第二十三話 水の大精霊オンディーヌ
「オン……ディーヌ?」
ラルムがその名を口にすると、目の前の精霊はゆっくりと瞬きをした。たったそれだけの動作が美し過ぎて、ラルムは水晶を滑り落としそうになる。
「わっ私、ラルム=フォンテーヌと申します。あなたに逢いたかったんです。あなたと話したくて、知りたくて、お近づきになりたかったんです!!」
ラルムは興奮状態でオンディーヌに呼び掛けた。自分が何を言ったのか、言った側から忘れていく。
頭の中は真っ白だ。憧れの大精霊が目の前にいる。
この世界に生まれて良かった。
ラルムは身も心も舞い上がっていた。
しかしオンディーヌはラルムの言葉を聞いても表情ひとつ変えなかった。
「何故知りたい? 何故近づきたい?」
「へっ? それは勿論、あなたが美しいからです」
「フフフッハハハハッ! 美しい? 私が?」
オンディーヌは高らかに笑い、そしてゆっくりと瞳を閉じた。
空気が冷たくなった。ラルムの肌に冷気が触れる。
「お前に何が見える? お前は私を見て、何を感じる?」
オンディーヌがラルムの頭の中に、キリキリと痛むほど冷たく大きな声を響かせてくる。
先程まで美しかった瞳の色が、黒く淀んで見えた。
湖に波紋が広がる。それは次第に大きくなり、白波が立つ。オンディーヌの絹の様に美しい髪は靡き、湖の底から黒く濁った水がボコボコと音を立てて溢れだした。
湖一面が黒く淀む。
オンディーヌの透き通った肌が、ドレスの様に纏った神秘的な水の衣が、湖の水を浸透させ、どす黒く染まっていく。
先程までの神々しさとは真逆の、その悪しき姿に、ラルムは怯え後退りした。
オンディーヌが一歩ずつ湖上を歩き、ラルムに近づく。黒い湖の水面は、オンディーヌが触れた箇所だけ白く凍りついた。
「これは? 何が……オンディーヌっ」
「気安く我の名を呼ぶでない!」
頭の中にオンディーヌの叫び声が響く。
頭が割れるように痛い。
ラルムは耳を手で塞いだが、何の効果もなく、瞳をギュッと瞑った。
手に持っていた水晶は落ち、地面を転がりパキパキと音を立てる。足元の草も凍りついていた。
オンディーヌの黒く淀んだ瞳は光を失い、まるで仇でも見るような目でラルムを見据える。
目を瞑り、恐怖で震えるラルムの頬に、オンディーヌはゆっくりと手をかけた。触れた箇所が白く凍てつき、ラルムは針にでも刺されたかの様な痛みを感じ、瞳を開けた。
眼前にいるオンディーヌは、ラルムの幻想とは遥かに遠い姿をしていた。瞳は黒ずみ、その瞳に見つめられると、それだけで身も凍る思いだ。
これが……精霊?
「嫌……来ないで……」
「フフフ。お前が呼んだのだろう? フォンテーヌ……ああ、嫌な響きだ。お前に聞こえるか? 同胞の恨みが……」
「恨……み?」
オンディーヌは、ラルムから手を離し湖に視線を落とした。そして右手を何かを引き上げるようにゆっくりと掲げた。足元の氷がひび割れ、湖の底から黒く濁った水をその右手に呼び込もうとする。
ラルムはその場から逃げたい一心であったが、足が震えて動かなかった。
「怖いのか? 人間とはつまらぬ生き物よ。弱い癖に、己を過信し欺き、そして他から奪ったのに、我が物顔でそれを使う。我らを消すのは人間の業か? 湖の底に沈んだ、同胞の穢れた魂の苦しみが……お前に分かるか? 我に逢いたかった? 知りたかった?ーーならば知るがいい。我らの恨みと怒りを、その身で受けるがいい!!!」
オンディーヌの怒号と共に、背後の湖から黒い水柱が何本も上がった。冷たいオンディーヌの指が、ラルムの首に絡まり、きつく締め上げる。
ラルムは必死でオンディーヌの手を振りほどこうとするが、その手に触れるだけで指先が凍り、痺れて力が入らない。
意識が遠退いていく。
緑色の木々が歪み、視界が閉ざされていく。
このままじゃ、精霊に……。
やっと会えたのに。
嫌……嫌だ。
助けて……。
シエル。
「ラルム!!」
消えかける意識の中、シエルの声がした。
そこでラルムの意識は途絶えた。
シエルはラルムを視界に捉えると走りながら前方に杖を構えて詠唱を始めた。
「風の精霊よ。我が呼び声に応えよ。我が名はシエル=ミストラル。我が魔力を喰らいてその力とせん。集いて舞え……」
「また人間か? 目障りだな……」
オンディーヌは風のように駆け寄るシエルを見ると、眉を潜め指先に力を込める。
「ラルムから手を離せ!ーー出でよ竜巻っ」
シエルは足先に力を込め、宙に飛び上がると、ラルムとオンディーヌ目掛けて突っ込んだ。
それと同時にオンディーヌの足元から黒い水を巻き込み竜巻が上がる。
「何っ!?」
オンディーヌは渦から抜けるようにして、湖の中央に後退し、その場で二人の様子を窺った。
シエルは竜巻の中心部で倒れたラルムを抱き上げた。頬から首にかけて霜が降り顔色が真っ青だ。
「ラルム!! おい。ラルム……くそっ」
ラルムの肩を揺すっても反応はなく、意識は戻りそうもない。
でも息はしている。無事で良かった。
シエルの周りの竜巻が散る。
すると、湖上のオンディーヌと目が合った。
まだ何か仕掛けて来る気満々の目をしている。
「お前は何だ? ラルムに何をした!?」
勇ましくもシエルはオンディーヌに喧嘩を売った。普段のシエルなら、格上と思った相手にそんな事はしないのだが、完全に頭に血が昇っていた。
オンディーヌは、そんなシエルを嘲笑う。
「我はオンディーヌ。威勢の良い子供だな。ーーそこのフォンテーヌの人間。そいつが我を呼んだのだ。勝手に呼んで、勝手に知りたがり、勝手に勝手に……全く人間は……身勝手な生き物だな。その女だけは逃がさないぞ? 死して同胞と同じ苦しみを味あわせてやる!!」
オンディーヌの殺気と共に、湖の水面に張られた氷にヒビが入った。
刹那、十数本の黒く淀んだ水柱が上がった。
それはまるで生を吹き込まれたかのように畝り、先端は大蛇を象り空高く突き上がった。
そして上空からシエルとラルムを目掛けて急降下する。
「なっ……」
シエルは驚いて声を挙げたが言葉が続かない。
あんなデカイ蛇が十数匹。避けきれる筈がない。
防御魔法を唱えても持つか……しかし、やるしかない。
そう腹を括った時。
「シエル!?」
やっとシエルに追いついたテツが、剣を片手に二人の前に立ちふさがった。剣一本で、あの大蛇を迎え撃つ気のようだ。
「シエル。私の後ろに防御魔法を張れ。ラルムを頼んだぞ」
「でも、それしゃあテツ様は!?」
「どうせ私に魔法は効かない。二人分でいいから、急げ! 来るぞ!」
シエルはテツの言った通りに防御魔法を形成すべく詠唱を始めた。
しかし、シエルは不安だった。
いくら以前もあの剣で魔法を弾いたといっても、さすがにあの大蛇は無理ではないか。
いや、無理だからこそ、俺とラルムには防御魔法を?
シエルがあれこれ考えている内に、大蛇は直ぐそこまで迫ってきていた。
テツは腰から七色に輝く短刀を抜き、それを左手に持ち、右に持つ剣と交差させ身構えた。そして短刀に語りかける。
「力を貸してくれ。輝剣、七煌の兄弟刀よ……」
短刀が光を反射した。
まるでテツの言葉に頷くかのように。
十数本の大蛇は、降下中に畝り混ざり合い、一つの塊となって落ちてきた。それはテツから方向を変え、湖の淵を舐めるように一周し、黒く淀んだ塊を更に吸い上げて襲いかかってきた。
テツは息を大きく吸い込み身構える。そして、黒く濁った大蛇から決して目を離すことなく迎え撃った。
大蛇はテツに真っ正面から突っ込むと、どす黒い血のような水滴を撒き散らし、テツの剣によって四枚に引き裂かれていった。
シエルが出した風の防御結界に、泥のような黒い蛇の欠片が大量に降り注ぎこびりついた。
テツは何とか衝撃に耐えていたが、全てを絶ち切る前に、その水圧で体を大きく後方へ弾き飛ばされた。
「テツ様っ!?」
テツは空中で三回転し、衝撃を相殺させ、十数メートル後ろに見事に着地した。そして平然と剣にへばりついた泥のような黒い塊を振り落としている。
「凄っ!」
シエルはテツの身体能力の高さに驚かされる。魔法が使えないのだから、あの動きは自分の筋力のみでしたことの筈だ。
テツはシエルと目が合うと、湖の方を睨んで叫んだ。
「シエル! 余所見するな!」
テツが駆け始めるも間に合わない。
大蛇が裂かれたことでシエルは油断し、防御魔法が切れていることに気づいていなかった。
湖の方を振り向くと、大きな口を開けた二匹の大蛇が、淵から飛び出し目の前に迫っていた。ラルムを抱き寄せるも、二人はそれぞれ別の大蛇に飲み込まれ、黒く濁った腹の中にドップリと収まった。
シエルとラルムは、泥のような蛇の腹の中で、息が出来ずもがき苦しんでいる。
「フフフ。いつまで持つだろうな……」
オンディーヌが満足げに瞳を光らせ笑みを溢した。
「くそっ!」
テツは剣を振り上げ、遠方から二人をのみこんだ大蛇を引き裂こうとしたが、背後から別の大蛇に追突され、体が宙を舞った。
しかし追突した大蛇は、テツに触れたことにより、頭を失い、その場に泥となって飛び散る。
そしてテツは、空中に跳ね上げられ体勢を崩した処でもう一匹の大蛇に飲み込まれた。
それを見て、オンディーヌは笑っていた。
しかしその笑顔は直ぐに止む。
テツを飲み込んだ大蛇は、上空で泥を吹き出し体を霧散させていた。
オンディーヌは泥の中から汚れ一つ無く現れたテツを目を凝らして見つめた。
「何?……そうか。あいつは、慈愛の天使の祝福と哀しみを宿すものか……でもその存在は、時代遅れだ……」
テツは剣を十字に構えたまま、真っ逆さまに氷の張った湖に落下していく。
「死ね……人間共……フフフッハハハハハッ……」
オンディーヌの笑い声が森にいる全ての生き物に響いた。




