第50話 最後の茶会
「何しに来たのですか? 私を嘲笑いにでも来ましたか? ジュノス殿下!」
「いや、違うよ。ただ、リズベット先輩と腹割って話がしてみたいなと、そう思っただけだよ。だめかな?」
振り返ることなく問いかけるリズベットに、ジュノスは穏やかに声をかけた。
無表情で振り向いた彼女に、ジュノスは恭しく頭を下げる。
後方に用意されたテーブルへと視線を向け、促される形でリズベットも同じ方角に視線を合わせる。
「荒野でお茶会ですか? いい趣味ですね」
「リズベット先輩と言えば茶会かなと。お気に召しませんでしたか?」
「嫌味……ではないようですね。……せっかくなので最後のお茶会も悪くないわね」
テーブルを挟んで向かい合う二人。
乾いた風が運んでくるのは、広野に似つかわしくない強い渋みと爽やかな香り。
「ウバ紅茶……ミルクティーですか」
レベッカがそっと二人の前にティーカップを置く。手に取ったそれを覗き込むように見つめるリズベット。
ミルクティーに映り込む覇気のない自分自身に、呆れたように微笑んだ。
「疲れたときは甘味に限りますよね。ウバを使ったミルクティーは後味がさっぱりしており、曇った心を霧散してくれる魔法の飲み物だと思います」
ジュノスの問いかけに答えることはなく、黙って一口飲んでみる。口の中に広がるウバとミルクの絶妙なハーモニー。殺伐としていた広野に今にも響き渡ってきそうな音色。
紅茶には精霊が宿ると言われている。
ときに疲れ果てた人にそっと寄り添い、ブランケットをかけてくれるような。怒りに荒ぶる心を……その背中を優しく撫でる母の掌のように。
ひび割れたリズベットの大地に恵みの雨が降り注ぐ。それは彼女を隠す雨ではなく、優しく包み込む癒しの音色となる。
「おいしい……」
微かに口角が上がる。
リズベットが初めて見せた穏やかな微笑み。そこに居るのは大人びたいつもの彼女ではなく、純粋にお茶を楽しむ少女の姿。
ようやく会えた真実の彼女。
――逃がしはしない。
彼女がどうして帝国を滅ぼそうとしたのか、俺にはわからない。だからこそ、向かい合わなくてはならない。
嘗て……前世で両親、兄弟と向かい合うことを拒んだ臆病者には戻りたくはないんだ。
小さな部屋に引きこもってしまった彼女を……リズベット先輩の部屋をノックする。
俺ならできる。
その部屋が本当はとても居心地が悪く、冷たく寂しいことを誰よりも俺は知っている。
迎えに行くんだ……最後になんてさせて堪るかっ!
「レベッカ……少し席を外してくれるかい? リズベット先輩と二人だけで話がしたいんだ」
「でも……」
言いかけて、レベッカはリズベットに目を向ける。
「わかりました」
レベッカは悟った。
彼女にもう敵意がないことを。幼き日に両親と離ればなれになり、一人で夕暮れを歩いた日のことを。心細いと口にすることも、泣き叫ぶことも叶わなかった、幼き日を。
レベッカの目には、リズベットが嘗ての自分自身と重なったのだ。
「いいのですか? 私と二人きりになって?」
口火を切ったのリズベット。曇りかけのガラスのような瞳が、真っ直ぐジュノスを捉えている。蠱惑の瞳は健在である。
だが、ジュノスがその瞳から視線を外すことはない。見据える彼女に静かな語り口で言葉を紡ぐ。
「リズベット先輩は……前世って信じますか?」
唐突な質問。意図がわからず訝しげに小首を傾げた。そんな彼女を無視して彼は話を続ける。
「俺……実は知ってたんですよ」
「知ってた? 何をですか?」
「あなたが帝国を滅ぼそうとしていることも、スラムに住まう彼らを使って、レイラと……アメストリア国と共に皇帝を断罪しようとしていたことも」
「……」
驚き目を見開くリズベット。
蠱惑の瞳が戸惑いの色を隠せない。手にしたティーカップが微かに音を立て、ミルクティーが波紋を描く。
ゴクリッと息を飲み、皿受けにティーカッブを置き、その縁を指でなぞる。
黙り込む彼女にジュノスは包み隠さずすべてを打ち明けた。何もかもすべてだ。
嘗ての自分は最低だったこと、その世界はこことはまったく異なる世界で、この世界は自分が遊んでいた絵本のような世界だったと言うこと。そのことに気がついたのは数ヶ月ほど前だということも、何もかもを話した。
柳眉を曲げるリズベットは、雑然とした様子で押し黙ったままだ。
ジュノスの言葉を信じることなど到底出来ることではない。ただ、目の前の彼が嘘をついているとも思えなかった。
「それを……私に信じろと?」
「いや。信じてくれとは言わない。ただ、戯言だと思って聞いて欲しい」
「なぜ……なぜ聞いて欲しいのですか?」
「う~ん、たぶん……俺は誰かに聞いて欲しかったんだと思う。ずっと打ち明けられずにいたこの思いを話すことが出来たら、少し楽になれるのかなって」
ただ、自分が楽になりたいだけだから、信じる必要はないのだと、ジュノスは口にする。
これは彼に取っての懺悔。
ジュノスはリズベットを不幸になどしたくはなかった。
だが、結果的に彼女はウルドマン家から絶縁を言い渡された。それは自分が追い込んでしまったからだと、深く反省している。
例え自分の破滅を回避できたとしても。
例え帝国を今以上に繁栄へと導き、そこに住まう人々が幸福に包まれていたとしても……目の前の少女を不幸にするのは、彼の理念が許さない。
だからこそ、彼は麗しの女神のような彼女に懺悔を行う。それが彼なりの腹を割って話すということなのだろう。
「その物語で、私は……成功していましたか?」
「成功?」
「はい……。私はこの世界から貴族制度をなくせていましたか?」
どういうことだ。ジュノスは少し考えたが、すぐに首を横に振った。
そして、すぐにすまないと謝罪の言葉を口にする。
「いや、物語は俺が……ジュノス・ハードナーが死んで、そこで終わるんだ。だからそれが叶ったのかどうかは、俺にはわからない」
暗澹の表情。リズベットは悲しそうに俯いた。瞼を閉じ、胸の前で力一杯握りしめる手が、痛々しいほど白く染まっている。
「リズベット先輩……話しては貰えませんか? どうして貴族制度をなくそうとしたのか」
「……」
「物語の中で……リズベット先輩は実の父親を殺害してるんです」
「っ!?」
再び大きく見開かれた瞳。同時に肩を震わせ、歪んだ口元が笑い声を響かせた。
だけど、それは幸せとは程遠い。
底知れぬ怨念じみた何か。
乾いた笑いが広野に木霊し、ティーカップに口をつけたリズベットは、自身の生い立ちを静かに語り始めた。
それはあまりに暗く。ジュノスはこの世界を創造した神を……プロデューサーに憤りを覚えるほどのものだった。




