【第70話】次なる道標 ―― 鉄と煤の街へ
『神耳の落ちこぼれ』
世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
ルカは、自らの左手で、ノアの温かい銀色の首筋を力強く抱き寄せた。
獣の毛皮に染み込んだ雨の匂いと、泥の匂い、そして血の匂い。 そのすべてが、今のルカにとっては「世界が生きている証」として、この上なく愛おしく感じられた。
「そうよね。私は神様じゃない。……ただの、しぶとくて諦めの悪い『継ぎ接ぎ屋』なんだから」
ルカは、ダラリと垂れ下がったままの自分の右腕を、もう一度、誇らしげに見下ろした。
「針がないなら……作ればいいわ」
彼女の声は、広場の喧騒に掻き消されるほど小さかったが、その中には、どんな硬い鋼鉄よりも折れることのない、強靭な意志の芯が通っていた。
「腕が動かないなら……無理やり機械で縛り付けて、ワイヤーで引っ張ってでも動かしてやるわ。空間を引っ張る力が足りないなら、ノアの熱も、人間の知恵も、この世界にあるすべての『ノイズ』をかき集めて、一本の太い糸に編み上げてやる」
絶望のスケールがどれほど巨大であろうと、関係ない。 彼女はもう、痛みを恐れない。泥にまみれることを恥じない。 不完全な自分が、不完全な道具を使って、この壊れかけた世界を泥臭く繋ぎ止める。それこそが、彼女が見つけた唯一無二の「魔法」なのだから。
ルカは、ノアの首から手を離し、広場の泥水を蹴って、力強くスッと立ち上がった。 その華奢な背中は、冷たい秋雨に打たれ、右腕は無惨に垂れ下がっているというのに。不思議なほどに大きく、そして、背後にある巨大な城壁よりも遥かに頼もしく見えた。
「行くわよ、ノア」
ルカの瞳は、はるか遠く、北の空に浮かぶ絶望の淵ではなく。 彼女にしか見えていない、その絶望に立ち向かうための「泥臭い希望の設計図」だけを、真っ直ぐに、そして確かな熱量を持って見据えていた。
無力な掌は、もはや空っぽではない。 そこには、ノアから受け取った確かな体温と、どんな困難も不格好に縫い合わせてみせるという、一流の職人としての『炎』が、力強く握りしめられていた。
* * *
「アイアン・ヘイヴンへ……?」
泥水の中に這いつくばったままの通信士の青年が、ルカのその言葉を反芻し、信じられないものを見るように目を丸くした。
機巧都市アイアン・ヘイヴン。 それは、魔術ギルドに属する者たちからすれば、魔法という高貴な力を否定し、野蛮な鉄と蒸気の力に傾倒した「異端の街」である。しかも、空間の亀裂を塞ぐような神秘の秘術など、あの煤にまみれた職人街に存在するはずがないと、誰もが思っていた。
「ル、ルカ様、正気ですか!? あそこには、魔法の針を打てるような魔道具師などおりません! あそこにあるのは、ただの鉄クズと歯車だけです! そんな場所へ向かって、一体どうやってあの『黒い太陽』を塞ぐおつもりですか!」
青年は、すがりつくようにルカのブーツの爪先に手を伸ばした。 彼ら魔術ギルドの人間にとって、世界を救うのは常に「高尚で完璧な魔法」でなければならなかった。鉄の街の職人たちに頭を下げ、泥臭い協力を仰ぐなど、彼らのちっぽけなプライドが許さなかったのだ。
しかし、ルカは青年が伸ばしてきた手を、冷たく振り払うことはしなかった。 ただ、静かに、そして圧倒的な確信に満ちた瞳で見下ろし、はっきりと告げた。
「だからこそ、行くのよ」
ルカの言葉に、青年は息を呑んだ。
「完璧な魔法の針は、もうない。……だったら、不格好でも、重くても、絶対に折れない『鉄の巨針』を打ってもらうしかないじゃない。神経の死んだこの腕が魔法で動かないなら……蒸気の圧力と分厚い鋼鉄のワイヤーで、外側から無理やり肉体を縛り付けてでも、強引に振り回すしかないじゃない」
ルカは、ダラリと垂れ下がる自分の右腕を左手で力強く掴み、その細い肉の感触を確かめるようにギュッと握りしめた。
「私はかつて、あの街で、お父様が作り上げた『完璧な論理の塔』を叩き壊したわ。……隙間のない完璧な機械は、ただの孤独な檻だと言ってね。あそこに住む職人たちに、不格好なノイズと、人間らしい熱量を取り戻させたのは、他でもない私よ」
ルカの脳裏に、アイアン・ヘイヴンのむせ返るような重油の匂いと、真っ赤に焼けた鉄を打つハンマーの甲高い音が鮮明に蘇る。 そして、義肢職人ガリィの、油にまみれた太い腕と、ぶっきらぼうだが深い愛情に満ちた笑顔。さらに、狂気から目を覚まし、泥だらけになって街の復興に汗を流しているであろう、父・アルベルトの姿。
「今度は……私が彼らに、頭を下げる番だわ。私が壊したあの街の『不格好な鉄の力』を、今度は私自身に継ぎ接ぎして、一緒に世界を救ってくれって……泥にまみれて、頼みに行くのよ」
それは、かつて「自分こそが世界を完璧に計算できる天才だ」と驕り高ぶっていた王宮の魔道具師としてのルカの、完全なる決別宣言であった。
神としての偶像を捨て去り、一人では何もできない不完全な人間であることを心の底から認めたからこそ、彼女は誰かに「助けてほしい」と、誇りを持って頭を下げる決意を固めることができたのだ。
「……ルカ、様……」
通信士の青年は、そのルカのあまりにも人間臭く、そして途方もなく巨大な覚悟を前にして、返す言葉を完全に失い、ただ泥の中にへたり込むことしかできなかった。
ルカは群衆へと向き直った。新たな希望の炎を人々に分け与えるために――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。




