なんで開くんだ。電動か? 赤外線センサーか何かで人を感知しているのか? ……いや、たぶんファンタジーなんだろうな。俺はそういう世界に足を踏み入れてしまったのだ。
「蒼井くん、行こうか」
立ち尽くして門を眺める俺に声を掛けたのは、黒髪の男。こちらに向かって手招きをする指先まで洗練されてしなやかだ。しかし、にこやかで物腰柔らかではあるが、友好的ではない。目が俺を値踏みしている。
「……ジェッツ」
「おや、まだ僕は怖がられてしまっているのかな」
よく言う、刺々しい態度を隠しもしていないくせに。
目を細めた様子は狡猾な蛇を思わせる。やっぱり、彼は要注意人物だ。
「あっ、目を離した隙にこれなんだから。ちょっとジェッツ、やめてよねー」
俺たちのやり取りに気づいたかざりが、すぐに割って入ってくれた。文句を言われても、ジェッツは曖昧な笑みを浮かべてさらりと受け流す。本当に何を考えているのか分からない。
「これでも僕は、蒼井くんと仲良くしたいと思っているのだけれど」
「うっわー、心こもってない言葉だ。これがお貴族サマのスキル・社交辞令ってやつだね」
「かざりちゃんはもう少し社交辞令が出来るようになるといいね」
「いやいやちょー出来てるから。ジェッツさ、そんなに一々細かいこと言ってると陛下になっちゃうぞ?」
「ふふ、何かと我が主を引き合いに出す辺り、かざりちゃんは我が主が大好きだね」
「むっかー、めっちゃむかつくんですけど」
わざとらしく頰を膨らませたかざりは俺に腕を回し、「もうさっさと行こ!」と俺を引っ張った。
かざりに導かれるままに門をくぐる。そこに広がっていたのは、黒い湖。夜空を映した水面が黒く染まって見える。そして奇妙なことに、夜空に浮かんで煌々と輝いているのは、二つの月だった。赤い月と、青い月。それらもまた、湖に映って水面に溶けていた。
「不思議な光景だな」
今度の絵の題材に、こんな風景を描くのもいいかもしれない。またみんなからはシュールレアリズムなどと言われるかもしれないが。
湖の岸には数隻の小舟が泊められている。かざりはそのうちの一つの縄を手繰り寄せて、振り返った。
「さっ、早く乗ってー。千隼、落ちないようにね」
「うん、気をつけるよ」
「大丈夫、僕が抱えて乗せてあげよう」
「遠慮します」
お姫様抱っこと言うのだろうか、よく王子様がやっているような抱え方のジェスチャーをするジェッツ。絵面を想像するだけでも奇怪すぎる。即答で拒否してしまったが、ジェッツは特に気を害した様子もなく笑っていた。かざりは「うんうん、この腹黒紳士にはそれくらいの塩対応が丁度いいからね」と、真顔で深く頷いた。
身軽に舟へ飛び乗るかざり。ジェッツもそつなくそれに続く。ボートどころか舟にも乗ったことがない俺が躊躇っていると、かざりが手を差し伸べた。
「ほら、おいで」
色白で細い手。これに頼ってしまっていいのだろうかとまた逡巡していると、痺れを切らした右手は俺の手首を掴んで、舟の中へと引き込んだ。勢い余って飛び込むと、小さな舟は大きく揺れる。ひっくり返るんじゃないかとひやりとしたが、二人は全く気にした様子はない。
「さて、楽しいクルーズの前に、かざりちゃんから注意でーす。舟から絶対落ちないようにね。前にも言ったけど、空間移動する時の闇は落ちたら最後、二度と戻って来れないんだからね」
注意点を胸に刻み、神妙に頷いた。かざりの発言の八割は戯れ言だということは、少し一緒に過ごしただけで既に理解したが、こればかりは脅しではないようだ。
俺の素直な返事に頷き返したかざりは、改めて出航の準備に取り掛かる。オールを手に取ると、それをすぐにジェッツの胸へと押し付けた。しかしジェッツは笑顔を絶やさないまま、それを文句一つなく受け取った。
舟はゆっくりと動き出す。かざりは俺の隣に腰を下ろした。
「やっぱジェッツは、似非とはいえ紳士だねー。アーソルドに見習わせたいよ。あいつは『かざりちゃん的死神男子ランキング』のワースト争ってるからね」
「なにそのランキング」
思わず口を挟むと、かざりは何故かドヤ顔で披露し始めた。
「一位瑞雪、二位ジェッツ。ここは基本的に不動だねー。瑞雪は根暗そうに見えるだろうし、まあ実際根暗なんだけど、すっごい気が回るんだよね。千隼も気が使える男子になるんだよー?」
「ちなみに、どうしてアーソルドは最下位争いしてるの?」
「デリカシー皆無だからね」
……それをかざりが言うのか。
口から出そうだった本心をすんでのところで飲み込んだ。うっかり言ってしまったら、俺もデリカシー皆無の烙印を押されていたことだろう。
「僕が瑞雪を超えられないのはどうしてだい?」
緩やかに舟を漕ぎ進めていたジェッツが悪戯っぽく尋ねる。かざりはジトッとした視線を送った。
「ジェッツは趣味悪すぎるんですー。聞いてよ千隼、こいつ成人男性のくせにお人形遊びが趣味なんだよ」
「おや、かわいいいものを愛でるのは人のさがだろう?」
「こっわー。猟奇殺人鬼みたいなこと仕出かしそうだわー」
「ははは、まさか。君も一度、僕の人形を抱いてみれば分かるさ、彼ら彼女らの愛おしさがね」
かざり曰く、ジェッツの部屋は大小様々なドールで溢れ、入った瞬間、無数のガラス玉の目が出迎える、ヒュプノス・キャッスル屈指の危険地帯らしい。絶対に入らないようにしよう。尤も、俺からしたらゴミ山のようなかざりの部屋も危険地帯なのだが。
「――かざりちゃん、趣味は人それぞれだ。とやかく言うのは良くないんじゃないかな」
ジェッツは悲しそうに眉を下げて嘆いた。だがその表情も作り顔のように感じてしまうのは、俺の考えすぎなんだろうか。
その時、不意にこちらを向いたジェッツと目が合ってしまった。ドキッとした俺とは対照的に、ジェッツは笑いかけてくる。
「君も趣味はあるだろう、蒼井くん」
「……趣味?」
まさか話を振られるとは思っておらず、ぽかんとしてしまう。
趣味。絵を描くことはもはや習慣で、好んでやっていることとは言い難い気がする。かといって、じゃあ好きなことってなんだと訊かれても、口ごもるばかりだ。
昔からそうだ。俺は好きも嫌いもよく分からない。熱中してできることなんて知らない。だからこんな鈍くて無感動な人間になってしまったんだろう。
自分のことは自分が一番よくわかっている。俺は、一緒にいてあまり面白い人間ではない。
どう答えるべきか悩んでいると、肩に軽く手を置かれた感覚。かざりだ。
「そりゃあ絵でしょ。あんたと違って千隼は健全なんですぅー」
「……そうなのかな」
「ん?」
顔を上げると、かざりの蒼い目が俺をじっと見ていた。俺の呟きを拾って、言葉の続きを促していた。
「好きなのかよく分からないんだ、絵を描くことが。それでも趣味だって言えるのかな」
趣味だと言い張って良いのだろうか。
死神たちとの関わりは思いの外、自分のコンプレックスを刺激するものだった。誰もが、思い思いに振舞っているように見えたからだ。曖昧で薄ぼんやりとした俺とは違いすぎた。
勝手に深みにはまって鬱々としている俺を、かざりは呆れるだろうか。
「はあ? あんたいつも静かだと思ったら、そんなめんどくさいこと考えてたわけ?」
やっぱり、呆れられてしまった。
かざりは腕を組んで溜息をついた。そして、それから、
「好きじゃなかったら延々と描いてないでしょが。いーんだよ、ずっとやってればそれが趣味で」
額に小さな痛み。
指先で俺の額を弾いたかざりは、全てを軽く笑い飛ばした。
「うっわー、びっくりだわ。大人っぽい澄まし顔してると思ったら、頭の中ではそんな思春期してたんだね。可愛いところあるじゃん」
「本当だね、かざりちゃんよりよっぽど食指が動くよ」
「はいそこセクハラー、変態紳士は黙ってねー」
ずっとやってれば、それが好きなことになる。
なんて適当な。……でも、俺にはそれくらいの適当さがちょうどいいのかもしれない。
「ほら、さっさと漕がなきと日が暮れちゃうよ。船上野宿なんて私やだからねー?」
「それは僕もお断りしたいね。さて、お喋りも程々にしてそろそろ行こうか」
舟のスピードが上がる。やがて目の前に、ぽっかりと空いた黒い何かが見えてきた。ブラックホールのような黒々とした闇に、湖水が流れ込んでいく。
「――人の世へ」
強く舟全体が揺れた。かざりの手が、落ちないようにとばかりに俺の背に回された。
船体は湖水に流されて闇の中へと吸い込まれた。