【第41話】価値観の激突 ―― 継ぎ接ぎと永遠
ガギィィィィィィィィンッ!!!!
世界樹の根本、琥珀色の結晶に覆われたすり鉢状の空間に、純銀と魔力が真正面から衝突する凄絶な破砕音が響き渡った。 ルカの右腕ごと叩きつけられた、長大なステラ・ニードルの圧倒的な質量。
それは、ただの物理的な暴力ではない。 ノアの命の熱と、ルカ自身の「生きたい」という泥臭い意志が混ざり合った、強烈な『生命の振動』の塊であった。 対するセインの銀糸は、対象の座標を分子レベルで固定し、時間を切り取る絶対零度の魔法刃。
相反する二つの力が激突した空間は、凄まじい物理的衝撃波と絶対零度の冷気が同時に引き起こされることで、小規模な局地嵐のような乱気流を生み出した。
チィィィィンッ……!
弾き飛ばされたのは、セインの放った数十本の銀糸の方だった。 絶対的な切断を約束されていたはずの魔法の軌道が、巨大な音叉と化したステラ・ニードルの不規則な振動の前に「空振り」させられ、狙いを外して明後日の方向の氷の床を深く抉り取ったのだ。
『……あり得ない。僕の「完璧な静止」が、そんな汚らしい物理的な振動と摩擦に……』
空中にフワリと浮遊したままのセインの顔に、初めて明確な動揺――自らの理解の及ばない「不完全なもの」に対する本能的な恐怖の色が浮かんだ。 彼の琥珀色の瞳が見開かれ、純白の法衣が乱気流に煽られて激しく波打つ。
「言ったはずよ、セイン!」
ルカは、舞い散る氷の粉塵の中から、重い右腕を引きずりながら一歩前へと踏み出した。 腕を縛り上げる分厚い革紐は限界を超えた負荷によってルカの肌に食い込み、そこから赤い血が滲み出している。
「あなたの完璧な魔法は、今そこにあるものを計算して切り取ろうとする! でもね、私とノアの熱は、常に形を変えて、ブレて、計算を裏切り続けるのよ!」
ルカがステラ・ニードルを握り直すように左手で革紐を引くと、ギチリ、と不格好な音が鳴る。
「これが、生きているってことなの。摩擦を起こして、傷ついて、常に変化し続けるから……あなたの『時間を止める魔法』には、絶対に縫い留められない!」
『黙れ……ッ!』
セインの叫びが、氷のように冷たく森に反響した。 彼が両手を交差させると、世界樹の枝から垂れ下がっていた何千、何万という銀糸が、まるで一つの巨大な神経網のように一斉に青白い光を放ち始めた。
『変化は病だ! 摩擦は、世界を削り取る暴力だ! 君たちはそうやって周囲を傷つけながら、やがて自分自身も醜く壊れて消えていく。……なぜ、それが分からない! なぜ、永遠の平穏という救済を拒絶する!』
セインの指先が、狂おしいほどの速度で空のタクトを振るった。 今度の攻撃は、先ほどのような直接的な「槍」ではない。
ルカとノアを中心とした半径数十メートルの空間そのものを細かいメッシュ状に切り刻み、まるごと琥珀色のキューブの中に閉じ込めようとする、広域の『絶対凍結結界』の展開だった。 無数の銀糸が、前後左右、そして頭上から、逃げ場のない檻となって迫り来る。
糸が空気を通過するたびに、空気中の水分が瞬時に凍りつき、ダイヤモンドダストのようなキラキラとした輝きが死の舞踏を踊る。
『君の不完全な抵抗など、この森すべての冷気で包み込んで、永遠に凍らせてあげる。……君の言う「明日」なんてものは、ただの絶望の始まりに過ぎないんだ!』
「明日が絶望かどうかは……私が自分で決めるわ!!」
ルカは、迫り来る銀糸の檻に対し、左手に残された微かな魔力と、職人としての五感を振り絞った。 空間を切り取る力はない。しかし、彼女には世界を「感知」する裁縫師の目がある。
左手の指先を虚空に滑らせ、セインの展開する完璧な幾何学模様の結界の中に、ほんのわずかに存在する「糸と糸の結び目(テンションの交差点)」を瞬時に読み取る。
「ノア! 右斜め前、三十度! 私の身体を、全力で弾き飛ばして!」 「ガァウッ!!」
ルカの叫びに、銀狼は一切の躊躇なく応えた。 ノアは強靭な後肢で氷の床を蹴り上げると、ルカの左側へと跳躍し、その巨体から放たれる圧倒的な運動エネルギーで、ルカの身体を横から直接体当たりするように突き飛ばしたのだ。
ガァァァァァンッ!!
凄まじい衝撃。肋骨が軋むような激痛が走る。 しかし、そのノアの「物理的な体当たりの反発力」と、重いステラ・ニードルを抱えたルカの遠心力が合わさった瞬間、ルカの身体は、彼女自身の運動能力では絶対に不可能な速度と軌道で、右斜め前方の空隙へと弾き飛ばされた。
スゥゥゥンッ……!!
ルカが直前まで立っていた場所の空間が、何千本もの銀糸によって完全に切り取られ、四角い琥珀色の結晶のブロックとなって床にガランと落ちた。 もし〇・一秒でも遅れていれば、ルカとノアはあのブロックの中に、永遠の彫像として閉じ込められていたはずだった。
『……獣の衝突を利用して、軌道をずらした? なんて野蛮で、不確定な……!』
セインは、自身の完璧な計算が、またしても「獣の体当たり」という原始的なノイズによって破られたことに、苛立ちとも恐怖ともつかない表情を浮かべた。
「野蛮で結構よ!」
ルカは、氷の床を転がりながら体勢を立て直し、再び巨大な銀の針を構えた。 しかし、完全に回避できたわけではなかった。
ルカの左頬には、かすめた銀糸によって一本の赤い線が走り、そこから鮮血がタラリと滴り落ちていた。 さらに、外套の左腕部分も切り裂かれ、生身の肌に冷たい空気が容赦なく突き刺さる。
『ほら、見てごらん』
ルカの流した血を見たセインが、悲痛な声で叫んだ。
『動くから、傷つくんだ! 変化を選ぶから、血を流すんだ! 君の流したその醜い血が、僕の完璧な世界を汚している。……痛いだろう? 苦しいだろう? だから、時間を止めるしかないじゃないか!』
セインにとって、他者が血を流すこと、傷つくことは、耐え難い世界のバグであり、彼自身の心を激しく抉る恐怖の対象だったのだ。 だからこそ、彼は「誰も傷つかないように」すべてを凍結させた。
ルカは、左手で自身の頬を伝う血を無造作に拭い取った。 指先にべっとりと付いた、生温かく、赤い自分の命の色。
それをまじまじと見つめた後、彼女は、信じられないことにフッと柔らかく笑ったのだ。
「……ええ、痛いわ。すごく痛い」
ルカの声は、震えていなかった。むしろ、腹の底から湧き上がるような、確かな熱を帯びていた。
「でもね、セイン。……この痛みがあるから、私は自分が『生きてる』って実感できるのよ」
『理解できない……! 痛みを喜ぶなんて、狂っている!』
「狂ってなんかないわ。あなたには分からないの?」
ルカは、ズン、と重い一歩を踏み出した。
「痛みがなければ、優しさも分からない。失う恐怖がなければ、今あるものを心から愛おしいと思うこともできない。……この血は、私が世界とぶつかり合って、摩擦を起こしているっていう証拠なのよ」
完璧な魔法には、隙間がない。 傷一つないツルツルの球体は、美しいけれど、誰かの手を繋ぐための「取っ手」すら存在しない、孤独な檻だ。
「完璧なものには、入り込む『隙間』がないわ。だから、あなたは独りぼっちなのよ、セイン」
ルカは、自身の麻痺した右腕と、そこに無理やり縛り付けられた巨大な銀の針を、見せつけるように前に突き出した。
「この腕を見て。神経が死んで動かなくて、重い針を革紐で無理やり縛り上げて……隙間と不格好な結び目だらけよ」
ルカの言葉に合わせるかのように、限界まで張られた革紐がギチッ、と痛々しい音を立てた。
「でも、隙間があるから……そこにノアの温もりが入り込んで、私を助けてくれる。不格好だからこそ、別の誰かの不格好な出っ張りと噛み合って、一緒に立ち上がることができる」
ルカの瞳に、決意の炎が燃え上がった。
「継ぎ接ぎだらけの不完全な命だからこそ……私たちは寄り添い合って、愛し合うことができるのよ! 悲しみを恐れて、最初から全部を冷蔵庫に閉じ込めるなんて……そんなのは、生きてるって言わない!!」
『黙れぇぇぇッ!!』
セインの悲鳴のような絶叫が、森に響き渡った。 彼の純白の法衣が激しく翻り、世界樹に接続されていた彼自身の魔力回路が、臨界点を超えて輝き出した。
もはや、美しく切り取る余裕すら捨て去った、純粋な殺意と拒絶の嵐。 森中の空気を凍らせる絶対零度の魔力が、何万本もの銀糸となって、巨大な竜巻のようにルカとノアを飲み込もうと渦を巻く。
『永遠に止まれ! 僕の世界を、これ以上壊すな!!』
「壊すんじゃないわ。……『繋ぎ直す』のよ!!」
ルカは、迫り来る銀の竜巻に向かって、真正面から突進を開始した。 ノアもまた、ルカの隣で誇り高く咆哮を上げ、共に死地へと飛び込む。
果たしてルカの泥臭い『継ぎ接ぎ』の力は、完璧な魔法の竜巻を打ち破ることができるのか――。




