楕円パンの停戦市場と、値札になった悪意
神の閉鎖法廷を後にした一行が次に降り立ったのは、三つの国境線が奇妙に噛み合う中立交易都市――ブーラン港だった。
港いっぱいに焼きたての匂いが満ちている。
石畳の通りには、丸パン、角パン、棒パン、魚の形をしたパン、なぜか甲冑の形をしたパンまで並び、旅人と兵士と商人がごった返していた。
「ダーリン! いい匂いです! ここ、空気がもう食べ物です!」
「空気は食べ物ではありません」
ルビー――中身はおじさん――は反射的に言い返し、それから小さく息を吐いた。
(……いや、そういう国か。食い物で人を釣り、食い物で人を縛る。匂いが良すぎる場所は、大抵ろくでもない)
胸元の黒いブローチが、ここへ来てからずっと低く震えていた。
グレープ元国王の「強欲」を浄化してから、輝きは一段と深い漆黒へ変わっている。
美しいのに、見ていると胸の奥が冷える色だった。
(ルビー。あんたの身体を借りた時から、俺はずっと思ってるよ。
“自分のために申し訳ない”ってな。
その借りを返す前に、爆散なんぞしてたまるか)
おじさんは、誰にも聞こえないように心の中でだけ謝った。
■ パン祭りの裏で、子どもが泣く
「おおっ、見てください閣下! 港の向こうに巨大な窯がありますぞ! あれは砲台ではなく、焼成設備ですな!」
ラビ艦長が触手型ホログラムをぶんぶん振り回してはしゃいでいる。
サトリはすでに石段に座り込んでいた。
「もう嫌……次の国って聞いた時点で、どうせまた変な王とか変な競技とか変な裁判が出ると思ってたけど、パンの匂いで余計にしんどい……心が『食わせろ』って叫んでる……」
「サトリさん、はい! 途中でトンビさんにもらった塩飴です!」
ピンキーが差し出すと、サトリは半泣きで受け取った。
その横で、ミケとタマはすでに市場の異変に気づいていた。
「ねえ、タマ。あの子、パンを見てるだけだよ」
「うん。買えないんだね」
通りの端。
パン屋の前に並んだ子どもたちが、香りだけを吸い込むように立ち尽くしていた。
だが棚には山のようにパンが積まれている。売り切れではない。
値段が高すぎて、買えないのだ。
「本日の平和パン、ひとつ銀貨八枚! 戦時の備えは裕福な市民の義務ですからな!」
恰幅の良い商人が腹を揺らしながら叫ぶ。
その声に、ルビーの眉がぴくりと動いた。
「……平和パン?」
近くにいた老婆が、吐き捨てるように言った。
「名前だけさね。明日にも戦が起きるって噂でね、粉も塩も油も、みんな商会に押さえられちまった。『平和のための備蓄』なんて言うけど、やってることは買い占めだよ」
「それで子どもが飢える、と」
「ええ。戦が始まる前から、腹だけが負けていくのさ」
その瞬間、ルビーのブローチが、ぞくりと脈打った。
これは怒りではない。
憎悪でもない。
もっと乾いた、もっと実務的な悪意――
人の明日を、帳簿の一行に変える心。
■ 元秘書、値札に噛みつく
「ダーリン? お顔がいつもの“面倒な書類を読む時の顔”です」
「面倒なのではありません。腹が立っているのです」
「同じでは?」
「違います」
即答してから、ルビーは商会の掲げる告知板へ歩み寄った。
そこには、『停戦備蓄税』『非常時流通調整費』『善意の価格上乗せ』など、聞こえだけは立派な名目がびっしり並んでいる。
おじさんは一目で悟った。
(……政治じゃない。これは政治の顔をした、ただの中抜きだ)
「サトリ」
「えっ、私!?」
「心を読みなさい」
「雑! 指示が雑ですって!」
「雑で結構。あの商人どもが、何を怖がっているかだけ拾いなさい」
サトリはふらつきながらも、商人たちの近くへ行き、耳に指を当てた。
数秒後、顔色を変えて戻ってくる。
「“今日中に倉庫を空にしろ”“ドルドアとグレープの戦支度が本格化したら値段は十倍”“監査が来る前に帳簿を移せ”……ろくでもないです!」
「十分ですわ」
ルビーは踵を返した。
「ラビ艦長、倉庫の位置を」
「海路から三棟、地下水路あり! 潜水烏賊としての血が騒ぎますな!」
「ミケ、タマ。人目の少ない通りへ子どもたちを誘導。ピンキーは――」
「はい! パンですね!」
「どうしてそうなるのです」
「だって、みんなお腹空いてます!」
ルビーは一瞬だけ黙り、それから肩を落とした。
「……ええ。結局そこが正解です。あなたはパン屋を回って、まだ良心の残っている職人を集めなさい。“今から悪徳商会を潰すので、焼けるだけ焼け”と伝えるのです」
「任せてください、ダーリン!」
ピンキーは駆け出した。
泥だらけの靴のまま、まっすぐに。
その背中を見て、ルビーはほんの一瞬だけ目を細めた。
(純粋な者が報われる世界を守るべきだった――か。
あの元王様、最後に一番まともなことを言ったな)
■ 地下倉庫、黒い小麦、腐った契約
夜。
ブーラン港の地下水路は、潮の匂いと小麦粉の粉塵でむせ返っていた。
ラビ艦長の先導で、一行は商会の地下倉庫へ滑り込む。
そこには積み上げられた小麦袋、塩樽、乾燥肉、そして鍵のかかった契約箱が並んでいた。
「ぬっ……これはただの備蓄ではありませんな。戦争が始まる前に、両国へ同時に売りつける気ですぞ」
「戦争になっても儲かる、ならなくても儲かる。最低です……」
サトリが顔をしかめる。
ルビーは契約箱の封印に手をかざした。
その瞬間、ブローチが黒く燃えた。
ぶわり、と見えない煙のようなものが倉庫いっぱいに立ちのぼる。
それは人の形をしていない。
ただ、囁きだけがあった。
『足りないと煽れ』
『不安を売れ』
『子どもの空腹は長続きしない、親が借金する』
『平和は値上がりする前に買わせろ』
「……っ」
ルビーの喉がひくりと鳴る。
その声のすべてが、ブローチに吸い込まれていく。
漆黒の宝石は、満足そうにぬらりと光った。
同時に、ルビーの身体から力が抜けた。
いや、抜けたのではない。
軽くなりすぎた。
骨の一本一本が中空になったような、異様な軽さ。
その代わり、心が冷える。
怒りも憐れみも、氷の下へ沈められるように。
(まずいな……また進んだ)
「ダーリン!」
ピンキーの声がした。
いつの間にか、彼女は腕いっぱいに焼きたてのパンを抱えていた。
背後には、帽子を被った職人たちが何人もいる。
「良い人のパン屋さん、ちゃんといました! “商会が押さえてた粉が戻るなら、徹夜でも焼く”って!」
「……ええ、結構。では配給の準備を」
そう言いかけて、ルビーは自分の声に違和感を覚えた。
冷たい。あまりに整いすぎている。
ピンキーもそれに気づいたのか、すっと一歩だけ近づいてきた。
「ダーリン。手、出してください」
「何です」
「いいから」
差し出した手に、焼きたての小さな楕円パンが乗せられる。
まだ熱いはずなのに、ルビーにはぬるくしか感じられなかった。
「……熱くありません」
「じゃあ、いっぱい食べてください。そしたら、思い出します」
「何を」
ピンキーは首をかしげ、少しだけ困ったように笑った。
「なんでしょう。たぶん、“熱いってこと”をです」
その言い方が、妙に胸に残った。
■ 値札の城、崩れる
その夜、悪徳商会ブーラン中央会頭の屋敷は、かつてない騒ぎに包まれた。
地下倉庫の備蓄目録は一斉に公開。
架空の停戦税、偽装された救援費、両国への二重契約、そして子ども向け配給を横流しした証拠まで、すべて街中の掲示板に張り出されたのである。
「誰がこんなことを!?」
「知らぬ! だが印章が本物だ!」
「会頭殿、裏帳簿が港の時計塔に吊るされています!」
「なぜだぁ!?」
鐘楼の上では、ラビ艦長が得意げに触手ホログラムを掲げていた。
「墨は吐いておりません! これは正当な告発ですぞーっ!」
広場では、ピンキーと職人たちが大鍋と窯を並べ、子どもたちへパンを配っている。
ミケとタマは小さな鞄の魔法で、皿と紙袋を次々に出していた。
「はい、順番だよー!」
「押さない押さない! みんなの分あるよ!」
泣いていた子どもたちの目に、ようやく生気が戻る。
その光景を見ながら、ルビーは通りの影に立っていた。
拍手も歓声も、少し遠い。
胸元のブローチだけが、やけに近い。
「ルビー閣下」
振り向くと、女神様がいつの間にか石灯籠の上に腰掛けていた。
場違いなほど優雅に、足をぶらぶら揺らしている。
「ずいぶん食べましたわね、悪を」
「食べたくて食べているわけではありません」
「ええ、知っています。あなたは最初から全部知って、それでも引き受けたのですものね。借り物の身体で、借り物ではない責任まで」
ルビーは黙った。
女神様は続ける。
「でも、次で国外分は最後ですわ」
「……最後?」
「ええ。次にあなたを待っている“国”は、ほかのどこでもない」
女神様の瞳が、黒いブローチを映す。
「ドルドアですわ。
いちばん大きな悪は、いつだって故郷に残るものですもの」
遠くで、港の時計が鳴った。
配られるパンの湯気。
笑う子どもたち。
泣きながら食べる母親。
そのすべての上を、夜空に浮かんだ一隻の黒い飛行艇が、音もなく横切っていく。
ドルドア公爵家の紋章。
ただし、翼に塗られているはずの金は、煤けたように黒ずんでいた。
「……迎えが来たようですわね」
女神様が楽しげに言う。
ルビーは楕円パンを握りつぶしそうになる手を、ぎりぎりで止めた。
その香りだけが、まだかすかに温かかった。




