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ステラ・ニードルの記憶 〜完璧な魔法を失った天才魔導師は、真鍮の義手で不完全な世界を継ぎ接ぎする〜  作者: 紡木 綸


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【第68話】漆黒の太陽と、空っぽの掌

『神耳の落ちこぼれ』


世界の声が聴こえる少女と、仲間たちの成長を描く長編ファンタジーです。

少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。

雨煙を切り裂いて転がり込むように駆け込んできたのは、分厚い革の外套を着た一人の青年だった。 彼の外套の胸元には、大陸全土の魔力通信を統括する『王立魔術ギルド』の紋章が銀糸で刺繍されている。

しかし、その高貴なはずの制服は泥と泥水で見る影もなく汚れ、青年自身の顔は、まるで死神に魂を魅入られたかのように、血の気を完全に失って土気色に変色していた。

「通信士だ! ギルドの伝令が来たぞ!」

群衆が慌てて左右に割れ、道を開ける。 青年は、泥濘ぬかるみの中で何度も足をもつれさせ、転びながらも、狂ったような眼差しで周囲を見渡し、そして、広場の中央に立つルカと銀狼ノアの姿を捉えた。

「ル、ルカ様……! おお、神よ……! 探しました、大陸中のギルド支部が、あなた様の行方を……ッ!」

通信士の青年は、ルカの足元に文字通り転がり込み、泥水の中に両膝をついた。 彼は、息を吸うことすら忘れたかのように激しく咳き込みながら、震える手で懐から厳重に封印された『一枚の羊皮紙』を取り出した。

その羊皮紙は、通常の書簡ではない。国家の存亡に関わる最重要機密を伝えるための「緊急魔力通信」を物理的に現像したものであり、紙の表面からは、触れる者を火傷させるほどの高熱と、禍々しい赤い魔力の火花がチリチリと漏れ出していた。

「報告を。……何があったの?」

ルカは、青年の異常なまでの狼狽ぶりに、事態がただごとではないことを察知し、生身の左手を差し出した。

「き、北の最果てです……。大陸の屋根とも呼ばれる、我が大陸最大の魔力集積地……『霊峰スノー・ホワイト』の頂で……かつてない規模の空間崩壊が発生したとの、報告が……!」

青年が絞り出した『霊峰スノー・ホワイト』という名前に、広場にいた商人や傭兵たちが息を呑んだ。 そこは、人間の生存を許さない絶対零度の猛吹雪が支配する、大陸最北端の死の雪山だ。

「……空間崩壊? 新しい虚無の亀裂が開いたのね」

ルカは、静かに、しかし警戒を強めた声で確認した。「カテゴリーは? 被害の規模は?」

「き、亀裂などという、生易しいものでは……ありません……!!」

通信士の青年は、ガチガチと歯の根を鳴らし、自分の口から出ようとする言葉の恐ろしさに自ら発狂しそうになりながら、絶叫した。

「空が……空そのものが、巨大な『漆黒の穴』となって、山を丸ごと飲み込もうとしているのです!! 現地の監視哨からの最後の通信によれば……それはまるで、空に『黒い太陽』が昇ったかのようだと……!!」

ドクン、と。ルカの心臓が、ひどく嫌な音を立てて跳ねた。

「黒い、太陽……?」

「はい! 直径数キロメートル……いや、もはや測定不能な規模の、底なしのブラックホールです! 霊峰の山頂をすり鉢状に丸ごと抉り取り、そこに存在するすべての物理法則を狂わせています……! 現地では重力が完全に逆転し、地表の雪が、岩盤が、そして逃げ遅れた麓の村の家屋が、滝が逆流するように空へ向かって落ちていき、あの黒い穴に触れた瞬間に『無』へと消滅していると……!」

広場は、水を打ったような、いや、世界から音が完全に死滅してしまったかのような、絶対的な静寂に包まれた。 降る雨の音すらも、人々の耳には届かなくなっていた。

通信士の語る内容は、彼らの理解の範疇を完全に超えていた。 「空間の亀裂」という、これまでの局所的な災害の話ではない。世界という名のキャンバスのど真ん中に、巨大なバケツで強酸をぶちまけられたような、純粋な『世界の終わり』の光景そのものであった。

「嘘だろ……」 傭兵の男が、手から武器を取り落とした。剣が石畳に落ちる甲高い音が、静寂を切り裂く。

「監視哨の魔力計測器は、すべて計測限界を突破して爆発しました……。あの『黒い太陽』は、今この瞬間も、秒単位でその直径を巨大化させ、周囲の空間を貪り喰っています! このままでは、あと数日……いや、早ければ三日と持たずに霊峰スノー・ホワイトそのものが完全に消滅し、その余波で大陸の北半球全体が、虚無の奈落へと一気に崩落します!!」

青年の最後の絶叫は、人々の魂に、死の宣告として重く、冷たく突き刺さった。

三日。 たったの三日で、この大陸の半分が、跡形もなく消滅する。

彼らが今日、パンをかじり、雨を凌ぎ、明日も生きられると信じていたこの当たり前の世界が。 巨大な黒い穴によって、家族ごと、歴史ごと、物理的に「デリート」されてしまうのだ。

「ああ……あぁぁぁぁぁっ……!!」

沈黙が破られ、広場は再び、先ほどまでの希望が嘘であったかのように、最も深く、最も醜悪な『絶対的絶望』のパニックへと叩き落とされた。

「終わりだ! 世界が、空に喰われるんだ!!」 「逃げろ! 少しでも南へ! いや、南へ行ったって、大陸の半分が消えちまったら海に落ちるだけだ!!」 「神様……! どうかお助けください! 助けてぇぇぇっ!!」

人々は、頭を抱えて泣き叫び、泥水の中に倒れ込み、あるいは見えない恐怖から逃れるように広場を右へ左へと狂乱して走り回り始めた。

ほんの数分前、ルカの等身大の強さに触れ、「自分たちも足掻こう」と前を向きかけた彼らの心は。 大自然の、いや、宇宙のことわりがもたらす『致死量の暴力(絶望のスケール)』を前にして、あっさりと、無残に砕け散ってしまったのである。

人間の絆や、不格好な継ぎ接ぎの美学など、あの巨大なブラックホールの前では、あまりにもちっぽけで、無力な精神論に過ぎないと、誰もが悟ってしまったのだ。

「ル、ルカ様……! どうか、どうかあの山頂へ向かってください! あなた様の、その『白銀の腕と魔法の針』で……あの黒い太陽を、一瞬にして縫い閉じてください! 世界を救えるのは、もう魔女様、あなたしかいないのです!!」

通信士の青年は、ルカが先ほど群衆の前で「右腕は動かない」「針は失った」と宣言したことを知らない。 彼はただ、ギルドの大人たちが縋り付いた「完璧な救世主の偶像」という噂だけを信じ、血走った目でルカの足元にすがりつき、顔を泥水にこすりつけて懇願した。

「……」

狂乱する群衆。泣き叫ぶ子供。足元で祈りを捧げる通信士。 その圧倒的な混沌ノイズの只中で。

ルカは、ただ一人、顔色一つ変えずに、静かに立ち尽くしていた。 彼女は、生身の左手で、青年から差し出された高熱を放つ羊皮紙を受け取った。

そこには、魔力波形の乱れを示す複雑なグラフと、絶望的な予測数値がびっしりと書き込まれている。

ルカの魔道具師としての天才的な頭脳は、その数値を見た瞬間に、通信士の青年がパニックのあまり誇張して語ったわけではなく、このデータが『純然たる物理の真実』であることを、極めて冷酷に理解してしまっていた。

(……間違いない。これは、大陸の地脈の「致命的な大動脈瘤の破裂」だわ)

ルカの視線が、羊皮紙から、冷たい雨の降る灰色の空へと向けられた。 その視線の先には、数千キロ離れた北方の果て、霊峰の頂にぽっかりと開いたであろう、底なしの漆黒の深淵が、ありありと幻視されていた。

原因は、明白だった。 世界中で、小さな空間の綻びが同時多発的に発生していた。それは世界が「深呼吸」をするための、ガス抜きの穴だった。

しかし、その小さな綻びの数々は、これまでの歴史の中で、あるいは誰かの手によって「強引に塞がれすぎて」きたのだ。 行き場を失った大地の凄まじい反発力(応力)が、大陸最大の魔力の集積地である霊峰の山頂に一極集中し、内部から空間を大爆発バーストさせた結果である。

いわば、この世界は、ルカの想像を遥かに超えるレベルで、すでにボロボロに傷つき、内側から限界を迎えていたのだ。

(直径数キロに及ぶ空間の欠損……。しかも、重力が逆転するほどの引力異常)

ルカは、自身の頭の中で、その「黒い太陽」を縫い合わせるためのシミュレーションを、猛烈な速度で組み上げていった。

(あの穴を塞ぐには、これまでの亀裂の何万倍もの『張力』を持った糸が必要になる。そして、その糸を固定するためには、どんな絶望的な空間の反発力バックラッシュにも絶対に折れない、強靭で巨大な『針』と……それを支え切るための、圧倒的な『腕の出力』が不可欠だわ)

ルカは、そっと自身の視線を下へと落とした。 彼女の瞳に映ったのは。

魔術ギルドの青年がすがりついて祈っている、「神の威光を放つ白銀の腕」などではなかった。

雨に打たれ、血の気を失い、ただ重力に従ってダラリと垂れ下がっているだけの、神経の死んだ『生身の右腕』。 そして、その手には、かつて世界を繋ぎ止めるための要石であった『ステラ・ニードル』は、握られていない。

彼女の手のひらは、完全に、そして絶望的なまでに『空っぽ』であった。

「クゥゥン……」

隣で、銀狼のノアが、ルカの心の奥底に吹き込んだ極寒の隙間風を感じ取り、心配そうに彼女の腰に身をすり寄せた。 ノアの野生の勘もまた、北の空から漂ってくる、この世の終わりを告げるような強烈な死の匂いに、全身の毛を逆立てて震えていた。

世界が、死にかけている。 そして、自分は、武器も、腕も、魔法の力すらも失った、ただの不完全な十七歳の少女だ。

広場に響き渡る人々の悲鳴が、世界の終わりのカウントダウンのように、冷たい秋雨とともにルカの鼓膜を打ち据え続けていた。 圧倒的な絶望のスケールを前に、彼女は今、自らの「無力な掌」と、真正面から対峙することを余儀なくされたのである。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

セレンたちの物語を楽しんでいただけたら嬉しいです。

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