【第46話】時間が、動いた音
ギチチチチッ……!!
ルカが全身の筋肉を極限まで捻り上げると、右腕を拘束している革紐が、今にも千切れそうなほどの悲鳴を上げた。
「お父様の塔を壊した時と同じよ。……完璧なシステムが一番嫌がるのは、計算不可能な『泥臭いノイズ』の割り込みだわ!」
ルカは、世界樹を守る巨大な銀糸の絶対防壁に向かって、ノアの支えを蹴り台にして猛然と突進を開始した。 防壁のシステムが、ルカの接近を感知する。
『エラー検知。対象の質量、速度、生体反応を計算。……最適解を算出。対象を分子レベルで切断・凍結し、完全消去を実行する』
目に見えないシステムの冷酷な論理が、瞬時に防壁の表面に無数の銀糸の刃を形成し、ルカの未来位置(0.1秒後に彼女が到達するであろう空間座標)に向かって、誤差ゼロの完璧な迎撃を放った。 空気を切り裂く音すらしない、絶対的な死の軌道。
しかし。 ルカは、その完璧な迎撃を「避ける」ことすらしなかった。 彼女は、自身の右腕が抱える、最大の欠陥であり、そして最大の武器である『物理的なノイズ』に、すべての命運を託したのだ。
「今よ……っ!」
ルカの脳が「殴れ」という命令を下し、彼女の左半身の筋肉が猛烈な速度でスイングを開始する。 しかし、その命令は右腕には届かない。
神経の死んだ右腕と、常識外れの質量を持つ純銀の針は、ルカの生きている肉体の動きにすぐには追従しなかった。 ルカの身体が回転し始めた後、限界まで張り詰めた革紐が強引に引っ張られ、遠心力によってようやく巨大な質量が持ち上がる。
すなわち、『コンマ数秒の遅延』。
システムの完璧な銀糸の刃が、ルカの「武器」があるはずの空間をスッパリと切り裂いた。 しかし、そこには空の空気があるだけだった。
ルカのステラ・ニードルは、システムの計算よりもコンマ数秒「遅れて」軌道に乗ったため、刃の射線をわずかな差でやり過ごしたのだ。
『……計算エラー。対象の座標が変動。再計算……』
システムが、予期せぬ「質量遅延」という物理的ノイズに混乱し、一瞬の処理落ちを起こした。 その、永遠に続くかと思われた停滞のシステムに生じた、ほんのわずかな『綻び』。
「そこだぁぁぁぁぁっ!!!」
ルカの絶叫とともに、遅れて跳ね上がった巨大な純銀の針が、凄まじい遠心力と、ルカの全体重を乗せた運動エネルギーを伴って、防壁のど真ん中へと叩き込まれた。
ガギィィィィィィィィィンッ!!!!!
鼓膜が破裂するかのような、凄絶な金属と氷の衝突音が森全体を揺るがした。
ルカの放った一撃は、魔法の衝突ではない。 純銀の圧倒的な「重さ」、ルカの踏み込みの「勢い」、そして不格好な革紐の弾性がもたらす「不規則な振動」。 それらすべてが、巨大な音叉と化したステラ・ニードルの切先に集約され、一点に集中して打ち込まれたのだ。
防壁を構成する銀糸が、その計算不可能な物理的衝撃の暴力に耐えきれず、ギリリリリッ……と悲鳴を上げる。 システムは、この「割り切れない振動の塊」をどう処理していいか分からず、魔力を過剰供給して無理やり相殺しようとする。
しかし、ルカのステラ・ニードルは、その反発力を革紐の「たわみ(クッション)」で強引に受け流し、さらに強く、さらに深く、針をねじ込んでいく。
「シィィィィィィィィッ!!!」
ルカの全身の筋肉が悲鳴を上げ、右腕を縛る革紐が限界を超えてブチブチと切れ始める。 食い込んだ革が皮膚を裂き、鮮血が飛沫を上げて防壁の純白を赤く汚した。
「腕が千切れてもいい……! 痛くてもいい……! だから……こじ開けろぉぉぉっ!!」
ルカの泥臭く、熱く、そして圧倒的に「生に執着する」その意志が、完全に肉体の物理的限界を突破させた。
パキッ……。
永遠の停滞を誇っていた絶対防壁の中心。ステラ・ニードルが突き刺さったその一点から、微かな、しかし決定的な『亀裂』の音が鳴った。
『……あ……』
背後で倒れているセインが、信じられないものを見るように息を呑んだ。
ピキキキキキッ……!!
亀裂は、蜘蛛の巣のように瞬く間に防壁全体へと広がっていく。 絶対零度の結界に、ルカの放った「物理的振動」という名の泥臭いノイズが強制的に割り込み、氷の論理を内側から破壊し始めたのだ。
「砕け散れェェェェェッ!!!!」
ルカが、残されたすべての力を解放し、遠心力のままに右腕を思い切り振り抜いた。
ガシャァァァァァァァァンッ!!!!!
巨大なガラスの城が崩壊するような、壮大で、そしてカタルシスに満ちた破砕音が森の心臓部に鳴り響いた。
世界樹を守っていた銀糸の絶対防壁が、ルカの不完全な一撃によって、数千万の光の破片となって粉々に砕け散ったのだ。 空中に舞い散る青白い魔力の破片が、ルカの流した汗と血に混ざり合い、幻想的な光の吹雪となって降り注ぐ。
そして、防壁が砕け散ったその瞬間。
サァァァァァァ…………。
絶対的な無音と停滞に支配されていた『囁きの森』に、数十年ぶりに、本物の「風」が吹き込んだ。 アイアン・ヘイヴンの方角から流れてきた、わずかに土の匂いを含んだ微風。
その風が、ルカの汗ばんだ前髪を揺らし、ノアの銀色の毛皮を撫でていく。 風は、世界樹の根本へと吹き抜け、そこで凍りついていた琥珀色の結晶の表面を、ごく僅かに、本当に僅かに撫でて、かすかな「葉擦れの音」を森に響かせた。
「……風が、吹いた」
ルカは、砕け散った防壁の残骸を見下ろしながら、荒い息を吐き、歓喜の笑みを浮かべた。
「聞こえる? セイン。……時間が、動いた音よ」
背後で、セインが呆然とその光景を見つめていた。 彼の顔を、数十年ぶりに「冷気ではない、自然の風」が撫でる。
永遠の美しさを保つための絶対的な檻が壊れ、そこから、予測不可能で、すべてを変化させてしまう、恐ろしくも愛おしい「生命のノイズ」が流れ込んできたのだ。 セインの琥珀色の瞳から、今度は結晶になることのない、温かい本物の涙が、ポロポロとこぼれ落ちた。
『……君は、本当に……でたらめで、うるさくて……温かいんだね』
ルカは、激痛の走る右腕を、愛おしむように左手で抱え込んだ。
巨大な針を固定していた革紐は今の一撃でズタズタに引き裂かれ、ステラ・ニードルの切先も激しく刃こぼれを起こしている。 もはや、これ以上の激しい戦闘には耐えられないだろう、ただの重い金属の塊だ。
しかし、その役割は、これ以上ないほどに果たされた。 絶対の停滞を穿ち、森に再び「時間」という名の変化を取り戻したのだ。
「さて、と」
ルカは、世界樹の根本――防壁の奥に隠されていた、古びた石畳の道へと視線を向けた。
その道の先には、世界樹の巨大な根に抱かれるようにして建つ、小さな木造の『山小屋』が見えていた。 母エレンの記憶のフラッシュバックで見たのと同じ、懐かしく、そして悲しい匂いのする場所。
「ここから先は、私の仕事ね。……お母様の遺した『続き』を、縫いに行かなくちゃ」
ルカは、床で泣き崩れるセインに優しく頷きかけると、ボロボロになった右腕の針を誇らしく引きずりながら、ノアと共に歩みを進めた。 森の心臓部のさらに奥――母の遺言が眠る山小屋へと、確かな命の足音を響かせながら。
停滞の呪縛は解かれた。 しかし、虚無という真の脅威を縫い合わせるための、不完全な少女の最後の大仕事が、すぐ目の前に迫っていた――。




