【第58話】未完成の遺言 ―― 時の止まった山小屋
永遠の完成を誇っていた絶対防壁が、数千万の青白い光の破片となって砕け散った。 その光の吹雪が完全に森の土へと溶け込んで消えるのを待つことなく、ルカは荒い息を吐きながら、世界樹の根本へと続く、古びた石畳の道へと足を踏み出した。
防壁を粉砕した代償として、彼女の右肩からぶら下がる麻痺した腕とステラ・ニードルは、もはや武器としての限界を迎えていた。 絶対零度の結界を物理的に打ち割った衝撃で、腕と巨大な針を一体化させていた分厚い革紐はズタズタに引き裂かれ、純銀の刀身も激しく刃こぼれを起こしている。
ノアから受け取った莫大な熱も、すでに冷たい外気へと霧散してしまった。 それは今や、ルカの小柄な身体にはあまりにも重すぎる、ただの「無骨な金属の塊」であった。
一歩足を踏み出すごとに、その途方もない質量が右肩の肉と骨を乱暴に下へと引きずり込み、千切れかけた革が素肌に食い込んで、死んでいるはずの肩の奥深くに生々しい激痛を走らせる。
「……っ、ふぅ……」
ルカは苦痛に顔を歪めながらも、左手でその重い右腕と針を抱え込むようにして庇い、決して立ち止まろうとはしなかった。
セインの結界が破られたことで、数十年ぶりにこの森の最深部に吹き込んだ「外の風」が、ルカの汗ばんだ前髪を優しく揺らしていく。 それは、アイアン・ヘイヴンの煤煙と土の匂いを微かに含んだ、泥臭く、生温かく、そして間違いなく「世界が生きている」ことを証明する風だった。
その風に背中を押されるようにして、ルカとノアは、世界樹の巨大な根が複雑に絡み合う迷宮を抜け、ついにその中心――森の真の最深部へと辿り着いた。
「……え?」
そこにあった光景を目にした瞬間。 ルカの心臓が、まるで冷たい手で直接鷲掴みにされたかのように、ドクン、と不吉で巨大な音を立てて跳ね上がった。
世界樹の太い根と根の間に抱かれるようにして、ひっそりと建つ一つの建造物。 それは、セインが作り上げた琥珀色の結晶群のような、狂気的で幻想的な芸術品などではなかった。 また、アイアン・ヘイヴンのような無機質な煉瓦と鋼鉄の塊でも、王宮のような白銀の尖塔でもない。
そこにあったのは、丸太と漆喰で組まれた、極めて質素で、古びた『木造の山小屋』だった。
切妻屋根には、雨風を凌ぐための厚い杉皮が葺かれ、石組みの小さな煙突がちょこんと突き出している。 壁の木材は適度に風雨に晒されて深い飴色に変色し、窓枠には、素朴な意匠の施された木彫りの飾りが嵌め込まれていた。
森の時間を止めていた琥珀色の結晶は、なぜかこの山小屋の周囲数メートルの空間だけには及んでいなかった。 まるで、セインの狂気的な魔力でさえも、この場所だけは侵すことができなかった不可侵の聖域であるかのように。
しかし、ルカの足が床に縫い付けられたように止まり、彼女の呼吸が浅く、震え始めた理由は、それが単なる古い小屋だったからではない。
(……どうして。どうして、ここにあるの?)
ルカの視線は、その山小屋のディテールの一つ一つを、食い入るように、そしてひどく怯えたように舐め回した。 雨除けのために少しだけ長く突き出した軒先の角度。 冬の隙間風を防ぐために、不格好に打ち付けられた窓枠の補強板。
そして、玄関の木製の扉に刻まれた、長年の使用によって丸くすり減った微かな傷の形に至るまで。
それは、偶然の似合わせなどというレベルではなかった。 目の前にあるその山小屋は、十年前のあの日、禍々しい銀の雨に飲み込まれて世界から完全に消滅してしまったはずの――ルカの『故郷の家』と、狂おしいほどに全く同じ姿をしていたのだ。
「……嘘。幻覚よ。こんなの……」
ルカは、震える左手を自身の口元に当て、後退りしようとした。 右腕に縛り付けられた巨大な針が、カツン、と不吉な音を立てて揺れる。
母エレンが、森の地脈と調和するために、故郷の家を真似て魔法で作り出した仮の住処だったのか。 あるいは、この森そのものが、ルカの心の一番深い奥底に隠されていた記憶を読み取り、残酷な幻影として眼前に現出させているのか。
理屈は分からない。 だが、目の前にあるその建造物は、ルカがこの十年間、絶対に思い出さないように、自分の魂の最も冷たく暗い地下室に厳重に南京錠をかけて封印し続けてきた『トラウマの原型』そのものだったのだ。
「クゥゥン……」
ノアが、ルカの異常な動揺を察知し、心配そうに彼女の右脚に鼻先を擦り付けた。
「大丈夫……大丈夫よ,ノア。ただの、小屋だもの」
ルカは、自分に言い聞かせるように震える声で呟き、強引に足を踏み出した。 一歩近づくたびに、靴底が踏みしめる土の感触が変わっていく。
結晶化を免れている小屋の前の土は、凍りついておらず、適度な湿り気を帯びた柔らかい「生きた土」だった。 ザクッ、ザクッという足音が、ルカの鼓膜に不気味なほど鮮明に響く。
ルカは、玄関の扉の前に立った。 使い込まれたオーク材の重厚な扉。その中央には、真鍮で作られた、涙の雫のような形をした古びたドアノブが取り付けられている。
ルカは、ゆっくりと、恐る恐る、生身の左手をそのドアノブへと伸ばした。 指先が冷たい真鍮の表面に触れた瞬間。
ビクンッ!!
と、ルカの全身を、凄まじい電流のような衝撃が駆け抜けた。
(……この、感触)
手のひらに収まる、少しだけ歪な涙型の膨らみ。 表面に刻まれた、微かな緑青のざらつき。 そして、ノブを下に押し下げた時に手のひらに伝わってくる、「カチャリ」という、少しだけバネが緩んだ特有の金属の抵抗感。
それは、魔法による幻影などでは絶対に再現不可能な、途方もない『物理的なリアリティ(質量)』を持った記憶のフラッシュバックだった。
ドアノブを握った左手から、十年前のあの日――まだ世界が完璧ではなく、温かく、ざらざらとしていた頃の記憶が、濁流となってルカの脳髄へと雪崩れ込んできた。
『ルカ。泥だらけの手でドアノブを触っちゃ駄目って,いつも言っているでしょう?』 『ごめんなさい、お母様。でも、ノブを回す時の、このカチャって音が好きなの』 『ふふっ。変な子ね。さあ、手を洗っていらっしゃい。今日はルカの好きな、カボチャのシチューよ』
シチューの煮える、甘く香ばしい匂い。 暖炉の中でパチパチと爆ぜる薪の音。 足元を駆け回る、村の野良犬の鳴き声。 そして、布を縫うミシンの、カタカタ、カタカタという、規則正しくも優しいリズム。
すべてが、このドアノブの向こう側にあった。 ルカが世界で一番愛し、世界で一番守りたかった、温かくて、不完全で、愛おしい日常。
しかし、その記憶の直後にフラッシュバックするのは、あの絶望の光景だ。 空が紫黒く染まり、空間が悲鳴を上げて引き裂かれ、空から降ってきた禍々しい銀の雨。
すべてが「無」へと還元されていく中、このドアノブも、家も、シチューの匂いも、そして自分を庇って手を伸ばしてくれた母のその温かい指先も。 すべてが、一瞬にして目の前で消え去ってしまった。
「あ……ぁぁ……」
ルカは、ドアノブを握ったまま、その場にへたり込みそうになった。 呼吸がうまくできない。肺が極限まで収縮し、酸素を拒絶している。
王宮に拾われた後、ルカは「天才」と呼ばれるようになった。 彼女は、空間の綻びを完璧に縫い合わせる魔法を習得した。 それは、世界を救うためではない。二度と、あんな理不尽な喪失を経験しないために。
不完全な世界が悲劇を生むのなら、自分が完璧な魔法で世界を支配し、一切の「エラー」を許さない冷たい論理で縛り付ければいい。 過去を思い出すと、心が引き裂かれて狂ってしまいそうになるから。 だからルカは、自分の心から「母の記憶」や「温かい感情」を、鋭利な魔法のメスで完全に切り離し、絶対零度の無菌室に閉じ込めて生きてきたのだ。
父アルベルトが、完璧な論理の塔に引きこもったのと同じように。 ルカもまた、王宮の尖塔の中で、自分の心に『絶対凍結の結界』を張っていたのだ。
しかし今。 魔法を失い、感覚のない腕に重い針を引きずっているだけの、不完全で傷だらけの「生身の少女」に戻ってしまった彼女には、その記憶の濁流を防ぐための防波堤(魔法)は、もう一枚も残されてはいなかった。
「お母、様……。怖いよ……。開けたく、ない……」
ルカの瞳から、大粒の涙がボボロとこぼれ落ち、ドアノブを握る左手の甲を濡らした。 扉の向こうに、母の遺した何かがあることは分かっている。
しかし、この扉を開けてしまえば、自分が十年間必死に作り上げてきた「冷たくて強い自分」が完全に崩壊し、あの日の無力で泣き虫な少女に戻ってしまう気がした。 喪失の痛みに、真正面から向き合わなければならなくなる。
それは、どんな恐ろしい虚無の化物と戦うよりも、ずっと、ずっと恐ろしいことだった。
ルカが、逃げ出そうとドアノブから手を離しかけた、その時だった。
スゥゥゥ……。
山小屋の木の隙間から、ごく僅かな風が吹き抜けてきた。 それは、森の冷気ではない。小屋の内側から、扉の隙間を潜り抜けて漏れ出してきた、室内の空気だった。
その空気が、ルカの鼻腔を掠めた瞬間。 ルカの全身の震えが、ピタリと止まった。
「……え?」
ルカは、信じられないものに出会ったように、大きく息を吸い込んだ。 その匂い。
カビ臭い廃屋の匂いではない。数十年もの間、誰にも開けられずに密閉されていたはずの小屋の空気なのに、そこには埃の匂いすら全くしなかった。
そこに漂っていたのは。 カモミールの乾燥した花弁が放つ、少し青臭くて甘い香り。 布の防虫剤として使われていた、乾燥したラベンダーの爽やかな匂い。
そして何より、麻糸の滑りを良くし、強度を高めるために、何度も何度も指先で擦り込まれた『蜜蝋』の、特有の重く、温かいワックスの匂い。
「お母様の……匂い」
間違いない。それは、ルカが幼い頃、母の膝の上で眠りにつく時にいつも嗅いでいた、母の作業着から漂う、優しくて、働き者の『職人の匂い』そのものだった。
結界によって時間が止められていたからではない。 母エレンが、この小屋で、まさにたった今まで、ルカを待って縫い物をしていたかのように。 その生命の気配と、呼吸の痕跡が、極めて濃密に、そして生々しく、この扉の向こう側に『生きて』保存されていたのだ。
「……逃げない」
ルカは、涙で濡れた顔を上げ、強く前を見据えた。 完璧な魔法で自分を守る必要なんて、もうない。
彼女の右肩には、機能は失われてもなお、激闘の重みと痛みの記憶を持った「不格好な巨大な針」が縛り付けられている。 足元には、どんな絶望の中でも共に牙を剥いてくれる、銀狼のノアがいる。
アイアン・ヘイヴンで、泥だらけになって世界と摩擦を起こすことの尊さを学んだ今のルカは、十年前の無力な少女ではない。 喪失の痛みに怯え、永遠の結界に閉じこもるのは、もう終わりだ。
「私、開けるわ。お母様」
ルカは、左手に渾身の力を込め、真鍮のドアノブをガチャリと下へと押し下げた。 十年の歳月と、絶対的な停滞の森の静寂を打ち破る、重く、確かな開錠の音。
ギィィィィィィ……。
分厚いオーク材の扉が、ゆっくりと内側へと押し開かれていく。 ルカは、重い右腕と針を引きずりながら、ついにその『時の止まった山小屋』の敷居を跨いだ。
室内に差し込んだ外の光が、空間に漂う微小な塵を照らし出し、黄金色の光の柱を何本も作り出している。 光の粒が、ゆっくりと、まるで深海の雪のように宙を舞っていた。 セインの結界が破られたことで、この小屋の中の「時間」もまた、静かに、確実に動き出し始めていたのだ。
ルカの視界に飛び込んできたのは、驚くほど整然とした、しかし確かな生活の息吹が残る部屋の光景だった。
石積みの暖炉には、燃え尽きる寸前で時間を止められた薪が、黒い炭となって残っている。 その前に置かれた、使い込まれたロッキングチェア。 壁に立てかけられた、箒と塵取り。 棚に並んだ、色とりどりの刺繍糸の巻束と、ガラス瓶に入ったハーブの数々。
そして、部屋の中央、窓からの光が最も明るく差し込む場所に。 どっしりとした樫の木で作られた、大きな『作業机』が置かれていた。
「……あ」
ルカの喉から、声にならない吐息が漏れた。 その机の上には、一着の未完成の服でも、ただの布切れでもない。
母エレンが、この森の虚無を浄化し、命の循環を取り戻すために命を懸けて編み上げようとしていた、途方もなく巨大で、複雑な文様が描かれた『刺繍布』が、広げられたままの状態で、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って置かれていたのだ。
そして、その布の上に、ポツンと残された、銀色の指貫と、蜜蝋の小さな塊。
ルカは、もはや自分が泣いていることすら気にならなかった。 ただ、その机に向かって、見えない糸に引かれるように、ふらふらと歩み寄っていく。
右腕に括り付けられたステラ・ニードルの鈍い切先が、カツン,と机の角にぶつかった。 その不格好な物理の音が、静寂の部屋に響く。
それは、完璧な魔道具師の帰還ではなく。 泥と痛みにまみれ、不完全なまま世界を受け入れた一人の『継ぎ接ぎ屋』が、母の遺した真実の前に、ついに辿り着いた瞬間であった。
だが、ルカはまだ知らなかった。 その広げられた刺繍布に刻まれた不格好な模様のなかに、父の完璧な論理をも超越する、恐るべき大自然の真理が隠されていることを――。




