あなたは誰
「何か聞こえるなと思ったら……はは、誰が知らせに行ったのか」
カーテンを巻き上げた風が部屋へと吹き込んでくる。部屋の空気が爽やかな風で攪拌され、先ほどまでより濃く芳醇な香りで満たされる。
そして、風が運んできたものは香りだけでなく、耳をも刺激した。
風の音に紛れて何か聞こえる。
「妃殿下、聞こえますか……この声が」
レイスに促され、窓の外から聞こえる音に耳を澄ませてみた。
「妃殿下ー! ありがとうございます!」
「ご無事で何よりです」
「王妃さまぁ。ありがとー!」
ザワザワとした喧騒は全て、リナフィアの目覚めを喜ぶ民の声だった。
まるで、ミレーネがリナフィアを見たときのように、彼女は口をわななかせ、きゅうと眉間を絞ると、頬に幾本も涙の筋を作った。
「……っ」
顔を覆った指の隙間からこぼれ落ちた雫が、布団の上にいくつものシミを作っていく。
自分など、存在しないものと思われていると思っていた。もしかして今回も見捨てられるのかとも。
それでも良いと言ったのは自分だ。見捨てられようと、自分が国母であることには変わりなく、差し伸べた手は無駄にはならないと信じて。
まさか、握り返してくれる者達が、これほどいようとは。
もし、回帰当初のまま復讐心だけで生きていたら、このような感情を覚えることは無かっただろう。見つめる相手は復讐すべき相手のみで、きっと暗く閉ざされた世界になっていたはずだ。
でも、そうはならなかった。
最初は復讐のために部屋を出た。
近衛兵の手にハンカチを巻いたのは、ただの気まぐれ。
利用するために、伯爵に近付き令嬢達に声をかけ、商会長を内側へと引き込んだ。
しかし、気がつけばどれも手放せないものになっていて、掛けられる言葉はいつしか喜びとなっていた。
もう、部屋の中だけの世界には戻れない。
皆が自分を温かな声で妃殿下と呼ぶ。王妃様と呼んでくれる。
ずっと変わらず傍にいてくれる者がいた。
守るための盾になってくれた者がいた。
意見を聞いてくれる者がいた。
本気で心配してくれる者がいた。
そして――。
「妃殿下、あなたは間違いなくこの国の母ですよ」
全てを見つめてくれる者がいた。
「私……王妃でいて良かったわ。心の底から、そう思うの」
リナフィアは、風が運ぶ民の声を、子守唄を聞くように幸せそうな顔で聞いていた。
目を開けると、レイスの手がスッと差し出された。その上にはハンカチが乗っている。
いつかの光景と被るものがあり、思わずフッと小さく噴き出す。
「そういえば、返しそびれてたわね。さすがに二枚もは悪いわ」
しかしレイスは、リナフィアの手を握りしめるようにして、ハンカチを渡してくる。
「何枚でも、何百枚でも。アナタの涙は、全て私が拭いたいのです」
手の中にある、彼の髪色を水で溶いたような淡い水色のハンカチを、リナフィアを見つめた。
「……勘違いするわよ」
「してください」
夫以外から、こうも甘い言葉を捧げられるとは思わなかった。
「ねえ、レイス卿。実は、聞きたいことがあったの」
「なんなりと」
胸に手を当て恭しく腰を折る姿は、彼の近衛兵時代を思い出させる。
「あなたは、ミッドネイル子爵家の子息だったわよね。近衛師団入団時の書類に、そう書いてあったのを見たわ」
「ええ、間違いありません」
頷いた拍子、にさらりと彼の藍色の髪が揺れた。
そう、とリナフィアも頷く。
「ミッドネイル家は廃位済みの家よ」
遠いところで、まだ民の声が鳴り響いている。
「ねえ、『レイス・ミッドネイル』……あなたは、誰?」
花の香りだけが甘かった。




