表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒールを脱いだら、東京はただの空になった  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

無名の盾、透明な再契約

第九章:無名の盾、透明な再契約


 新宿駅のホームに降り立った瞬間、鼓膜を叩いたのは、あの暴力的なまでの情報量だった。  行き交う人々の足音、自動改札の電子音、誰かの話し声、そして絶え間なく流れる駅のアナウンス。三日前には耳を塞ぎたくなったそのノイズが、今の私には不思議と心地よい低周波のように感じられた。


 地元の山々に囲まれた、あまりにも純度の高い静寂。そこには、真紀が守る「代わりのいない責任」と、奈津美さんが背負う「自分だけの責任」が重く沈んでいた。  それに比べて、この新宿の雑踏はどうだろう。  ここでは、誰も私を見ていない。私が何者で、どこから来て、何に絶望しているかなど、隣を歩く誰一人として興味を持っていない。


(ああ、私はこの『無名』という盾に守られていたんだ)


 改札を抜け、夜の街へ出る。  かつては私を品定めしているように見えたビルの明かりも、今はただ、巨大な装置の回路が明滅しているだけに過ぎないと思えた。私はその回路の中を流れる、数千万分の一の電流でいい。その代わり、仕事が終われば、私は誰の期待も背負わない「ただの私」に戻ることができる。


 月曜日。一週間ぶりのオフィスは、驚くほど何も変わっていなかった。  私のデスクには、新しいプロジェクトの資料が積み上がっており、佐藤さんは以前と変わらず淡々とキーボードを叩いている。佐久間部長の声がフロアに響くのも、コーヒーマシンの唸る音も、すべてが一週間前と同じリピート放送のようだった。


「おはようございます、長谷川さん。体調、もうすっかりいいみたいですね」


 佐藤さんが顔を上げ、穏やかに微笑む。かつてはその笑顔に「自分の居場所を奪われた」という被害妄想を抱いていた私だが、今はただ、その有能さが頼もしかった。


「うん。佐藤さん、先週は本当にありがとう。……これ、地元のリンゴで作ったお菓子。良かったらみんなで食べて」 「わあ、ありがとうございます! 長野、いいところですよね」


 お土産を配り終え、自分の椅子に深く腰を下ろす。  不思議な感覚だった。デスクの角の傷、使い古したマウス、付箋だらけのPCモニター。それらは昨日まで私を縛り付ける「檻」の一部だったのに、今はただの「道具」に見える。  私は、この会社という装置を動かすための部品だ。けれど、私の心までこの装置に差し出す必要はない。


「長谷川、ちょっといいか」


 佐久間部長に呼ばれ、私は手帳を持って立ち上がった。  会議室に入ると、部長はいつものように数字の並んだ資料を突き出してきた。


「今回のキャンペーンの成功を受けて、来期からは長谷川に新しいチームのリーダーを任せようと思っている。佐藤さんもそのまま君の下に付ける。どうだ、もっと上を目指せるチャンスだぞ」


 これまでの私なら、この言葉に飛びついていただろう。  ここでリーダーになり、役職を得て、自分の「代わり」をさらに遠ざけること。それが東京で生き残る唯一の道だと信じていたから。  けれど、今の私は、自分の内側にある静かな声に耳を澄ませていた。


「ありがとうございます、部長。……でも、少し考えさせていただけますか」 「考える? 何をだ。不満でもあるのか」 「いえ、不満ではありません。ただ、自分がこれからどういう形でこの街に関わっていきたいか、一度整理したいんです」


 佐久間の顔に、一瞬だけ困惑の色が浮かんだ。彼のような人間にとって、組織での昇進を保留にする人間は理解不能な存在なのだろう。  でも、私はもう、誰かが用意した「幸福の出世階段」を盲目的に登ることに疲れてしまったのだ。


 その日の帰り道。私は渋谷や銀座、あるいは話題の新スポットへは向かわなかった。  私が向かったのは、帰省前に見つけた、あの住宅街の隅にある小さな神社だった。


 境内に入ると、都会の熱気がふっと和らぐ。  私は石段に座り、バッグから一冊のノートを取り出した。実家の机の奥から持ってきた、十年前の私が書いていた日記帳だ。  そこには、汚い字でこう書かれていた。


『東京は、何にでもなれる街だって聞いた。でも私は、何者かになりたいんじゃなくて、誰にも縛られずに生きたいだけなのかもしれない』


 十八歳の私が、無意識のうちに書き残していた本音。  十年かけて、私はようやくその言葉の意味を理解し始めていた。  「何者か」になろうとするから、代わりがいることに怯えるのだ。  「何者でもない自分」を楽しめるようになれば、この街の巨大な匿名性は、最高の隠れ蓑になる。


 私はスマートフォンを取り出し、ずっと消せなかったマッチングアプリのアイコンを長押しした。  誰かに選ばれることで自分の価値を確認する作業は、もう十分だ。  「削除」のボタンを押すと、画面が少しだけ軽くなったような気がした。


 続いて、私は転職サイトのアプリを開いた。  今の会社を辞める。それは、敗北ではない。  これまでの十年で培ったスキルを携えて、もう少し「自分だけの時間」を大切にできる、あるいは「代わりがいること」を前提とした、もっと風通しの良い場所へ移るためのステップだ。  あるいは、正社員という形にさえこだわらなくてもいいのかもしれない。


 夜の帳が下りる神社の境内で、私は自分のこれからの数ヶ月を想像した。  今の仕事を丁寧に引き継ぎ、佐藤さんにバトンを渡す。  そして、この東京という街のどこかに、自分だけの小さな拠点をもう一度作り直す。  それは、実家のような「帰る場所」でもなく、恵梨香のような「見せるための場所」でもない。  ただ、私が私として、静かに息を吸える場所。


 ふと見上げると、ビルの谷間に細い月が浮かんでいた。  地元の山で見上げた月と同じ月なのに、ここでは少しだけ青白く、都会的な光を放っている。


「……よし」


 私はノートを閉じ、バッグにしまった。  立ち上がると、膝のあたりが少しだけ軽かった。  ヒールを履いていても、今の私なら、どこまででも歩いていける気がした。


 私は、自分が「誰でもない存在」であることを、誇りに思いたい。  東京という巨大な波の中で、消えそうで消えない一滴の雫として。    明日、会社に行ったら部長に伝えよう。  昇進ではなく、退職の意向を。  そして、数ヶ月後の私は、きっと新しい地図を手にしているはずだ。    東京十年目。  私の本当の物語は、この「無名の夜」から始まろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ