第四十六話 崖上の追いかけっこ
「ねぇ! 君……そっちは崖だよ!?」
カンナは前方を走る少年に必死に呼び掛けた。
よく見ると、少年は怪我をしている様子だった。右腕は力無く垂れ、血が流れて地面に点々と血の痕を残している。
そして、驚いたことに、背中にはフサフサの尻尾があり、頭の上には大きな犬の様な耳が付いている。
どちらも泥で汚れ、一見分からなかったが、先程抱き止めたときに感じたモフモフ感は間違っていなかったようだ。
あの少年は、魔獣だ。足も子供ながらに速かった。
少年が怪我をしていなかったら追いつけなかっただろう。
その少年は仕切りに崖の方を見ながら走っていた。もしかしたら、斜度が緩めの箇所から崖を降りるつもりかもしれない。
しかしあの怪我では危険だ。
それに緩やかといっても殆ど絶壁の崖。カンナは少し先に見えた緩めの崖に着く前に少年を止めなければ……と足を速めた。
そして、少年に後方から飛び掛かかり、何とか捕らえることに成功した。
「なっクソっ…放せよっ放せっ」
「駄目だよ。崖から降りようとしてるでしょ? その怪我じゃ無理だよ!」
「うるせぇっ」
二人が揉み合いになっていると、森の方から獣が現れた。荒い息を吐きながら、小さく唸り声を上げ、じわじわと二人に詰め寄る。
「ほら、追い付かれたじゃねーかよ!!」
「あっ! 協力して、やっつけよう!」
カンナが少年から手を放すと、少年はカンナに体当たりし、獣の方へと押し倒した。
「きゃぁっ」
「お前ら人間がそいつらの餌になりやがれっ」
「ちょっと、何て事を……」
少年は捨て台詞を吐いて崖の方へ走っていく。
「あっ。待って……」
しかしその時、背後からカンナに獣が襲いかかった。
カンナは腕に巻き付けていたロープを伸ばし、獣の突き出た口元に縄を投げやり引き絞った。
「グルゥゥっ」
獣は口を縛られ唸り声を上げながら地面に叩きつけられる。カンナはその隙に立ち上がり体勢を整えた。
そこに後の二匹が同時に飛びかかってきた。
ロープを引き上げ、口を縛られた獣を右側から来た獣に叩きつけ、左側から来た獣には回し蹴りをお見舞いする。
獣は三匹とも、ふらつきながら地面に這いつくばった。
獣達を黙らせると、カンナは少年の姿を探した。
少年は崖から降りようとしている。
やはり、一番傾斜が緩い箇所から降りるつもりだ。
「もう。危ないって言ってるのに……」
カンナは少年の元へ急いだ。
カンナが少年の元へ着いた時、少年は崖に爪を立て下り始めたところだった。
「げぇっ。しつこいな! 消えろっ人間!」
「もう。そんな事ばっかり言って。私はカンナ。そんな体で無理しないで、ほら、私の手。握って……」
カンナは少年に手を伸ばした。自分から掴むことも出来るが、少年から掴んで欲しいと思った。
「……人間は嫌いだ」
少年はカンナを睨み付けてそう答えた。
そして左手の爪を岩肌から外し、右手を着こうとした……が、勿論骨折した右腕は動かなかった。
少年はハッと気付き左手を戻そうとしたが体はバランスを崩し崖の下へと吸い込まれていく。
ーー駄目だ。落ちる……。
「ミィ……シア……」
少年が瞳をキツク閉じると同時に、体が岩肌へと引き戻された。左手が暖かい。
目を開けるとカンナが両手で少年の手を握っていた。
「ねぇ。……足で、登ってこれる?」
「あっ、足?」
少年はカンナに手を掴まれ、ぶら下がった状態になっていた。戸惑いつつも少年は、岩肌に足の爪を突き立てた。
「そう。上手! その調子でっ……あぁっ」
「? どうしたっ?」
カンナは痛みで顔を歪めた。
カンナの右足に、先程の獣が食らいついていた。
「獣か……おい! 俺をぶん投げろっ」
「でっでも……怪我してるし……痛っつぅ……」
カンナは足をバタつかせるも効果は薄く、獣はカンナのブーツを食いちぎった。
そして次に、カンナの喉元へと狙いを定め、飛びかかる。
カンナもそれを察して横に体を反らすが、肩の辺りを獣の牙が容赦なく襲った。肩に牙が食い込み、激痛が走る。
「いやっ……」
その時、少年は自身の爪を肥大させ、崖を駆け上がった。
そして、カンナを襲う獣の喉元に肥大した爪を突き立てる。
獣は少年の攻撃を寸でのところで避け、後ろへ飛び退き荒く唸り声を上げた。
後から来た二匹もそれに合流し、ジリジリと二人と距離を詰め、いつ襲いかかろうかと睨みをきかせる。
「くっそ……」
少年は歯を食い縛り、痙攣する右腕を押さえた。右腕の感覚は無いが、多分ずっと無理をさせていた。
そして肩を庇いながら足を引きずって立ち上がるカンナに目を向け、少年は、奥歯を噛みしめ思考を巡らせた。
人間を餌にするつもりだった。
しかし、こいつを餌にしていいのか?
自分を助けてくれたのに。
するとカンナから作戦を提示された。
「ねぇ。せーので左右に別れて走ろう。君は、左に行って……それで、さっきのテントにいた人達に助けてもらって……」
「は? お前……は?」
「君の方が足が速いから、早く皆の所に行けるでしょう? どっちに何匹付いてくるか、分からないし……私は大丈夫」
カンナはそう言って立ち上がるが、噛まれた足は腫れ上がり、走れそうには到底見えなかった。
「数えるよ……三・二・一、走ってっ」
少年は砂を足の爪で巻き上げカンナの指示通り左へ跳ねた。
そして走り始める前に、後ろを振り返った。
やはり、カンナはその場で踞っていた。
「何だよっ。自分から言っておいてっ」
獣は鼻が利く。弱ったカンナに一斉に飛びかかる所だ。
少年はきびすを返し、獣に向かって一心不乱に走り込み体当たりした。そして首元を狙い爪を立てる。
しかし相手は三匹、大分弱っていた二匹の首を掻き切り絶命させたが、最後の一匹は引っ掻いたものの、力が入らなかった。互いに地面に叩きつけられる。
そして先に体勢を立て直し、もう一度飛びかかってきた獣に、少年の体は高く打ち上げられた。
「かはっ……」
少年は口から吐血し目眩がしたが、何とか自我を保ち、空中で体を捻り着地しようとした。
が、そこに地面は無かった。
あ。今度こそ落ちる。岩肌も一メートル以上離れている。
手を伸ばしても風を切るだけ。
少年は崖下へと落ちて行く。
獣はまだ一匹崖の上。
あいつ……カンナ……だっけ。大丈夫かな……。
何で人間の心配なんかしてんだろ。
最後に浮かぶ顔が、人間なんて嫌だ。
そう。今まさに少年の視界に飛び込んできた。
馬鹿みたいに優しそうな……カンナという人間。
あれ? カンナが見える?
そう思った瞬間、少年はカンナに空中で抱きしめられた。
「なっ何でいるんだよっ」
「わ、わかんない……」
「飛べるのか?」
「飛べないっ」
この人間は本当に馬鹿だ。
飛べもしないのに飛び降りてきたらしい。
カンナの温もりが、全身の震えが、少年にも伝わった。
先程までの絶望感が薄れていく。
しかし、このままじゃ二人とも……死ぬ。




