35 混ぜる
調理場には、甘い香りがふんわりと漂っている。
「──まあそんな感じで、事後調査の途中で私たちは帰ることになったんですけど」
襲撃から数日が経ち日常へ戻りつつある中でこうして台所に立っていると、あの日の騒ぎがまるで遠い出来事だったようにも思えてくる。けれど少しでも気を抜けば、あの時に聞いた警鐘の音や、結界が揺らいだ瞬間の嫌な感覚が蘇ってくるのだから、完全に忘れられたわけではない。
むしろ普段と変わらない生活へ戻ったからこそ、あの時の異常さが際立って感じられるのかもしれない。
話している私の隣では、汐凪の母である水筑家の奥様も同じように小さな鍋を火にかけていた。小鍋の中で透明な液体がぐつぐつと泡を立て始める。
奥様は時折相槌を打つ程度で、こちらへ余計な口を挟むこともなく私の話へ耳を傾けていた。
「そう……大変だったのねえ」
奥様はしみじみと呟きながら、鍋をゆっくりと揺すった。火から少し離して状態を確かめ、それから頃合いを見計らうように鍋を火から外す。
私も同じように火加減を調整すると、鍋の中で煮詰まった液体がとろりと流れ、先ほどまでよりも濃い甘い香りが立ち上った。
「でも、無事でよかったわ」
「はい」
そう答えたものの、私は少しだけ視線を落とした。
あの時のことを思い返せば、こうして何事もなかったように調理場で鍋を揺すっていられること自体が、随分と幸運だったのだと思う。
「……汐凪様を危険な目に遭わせてしまって、申し訳ありませんでした」
改めて口にすると、胸の奥が重くなる。
汐凪が襲撃の渦中にある千金楽まで来たのは、私の安否が分からなかったからだ。もちろん彼自身が判断して来たことではあるし、私が呼んだわけでもない。それでも、結果として危険な場所へ足を運ばせてしまったことに変わりはない。
「私も、もっと早く安全な場所へ移動していれば……」
しゅんと肩を落とす私を見て、奥様は一度だけ目を瞬かせた。
それから、何でもないことのように鍋を揺らす。琥珀色が広がり、飴色になった液体が揺れた。
その動作はあまりにも落ち着いていて、私が今しがた口にしたことなどさほど深刻に受け止めていないようにも見える。
「人を守るのもあの子の役目だもの」
そう言いながら、奥様は型へ飴色の液体を流し始めた。細い筋になった飴がとろりと型の底へ落ちていく。
「まして大事な婚約者なら尚更ね」
「……いえ、あの」
その言葉には、からかうような響きが少しだけ混じっていた。
私は思わず顔を上げて何か訂正しようとしたものの、何をどう訂正すればいいのか分からない。いや訂正するのも変な気はする。
私は誤魔化すように手元の鍋へ視線を戻し、奥様の真似をするように液体を型に流していく。
なんとか最後の一つまで流し終え、ほっと息を吐いたところで、ふと向かいで様子を見守ってくれていた和沙おばさまの顔が曇っているのが目に入る。いつもなら柔らかく笑っている人なのに、今は型へ視線を落としたまま、どこか考え込むような表情をしていた。
「おばさま?」
「あ、いえ……」
声を掛けると、和沙おばさまは一瞬だけ驚いたようにこちらを見る。
けれどすぐにいつもの穏やかな表情を作り、型の中身を確かめながら、小さく首を振った。
「依玖様も若様も、お怪我もなく無事にお戻りになられて、本当によかったです……」
私たちが無事だったことを喜んでくれているのだと分かる一方で、その表情には、もう少し別の感情も混じっているように見えた。
今回のことを思えば、使用人の立場からしても穏やかではいられなかったのだろう。次期当主が危険な場所へ向かったと聞けば、待つ側の不安は想像するしかない。
「ご心配をおかけしてしまって、すみません」
「いえいえ、とんでもございません」
和沙おばさまは慌てたように首を振り、少し困ったような笑みを浮かべる。
「そうねえ……」
ぽつりと零れた声に顔を上げると、奥様が並べた型へ手を伸ばしていた。
指先から淡い光が広がり、揺らめいていく。
普通なら粗熱が取れるまでしばらく待つところを、水の霊力を使ってゆっくりと熱を覚ましているらしい。急激に冷やして固めるのではなく、表面だけでなく内部に残った熱まで丁寧に抜いていくその扱いは、さすが長年術を扱ってきた人の技術だ。私は感心しながら眺めていた。
「汐凪が大人しく待っていたとして、依玖ちゃんが擦り傷の一つでもつけて帰ってきてたら、それはもう大変なことになっていたわねえ……」
「……え?」
「本当に、大変だったでしょうねえ」
「え、あの……」
口元に浮かんだ笑みを見る限り、どうやら私の想像よりも随分と大事になるらしい。
確かに、私の安否が分からないというだけで、自分の立場も顧みず駆けつけてきたくらいだ。もし私が怪我でもして戻っていたら、一体どうなっていたのだろう。
想像しかけて、私はそっと考えるのをやめた。
奥様はそんな私の様子を楽しむように眺めてから、再び手元へ視線を戻す。
「まあ、何事もなくてよかったわ。……このくらいまで冷めれば大丈夫ね」
そう言って、奥様は指先で確かめるように型に触れ、それから満足そうに頷いた。
先ほどまで熱を帯びていた鼈甲飴は、すっかり表面が固まり、琥珀色の光を閉じ込めたように艶めいている。
型を傾ければ、固まった飴がころころと転がり出て、用意していた皿の上へ小気味よい音を立てながら並んでいった。
その様子を眺めながら、私も自分の作ったものへ手を伸ばす。そっと型から外してみれば、こちらも一応は綺麗な形を保っていた。奥様が作っていたものとそう変わりない。見た目は。
私は自分の出来をそっと確認しながら、できるだけ奥様のものから離して置く。
ところが、その動きを見逃してくれるほど奥様は甘くなかった。
「……混ぜちゃいましょ」
「えっ」
聞き返す間もなかった。
奥様は楽しそうに笑いながら、自分の作った飴を乗せた皿をひょいと持ち上げ、そのまま私の作った飴の並ぶ皿へ傾けてしまう。ころころと小さな飴が転がり、私の作ったものと混ざり合っていった。
目を瞬く私に向けて、奥様が悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
「これでどっちが失敗したかわからなくなったわね」
「奥様……!」
私は両手で口を覆った。
失敗している前提の口ぶりである。




