22.私からすべて奪ったくせに
「ねえ、そろそろ里帰りしたいんじゃない?」
こてん、と首を傾げるセレナ。
目を三日月形に細め、セレナが近づいてくる。
里帰り──フィリアの帰る家はない。
緑の国はなくなり、海の国は故郷ではない。
「いいえ……私は」
フィリアは後ずさった。
「どうしてそんなに覚えた顔をするの? やさしいお姉様が、帰ってきていいわよと言ってるのに。セヴィ王子は冷酷だって噂よ? 殴られたりしてない?」
「セヴィ王子は……そんな人じゃないわ」
──あなたと違って。
フィリアは唇を噛み締めた。
「なあに? フィリア、あなた幸せなの? 私からすべて奪ったくせに」
すべて──それは何を指すのだろう。フィリアは何一つ奪っていない。何一つ持たずにこの国に来たのだ。
フィリアはためらいがちに目を伏せた。
すると、セレナがフィリアの腕をぐいと掴んだ。
「一緒に帰りましょ? ね?」
声だけは優しく、けれど、有無を言わせない力がある。にっこりと笑った口元から現れる八重歯はすこしの獰猛さを表している。
この顔を、見たことがある、この顔は、何度も何度もフィリアに紅茶をぶちまけて、光のない部屋に閉じ込めて、詰って、お前には価値がないのだと植え付けた、お姉様。
どうして逆らえるだろう。
こわい、とフィリアは思った。心の中にいるちいさなフィリアが膝を抱えてぶるぶると震えている。氷の国で、逃げ切れたと思ったのに。ようやく自分らしくいられると思ったのに。本能的な恐怖が背筋を駆け抜ける。
セレナの長い爪がフィリアの腕に食い込んだ。瞬間──すとん、とあまりにも容易くフィリアの身体から力が抜けた。
「はい、お姉様」
つるりと声が漏れ出た。
過去は、フィリアから抵抗する気力を奪った。
希望を奪った。
誰も助けてくれないんだと学ばせた。
フィリアの瞳から、光が抜けていく。深い沼の底みたいな色になったのを見て、セレナは微笑んだ。
セレナに引きずられるように歩いていくと、そこには馬車が止まっていた。
乱暴に馬車の中に放り込まれる。天井に頭が当たって少し痛い。
──ああ、結局こうなのだ。
フィリアは呟いた。
私なんかが逃げられるはずが、ない。
セレナが隣で「海の国へお願い」と言っているのが耳に入る。
ここでセレナの言葉を遮ったならどうなるんだろうとフィリアは思う。思うだけだ。
フィリアの口からは制止の言葉が出てこない。
体が重く、うまく動かない。
どうしても、震える唇は吐息しか吐き出さない。
「お父様も、あなたに会いたいって仰ってるの」
吐き捨てるようにセレナが言った。
心の奥底から這い上がってきた、なにか冷たいものがしんしんと爪先まで降りてきて、全身を捉えた。
馬車はカタン、カタンと音を立てて前に進んでいく。移り変わっていく景色。銀色の城を見るのももう見納めかもしれない。
ずっとこの場所で生きていけると思っていた。
最近、心がすこし近づいた人がいた。やさしさに気付けた人がいた。心は近づいたり離れたりだけれど、離れたままお別れなんて。
──彼は、私のことなんてもう二度と思い出さないかもしれないけれど。
喧嘩別れをして、国に逃げ帰った軟弱な姫だと侮蔑するかもしれないけれど。
ごめんね、とただ言いたかった。
あなたのことが嫌いになった訳じゃないと言い訳をさせてもらいたかった。
そんなことももう、できそうにない。
本当は泣き喚きたいのに。
こころとからだが上手く接続できなくなったみたいに、フィリアは微動だにせず目の前の移り変わる風景を見つめていた。
そのとき。
馬車の車輪が、きゅうっと軋む音を立てた。
ゆっくりと、しかし確実に減速していく。御者が何かに怯えるように叫び声をあげるのが聞こえた。
「──止まれ」
聞き慣れた、けれど、ありえないはずの声。
ぴたり、とフィリアの時が止まった。
「止まれと言った。ここは銀月の国だ。
銀月の第一王子──セヴィ・ルヴィア・アルセイドが命じる。直ちにその馬車を開けろ」
声は、凍てついた氷の刃のように鋭く、
けれどフィリアには、それがこの上なくあたたかく響いた。
馬車の扉が、外から力任せに開かれる。
風が吹き込む。陽光が差し込む。
──そしてそこにいた。
月のように冷たく美しい容姿。
銀糸を編んだような髪が風に揺れ、
深い夜のような瞳が、ただ一人をまっすぐに見据えている。
「……遅くなったな」
氷の王子。
その瞳に、確かな怒りと焦燥、そして――心があった。




