最終話 大工の親父の娘さんの化粧
今朝、ビッターラビィは起こしに来なかった。それが彼なりの気遣いなのか、それとも彼も疲れ果ててまだ寝ているのだろうか。
クシフは一人ベッドの上でぼんやりして、そして鏡の前まで歩いていった。
目が赤く腫れていないことを確かめ、珍しくその場で身なりを整えてから下へと降りた。
階段を一段踏みしめる度に木の軋む音がし、それと呼応するようにまな板とナイフとの軽快な接触音がする。
話し声も聞こえてきた。
「ああ、クシフおはよう」
喫茶店のテーブルに一人分の食事を並べていたエレが、顔をこちらへと向ける。
昨日と同様に乱れのない髪。
やはり大切に磨きこまれているのだろう首輪が、食器の白い光沢と手をとるように艶やかな光を反射させていた。
剣は今、腰にはない。壁に立てかけられていて、それが今日の安息を物語っていた。
「あ~クシフやっと起きたぁ。ビビィがねぇ、疲れてるだろうから寝かせておけって言ったからぁ、私たち先に食べちゃったよぅ」
カウンター越しに厨房から身を乗り出しているヴァネットサミスは、笑顔でテーブルの食事を指す。
愛情いっぱいだから早く食べてね、色鮮やかなサラダや柔らかそうなパンがそう言っているようだった。
「ビビィは?」
「ロバの世話するって裏に行ったよ。
……体調はどうだい?」
エレの目は、クシフの肩へと向けられていた。
彼はクシフに混じったままとなっている闇ことを訊ねているのだ。
本体である化け物を滅され、同じく本体であるレイデッドの魂は遠い天へと行ってしまい、クシフの中の闇は一気に大人しくなっていた。
一人では何もできない、いじめっ子の後ろに控える取り巻きにも似ている。
そんなもの、大人になったクシフの恐れるものではない。
だから「大丈夫だ」と言って、クシフは食事を始める。
納得したのかエレは厨房へと行き、開店準備に追われるヴァネットサミスの手伝いをする。
楽しげな二人の姿を後ろから眺めて、面白くなくなったクシフは大口でパンにかぶりつく。
そして無理矢理な速さで全てを腹におさめ、ごちそうさまを言って家を出た。
――空は残念ながらの曇りで、さらには冷えこみも厳しい。
そろそろ雪が降るのではないかという予感を振りまいていた。
首をすくめて裏庭まで出ると、エレの言葉通りビッターラビィがいた。
「よおクシフ、お目覚めか。
どうだよく寝れたか? 泣きべそかいたりしなかったか?」
ロバの体にブラシをかけながら意地悪く言われ、どきりとする。
まさか彼は自分が寝ている間に部屋でも覗いていたのだろうか。
「まあいいさ、ちょっと座れよ」
ロバ小屋の横の藁の山に連れていかれ、返事をする間もなく座らされる。
ビッターラビィもその隣に座った。
子供の頃、大人たちに説教をくらいそうになると、こうして息を殺して隠れたのを思い出す。
寒さが手伝って、クシフは折った膝を胸につけ、小さくなる。
横に目をやると、ビッターラビィも同じようにしていた。二人並んでの三角座り。
これもまた子供の頃とそっくりそのままで、心までが子供に帰るよう。
クシフの口が滑るよう動いたのは、そんな心境のせいかもしれない。
「なあ、ヴァネッサって、エレのこと気にいってるよな」
「ん? ああ、まあそうだな。
ってかちょっと待て、俺はお前がレイデッドさんの事でめそめそしてるとばかり思ってたのに、そっちの話かよ」
「誰がめそめそなんかするか」
証拠を示そうと顔をビッターラビィに突きつける。彼の目と自分の目とが結ばれて、一度ビッターラビィは目を伏せ、低く笑った。
「そりゃあ良かった。そもそもな、エレは」
「あ~ビビィいたぁ!」
ビッターラビィの話の途中に高い声。
声の方を見ずともヴァネットサミスであることは分かった。
エレはいないらしく、一人分の駆け足がやってくる。
「あのねぇ大変なの!
さっき窓の外にちっちゃな狸がいたのぉ!
しかも、二本足で立っててぇ、なんだか偉大なオーラ出しまくりだったのぉ!」
「偉大なって……それもしかして!」
ビッターラビィは慌てて立ち上がり、興奮気味に走りだす。
「ポルラガマヌヌかっ? 偉大なる子狸ポルラガマヌヌか! どこだ、どっちに行った!」
あっち! とヴァネットサミスが示す方向へ、彼はさっさと消えた。
ヴァネットサミスもそれを追いかけていってしまって、一人クシフがぽつねんと残る。
一人だと空気がよけい冷たく感じた。
もう家の中に入ろうと考えて、そして何か忘れているような気がして立ち止まる。
あと少しで思い出しそうになった時、クシフは一人ではなくなった。
腰に剣を下げて、ちょっとの外出ではしないような厚着をしたエレが、裏庭の入り口で手を振っている。
「やっぱり、あの二人は賑やかだね」
狸を追いかけていった二人とすれ違ったのだろう、彼は笑った。
それを風が撫でて髪が揺らぎ、首輪が黒い色を見せる。マントのような羽織のような中途半端な黒い厚布も動いて、あの緑色の服が一瞬姿を現せた。
服に刺繍された読み取れない文字に目がいく。
「それ、なんて書いてあるんだ」
彼は両手を広げて文字の全てをクシフに見せる。
「一つはね、この世界の光で戦おう、だよ。
南の砂漠の魔女から貰った、勝利の言葉さ」
「二つ目は?」
「二つ目は……恥ずかしいから勘弁してもらいたいんだけどな」
そう言ってエレは黒い厚布で文字を隠した。寒さもあっただろうが、余程恥ずかしいらしい。
「なおさら聞きたい」
初めて自分が優位に立ったようで、クシフは思わず意地悪な表情を浮かべた。
「……この者は、私の愛の奴隷である」
「は?」
「いや、だから、魔女である彼女なりの愛の告白だってさ。古い文字で読める人もいないからいいだろって、刺繍されてしまって……
おまけにこの首輪、南では結婚すると奥さんにつけるみたいなんだけど、どういうわけかオレの方がされちゃってね……」
恥ずかしそうでもあり嬉しそうでもある顔が、母と二人だけでいる時の父に似ていた。
つまり、それは、と頭が情報を整理していき、クシフから答えが出る。
「お前、結婚してたのか……」
自分で言って、とたんに肩の力が抜けたのが分かった。
俺の今までの悶々としたあの悩みはなんだったんだ!
初めて彼と会って、ヴァネットサミスには会わせたくないと汚い感情を持った自分。
昨日の朝、ヴァネットサミスと彼をわざわざ二人きりにしてしまって絶望的な後悔をした自分。
そんな全ての自分を、後ろから殴りたい。いや殴るだけでは足りない。蹴って頭突きをして首を締め上げたい。
「なんだ、ビビィもヴァネッサも首輪見て気づいてたみたいだから、クシフも気づいてるかと思ってたんだけどな」
気づくも何も、化粧ばかりしてきてヤジョヌズから一歩も出たことがないクシフが、遠い南の風習など知るはずもない。
「それじゃあ、クシフの気分もすっきりしたみたいだし。オレはもう行くよ。
二人によろしくね」
悪戯な笑顔を浮かべるのはエレの番だった。
そして手をひらひらさせて、背を向けて歩き出す。
「……エレ! ありがとう!」
叫んだ感謝に、彼は振り向かず片手を上げた。もう姿は見えなくなって、遠のく足音だけが耳に。
そして耳に、冷えた塊がキスをする。
「雪、だ」
濁った空から落ちてくる透明な粒たち。
しばらくクシフは天を見つめたまま、様々なことを思い出す。
幼かった頃のことも、父や母のことも、昨日の森での出来事も。
思い出して心はたくさんの感情を浮かべて、初めて化粧をした手のように色が乱れ混じるようだった。
しかしクシフの肩は痛まない。魂がおかしな叫びを上げることもない。
代わりにクシフから出たのは、空気に溶ける儚い白い息。
かすかに舞っていた雪が、次第にその密度を増していく。
遠くに見える、大工の親父が無駄にこしらえた長い煙突が手始めに、降る白に輪郭をぼやけさせていた。
「……あ、あぁぁぁぁぁ!」
凛とした空気を揺さぶる、ヴァネットサミスのような叫び声。けれどもそれはクシフのもので、そして慌てて走りだす。
自分が何を忘れていたのか、それを思い出したのだ。
見合い相手に顔見せするための化粧を、クシフは依頼されていた。昨日だ。昨日。
無駄に徹夜でクシフを待っていた大工の親父。クシフが化粧箱を片手に恐る恐る顔を見せると、彼はテーブルを猛々しくひっくり返した。
クシフは彼に殴られ、娘さんからはやんわりとした口調でものすごい嫌味を言われた。
一方、見事偉大なる子狸ポルラガマヌヌに追いついた二人は、彼(?)に書いてもらったというサイン色紙を手に大騒ぎ。
まさかの実在した偉大なる子狸はファンサービス精神旺盛で、常にサイン色紙を常備していたらしい。
ちなみに、クシフの分はなかった。
クシフの頬の腫れは三日間引かず、
ビッターラビィとヴァネットサミスの浮かれたテンションは五日間続き、
大工の親父のご立腹は十日間も続いた。
雪を乗せたリンゴの木々が、眠りにつく。
――ヤジョヌズに、長く白い冬がきた。
終
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