番外編 とある姉の憂鬱(後編)
まだ私が十歳、カシミルドとカンナは六歳の頃だった。
カシミルドとカンナ、二人はとても仲が良くて、毎日泥だらけになって山を駆けずり回って遊んでいた。
カシミルドはミラルドの魔封具の効果もあり、赤子の時のように空を飛ぶこともなく、安定していた。
しかし、たまにカシミルドだけ怪我をして帰ってくることもあり、活発でお転婆に育ったカンナに、ミラルドはあまり良い顔はしなかった。
カシミルドは口を開けばカンナ、カンナと、カンナの話ばかりで、ミラルドはそれも気に入らなかった。
そんなある日事件は起きた。
ミラルドは、いつも通り叔父と一緒に祠で祈祷をしていた。
すると急に、周囲の精霊の気配が消えたのだ。
ミラルドは叔父と顔を見合わせ、異変を感じて祠から飛び出した。
そして祠から出た瞬間、黒く金色の光を帯びた突風に煽られた。その風からは、カシミルドの匂いがした。
カシミルドに何が……と思ったのも束の間。
ミラルドはその場に一人取り残されたのだ。
触れるものの感覚もよく分からない。
その場にいるのは自分一人。
見渡す限り全ての物が動かないのだ。
「叔父さん!? ねえっ叔父さん!」
叔父もピクリとも動かなかった。
陽射しも風も、精霊も感じない。
しかし意識を集中させると、遠くの方に気配を感じた。
そして声が聞こえた。
『……ミラルドさん。助けてっ』
「カン……ナ?」
ミラルドは慌てて箒にまたがり、魔封具に込められた魔力を利用して空へ飛び上がった。
そして、カンナの元へ急いだのだ。
カンナの声はペシュ村の外れから聞こえた。
「嘘……何で結界の外に……?」
ミラルドは森の奥に降り立った。
そして目の前の光景に息を飲んだ。
虚ろな瞳から金色の光を放ち、黒髪の少年が宙に浮かんでいる。髪は短くなり、首から血を流している。
そしてその背中には、三対の漆黒の羽が生えていた。
今にもその身から禍々しい気を溢れださんとする少年は、ミラルドの弟、カシミルドだった。
その姿は神々しくもあり、気配を感じることが出来ない筈の不思議な空間の中、それでもミラルドは、カシミルドから大きな魔力の存在を感じ取った。
そして少年の前には、すがるように涙するカンナがいた。
ミラルドに気が付くとカンナは泣きじゃくりながら言った。
「みっミラルドさんっ。助けて!? カシィ君が……悪い奴を吹き飛ばして……でも、止まらなくて……」
「カンナ……カシミルドの……呪印の描かれた帯は?」
「えっと……あっ!」
カンナは地面に落ちていた帯を拾い上げミラルドに渡した。
ミラルドは改めて周りの様子を伺った。
この空間で動けるのはカンナと自分だけのようだ。
「カンナ……これはどういう状況?」
「わっ分からなくて……カシィ君から、またあの黒い風が溢れそうで、怖くて目を瞑っていたら……ミラルドさんが来てくれたのっ」
「そう……」
これは多分、時間が止まっている。
私にはこんなことは出来ない。
という事は……カンナが?
考えても分からない。しかし今のうちに、カシミルドの魔力を押さえ込まなくては。
「カンナ。カシミルドに、付けられるだけ魔封具を付けてやって」
「はい!」
ミラルドは指先を噛み、己の血で帯にかかれた古代文字をなぞり、カシミルドに巻き付けた。
そして呪文を唱える。
「我が峰に属する全ての精霊たちよ。彼の者を守りたまえ。故に我に彼の力を委ねろ……って、精霊は動かないか……」
この空間を元に戻さないと、精霊の力が借りられない。
魔封具に閉じ込めた魔力では足りそうになかった。
しかし時間を動かして暴走を止められなかったらどうしようか……。
念には念を。ミラルドは箒にまたがり浮かび上がった。
そしてカシミルドの背中の服を剥ぎ取り、首筋から羽の生え際にかけて、血で呪印を描いた。
これぐらいすれば……しかしミラルドはあることに気がついた。
でも、どうすれば時間は動くのだろうか?
「カンナ。時間、戻してくれる?」
「えっ? 時間?」
カンナは困惑した様子で首を傾げた。
カンナは自分でやった事だとは理解していないようだ。
時を止める魔法なんて、今まで本で見たこともない。
「カンナ。落ち着いて、やってみて」
「でっでも、分からないよ……ごめんなさい。私が結界の外に誘ったから……ごめんなさいっ」
「今はそんなこと責めてないから!! でも、そうね。いつもカシミルドを危ない目に合わせて……あちこち連れ回して、怪我させてっ」
カンナはミラルドの叱責に体を縮こませ、両目から涙をボロボロと溢し、それを手で拭った。私は怯えきったカンナに、さらに追い討ちをかけた。
まだ六歳の女の子に、カシミルドを取られた怒りや妬みを全部吐き出してしまったのだ。
「泣いても意味ないから。カシミルドがこんなことになったのもカンナのせいでしょっ!? 里に居れば、結界の中なら安全だったのに……泣いてないで、どうにかしなさいよっ」
「ごっごめん……なさい……」
カンナは泣きながら声を絞り出しようにしてミラルドに謝った。謝って欲しいわけではない。謝ったって時間は戻らない。
この空間がカンナの魔法なら、術者を痛め付ければ……。
ミラルドは一瞬躊躇したが、掲げた右手でカンナの頬を思いっきり平手打ちした。
「!!!」
カンナはその場に倒れ込み、右頬を押さえて放心状態だ。
少しやり過ぎたか……ミラルドは涙も流さず震えるカンナを見て、自責の念に駆られていると、ふと大気の動きを感じた。
時間の流れが戻ったのだ。
重い魔力の奔流を感じ、カンナもミラルドもカシミルドの方に目を向けた。
カシミルドは金色の瞳を煌々と輝かせ、全身から黒く重い魔力を溢れさせ、周囲の精霊を自身に呼び込んでいた。
しかし呪印の帯の効果で、精霊との繋がりを断たれ、力の暴発は防げている様だ。
今しかチャンスはない。ミラルドは詠唱を始めた。
「我が峰に属する全ての精霊たちよ。我が名はミラルド=ファタリテ。彼の者の力を、命の天使ラビエルから授かりし漆黒の帯に封じよ。……我が呪印に彼の力を委ねろっ」
ミラルドは自分で発した言葉に違和感を覚えた。命の天使ラビエル……知らない名前だ。
しかし、頭の中にその呪文が浮かんできた。
ミラルドの戸惑いとは反して、漆黒の帯に金色の呪印が浮かび上がると、カシミルドの翼は霧散し魔力の粒子となって帯に吸い込まれていった。
カシミルドは翼を失うと、数メートル下の地面に向かって、力なく崩れ落ちて行く。このままではカシミルドが地面に叩きつけられてしまう。
しかしミラルドは動けなかった。
呪文を唱えた反動で、体に力が入らない。
「カシィ君!!」
声を上げたのはカンナだった。
そして、間に合うはずもないのにカシミルドに向かって走り出した。
ミラルドは怖くて目を瞑り、何の音も聞こえないことを不思議に思い、瞳をそっと開けた。
すると、いつの間にか、カンナがカシミルドを抱き締め、声を上げて泣いていた。
どうやらカンナはカシミルドを受け止めることに成功したらしい。また、時間を止めたのだろうか。
「カンナ。カシミルドから離れなさい」
カンナはミラルドの声に体をビクつかせ、カシミルドをゆっくりと地面に寝かせた。
ミラルドはカシミルドの頬に手を触れ、そして抱き寄せた。
カシミルドは顔色が悪く、その身からはまだ強い魔力の畝りを感じた。でも、無事で良かった。
その後すぐに叔父と叔母も駆けつけ、皆で里に帰った。
しかし、カシミルドの魔力はそれだけでは押さえきれていなかった。
翌日カシミルドの部屋に入ると、床が黒い羽で埋め尽くされていた。あの時の黒い翼が、片翼だけ急に生えたり、散ったり、部屋の中なのに風が吹き荒れたり雨が降ったり。
ミラルドは悲惨な状況を目の当たりにした。
そして、カシミルドの意識も曖昧で、ミラルドを認識している時もあれば、ただただ力が押さえられずに苦しんでいるだけの時もあった。
だからミラルドは、カシミルドを祠の奥の洞窟に閉じ込めることにした。弟が可哀想ではあったけれど、ミラルドが呪術を完成させるまではと思い、仕方ないと自分に言い聞かせた。
ミラルドの非道ともいえる行動に、叔父と叔母は理解をしてくれたけれど、カンナはそうはいかないとミラルドは考えた。
だから……。
◇◇◇◇
『だから、追い出したの?』
「そうよ。散々罵って追い出したの。二度と帰って来るなって……最低でしょ?」
『ははは。そうですね。それで、弟さんは?』
「一年位……洞窟で過ごしたかな? あの子を制御するのは……骨が折れたわ」
『骨折!?』
「……大変だったって事よ。ちゃんと上手くやってるかしら……」
『よく外に出そうと思いましたね』
「そうよね。自分でも不思議。……でもね、あれから八年。ちゃんとカシミルドが自分の力をコントロール出来る様に、日常生活に魔法を盛り込んで過ごさせたのよ。ただ歩くだけでも、魔力を使えるように……」
『ほほう。工夫しましたね!』
「ありがとう。グリヴェール」
ミラルドは短刀を指で撫でた。人懐っこいグリヴェールに、ミラルドはいつの間にか心を開いていた。
『ふふふっ。あっあの……カンナの時縛りは、誰かに話しましたか?』
「いいえ。分からないことだらけだったし……ただ、あの後、文献で見たのよね。何て本だったかしら……時を縛り、氷付けにして、百年散ることのない花の結晶を作るっていう内容の……」
『おお! それ! それがプレシア様の手記です!』
「えっ。そうなの? 復活の仕方とか載ってるかしら?」
ミラルドは自室の机に置かれた古い冊子を取り出した。
表紙は擦れていて読めない。この本は、面白い魔法が色々と書かれていて、ミラルドのお気に入りだった。
『後ろの頁は、プレシア様の日記ですよ』
後ろの頁?
そこには、白い頁がずっと続いているだけだった。
「真っ白だけど……」
『頁に魔力を送り込めば、文字が浮かび上がると思いますよ』
頁に魔力……よく分からないが、ミラルドは白い頁を指でなぞってみた。すると、薄く文字が浮かび上がってきた。
「あ。本当だわ。えっと……私は見た。漆黒の翼が海に落ち行く姿を。……ん? そして半月に及び、風雷の嵐が大地に轟いた。雷光に破れし風の使いは、私の元に。私は、我が父の犯した罪を償うことにした。グリヴェールという、風の……え? グリヴェール……貴女……?」
ミラルドは短刀を見つめた。短刀に嵌め込まれた、翠色の大きな宝石が淡く光を帯びたように見えた。
グリヴェールは恥ずかしそうに答えた。
『えへへ。信じてくれるんですか?』
「信じるも何も……本当なの?」
『はい!』
「…………」
ミラルドはプレシアの手記を机に置くと、羽ぺンにインクを付けて手紙を書き始めた。
『おお? 何だか筆が乗ってますね!』
「フフフフフ。だって、貴女が本当にそうなら……カシミルドに知らせたら、喜んで帰ってくるもの!」
ミラルドは意気揚々と手紙を書いた。
この手紙を手にして、カシミルドがどんな顔をして読むのか想像しながら。無意識に鼻唄までうたっていた。
この手紙がルミエルに邪魔され、カシミルドに届かないことなど知る筈もなく。
ミラルドはペンを走らせた。




