第八話
◇◇◇
かつてエンドリッヒのいた部隊は戦場の最前線を任されていました。
国同士の争いが激しかった国境付近には、人を丸呑みにしてしまうほど大きな恐ろしい魔獣も棲みついていました。そのためエンドリッヒたちは敵だけでなく、魔獣を相手にしながら戦い続ける必要がありました。
二つの敵を相手にする戦いは激しく、凄まじいものでした。
手足が千切れても、腸が飛び出しても、人間はすぐに息絶えることはありません。地獄の苦しみを味わいながら、緩やかに訪れる死を待つだけなのです。
ですが動けず苦しむだけの兵士は、戦場ではただの足手まといにしかなりません。
藻掻き苦しんで暴れる仲間たちを一太刀で楽にしてやるのは部隊で一番腕の立つエンドリッヒの役割でした。
エンドリッヒの顔を焼いた仲間も、エンドリッヒが首を刎ねたうちの一人です。
「おい、エンドリッヒ。お前は今日は後ろに下がってろ。いつもお前が俺たちの手柄を奪うせいで、俺たちが役立たず呼ばわりされちまうんだよ。お前は汚れ仕事だけしとけばいいんだ」
「っ、おい! 待てっ!」
そう言ってエンドリッヒを押しのけて行った彼は敵の毒矢を受けた挙句、罠にかかって深い傷を負ってしまいました。
「――なぜお前じゃなく俺なんだっ!! お前が! お前が死ねば良かったんだ!」
助け出された彼はエンドリッヒをひどく恨み罵りました。
死が迫る恐怖と傷の苦しみにのた打ち回りながら、彼は手近にあった松明をエンドリッヒに投げつけました。
避けようと思えば簡単によけられた火を、エンドリッヒは避けませんでした。
本当はエンドリッヒも思っていたのです。
――死ぬのは自分のはずだった、と。
しかし、ぶつけられた火はエンドリッヒの顔を醜く焼いただけでした。
苦しんで暴れる彼はエンドリッヒが首を落としました。彼は最後までエンドリッヒを恨み、死んでいきました。
――助けてくれ! まだ死にたくない!
そう叫びながら。
◇◇◇
ツィラローザが草の上を這い寄って来た。最近彼女はエンドリッヒが抱き上げずとも、自ら移動するようになっていた。そんな当たり前のことでも、彼女とっては大きな成長だった。
エンドリッヒは木を削っていたナイフを止め、寄って来ようとするツィラローザを制した。
「木屑が刺さりますよ」
彼女の足には膝をついても差し支えないようにぼろ布を巻いてあるが、さすがに尖った木片は刺さってしまうだろう。ツィラローザは素直に動きを止め、身体を伸ばしてエンドリッヒの手元をのぞき込んだ。
「何を作ってるの?」
「ああ……。これですか? 殿下の足が作れるかと思って」
「足? これは木でしょう?」
ツィラローザは馬鹿にされたと思ったのか、少しだけムッとしたように声を上げ、伸びてきた前髪をかき上げた。
「義足知らないんすか……。昔、俺の周りに結構いたんですよ、足が無くなった仲間が。さすがに両足は作ったことないですけど、割と上手く作れたんすよ」
そう言いながらエンドリッヒはコンコンと手元の木材を叩いた。この前、小屋の中に放って置かれたせいで程良く乾いた木を見つけたのだ。
はじめは薪にでもしようかと思っていたが、エンドリッヒはふと思いついた。
(軽いけど丈夫そうだな……足に当たるところにはなめし革を当てて、編み上げて固定できるようにしたら、まあ悪くないんじゃないか?)
頭の中に浮かんだのはツィラローザ用の義足だった。今のままでも生活にさほど支障はないが、何となく彼女が地に足をつけて立つ姿を見てみたいと思ったのだ。
幸いにもこれまで見様見真似で作った義足は割とできが良く、足を失った仲間に重宝されていた。両足を失った仲間は彼らの回復を待つ余裕がなかったせいで作ったことはないが、時間を持て余している今なら試みることができるはずだ。
「義足……」
確かめるように呟いたツィラローザはじっとエンドリッヒの手元を見た後、悲しげに口を開いた。
「ねえ、そんなの無理よ」
「え……?」
思ってもみなかったツィラローザの質問に、エンドリッヒはその意図を図りかねた。
「私は……もういいのよ」
「またそれですか。はいはい、足が無くたって生きてていいんすよ。あんたはあんた、他の何者でもないんですから」
「違うわ。だって……ねえ、エンドリッヒ?」
ツィラローザはエンドリッヒのナイフを持つ腕に手を添え、不安げに瞳を揺らしながら言った。
「また動き出したら、どうするの?」
ツィラローザの瞳は冗談を言っているようには見えなかった。隠し切れない不安がそこにははっきりと読み取れた。しかしエンドリッヒはその不安の意味を読み取ることを無意識に厭った。
「は? 何言ってるんですか? ほら、手を離してください。危ないですよ」
エンドリッヒはこのツィラローザの不安を誤魔化してうやむやにしてしまいたかった。その先に見える彼女の仄かな期待がわかってしまったからだ。腕にかけられたツィラローザの手を外しながら、エンドリッヒはナイフを置いた。
しかしツィラローザは暴力的なまでにエンドリッヒの張った予防線を破った。自分から離そうとするエンドリッヒに逆らうように、ツィラローザは腕の動きを止めた。
「ねえ、動き出したら今度はちゃんと私を殺してくれるの?」
「殺す……」
エンドリッヒはツィラローザの言葉に頭を殴られたような衝撃を覚えた。
エンドリッヒは義足を使ってでも、自分の力で立ち上がることが出来ればツィラローザも嬉しいのではないかと思っていた。エンドリッヒと過ごす中で彼女の価値観が少しでも変わったのではないかと思っていたのだ。
エンドリッヒはどこかツィラローザに裏切られたような絶望感と、自分が勘違いしていたのだという決まり悪さに目の前が揺れた。
(少しでも、生きていたいと思ってくれていると思っていたが……この子の中では何も変わっていなかったのか)
エンドリッヒは爛れた皮膚の奥に走る痛みに無意識に身を固くした。
――助けてくれ! まだ死にたくない!
耳の奥に昔聞いた仲間の声が響く。
「俺には、あんたは殺せない……」
エンドリッヒは掴んだままのツィラローザの手をそのままに、真正面から彼女を見据えた。すぐに困惑の色を浮かべた瞳がエンドリッヒを捉えた。
「エンドリッヒ……? どうしたの?」
「俺は戦場で育ちました。そこではあんたみたいに両足を無くしたら……そもそもそれだけの怪我をした奴は瀕死状態で動けません。なんとか生き延びてももう戦えないし、連れて行けないんですよ」
ジッと真正面から見据えるエンドリッヒの言葉にツィラローザの喉はわずかに上下した。細い手首を掴むエンドリッヒの手にはぬるりとした汗が湧き出ていた。
「そいつらは死にました。皆死にました。俺が、首を斬って殺しました。助けて欲しいと言われたのにだ!」
エンドリッヒの叫びにも近い告白に、ツィラローザが息を飲んだ。
「あんたは……、あんた等は俺達が戦ったから何不自由なく生きてこれたんでしょう! それなのになんであんな奴に勝手に呪われて、死ぬのが怖くないみたいな顔するんすかねぇっ! 俺はもう人が死ぬのを見るのはうんざりなんですよ!」
ツィラローザの見開かれた瞳にはエンドリッヒが映っていた。
「俺らを何だと思ってるんだか……」
悔しさを隠しもせずに呟いた時、エンドリッヒはツィラローザの瞳に映る、醜く爛れた顔をさらに醜く歪ませた男の姿に気づいた。その途端、エンドリッヒの心は一気に萎れ、同時に気づいた。
(俺は生きて欲しかった。あいつらに、生きていて欲しかったんだ……。それに俺は、この子にも生きていて欲しい……)
気づいてしまえばそれ以上彼女の瞳を見続けることができず、エンドリッヒの手はツィラローザの手首を離し力なく落ちた。手の中の汗が冷えていく。
「……あんたは同じ目に合うのは怖いけど、俺のことは怖くないんですね」
少しの沈黙の後、エンドリッヒはほとんど無意識に口を開いた。
「エンドリッヒが? どうして?」
ツィラローザは先ほどまでのエンドリッヒの様子など全く気にしていないかのように、きょとんとした表情で答えた。
「俺はたくさん人を斬った。首を刎ねた。それにあんたの足を斬った張本人だし、男だ。あんたはいつ襲われてもおかしくないじゃないですか」
「そうね……、あんまり考えた事なかったわ」
自虐的なエンドリッヒの言葉はツィラローザへの当て擦りのようにも聞こえる。しかしツィラローザは少し考えて、にっこりと笑ったのだった。
「でも私は今生きているでしょう? 襲われてもいないわ。それ以上の理由がある?」
「……っ」
「わかったわ、あなたが殺せないというなら殺さなくてもいいわ。あなたが言うなら私は生きるわ。でも怖いものは怖いのよ、いい?」
子どもをたしなめるように語るツィラローザの姿をぼんやりと眺めていたエンドリッヒは、逆にツィラローザから問いかけられた。
「それで、あなたは?」
「え?」
ツィラローザは極彩色に光る瞳でじっとこちらを見ていた。
「あなたは、これまで怖くなかったの? 死ぬところをたくさん見てきたし、きっと死ぬ目にもあって来たのでしょう?」
「俺は……」
(怖いだなんて思ったら、俺は生きられなかった)
エンドリッヒは心によぎる思いを口にすることはできなかった。答えれば笑われそうな気がしたのだ。もちろんツィラローザは笑わないだろうが……。だからエンドリッヒはいつもの答えをツィラローザに返した。
「俺は……頭おかしかったんで大丈夫でしたね」
エンドリッヒはそう答えて手元に視線を落とし、再び木を削り始めようとナイフを木に当てがった。
しかしツィラローザは何も言わずにエンドリッヒの爛れた顔を隠す髪をかき上げ、真面目な顔で覗き込んで来た。
「なんすか。危ないですよ」
「泣いているのかと思ったの」
エンドリッヒは息が止まりそうだった。エンドリッヒを覗き込むツィラローザの瞳には自分の顔が映っているはずだ。しかしエンドリッヒにはその姿を捉えることは怖くてできなかった。必死に息を吐き出しながら、普通を装うことしかできなかった。
「……っは。泣いてたらどうしたんです」
「あなた、怖かったのね」
「はは、まいっちゃいますねぇ……」
視界に入ったツィラローザの手首にはエンドリッヒが掴んだ跡がくっきりと浮かび上がっていた。エンドリッヒは初めて宝石に触れる子どものように、恐る恐るその跡に指を添わせた。
「そうですね。怖かった、のかもしれません……」
エンドリッヒの小さな小さな呟きをツィラローザは決して笑わなかった。その代わりにエンドリッヒの爛れた皮膚を彼女の柔らかな指先がそっと撫でていった。