【第38話】銀の蜘蛛の巣と、泥臭い反逆
ルカは、大きく息を吸い込み、その空間に向かって、わざとゆっくりと温かい息を吐き出した。
すると、ルカの体温を含んだ白い吐息が空中の水分を帯びて微小な霜となり、その「見えない糸」に付着することで、隠されていた輪郭が白く浮かび上がってきた。
「……嘘、でしょ」
ルカの口から、戦慄の吐息が漏れた。 浮かび上がったのは、一本の糸ではなかった。
木と木の間、枝から枝へ、そして空中で静止している鳥の羽の隙間から、結晶化した落ち葉の群れに至るまで。 ルカたちの行く手を阻むように、いや、この森全体を何重にも雁字搦め(がんじがらめ)に縛り付けるように、無数の銀色の糸が、恐ろしいほど緻密で幾何学的な『蜘蛛の巣』となって張り巡らされていたのだ。
「これが……この森の時間を止めている、正体」
ルカは、目の前に張り巡らされた銀糸の網の目を、魔道具師としての専門的な視点――魔法ではなく、物理と構造力学の視点から、じっくりと観察した。
かつて王宮で、ルカ自身もステラ・ニードルを使って魔力の糸を操っていた。空間を縫い合わせるための糸だ。 しかし、目の前にあるこの銀色の糸は、ルカや母エレンが使っていたような「空間を修復する」ための柔らかな糸とは全く性質が異なっていた。
この糸には、一切の『遊び』がない。
ギターの弦を限界まで巻き上げたように、張り詰めた緊張感が糸全体を支配している。 少しでも触れれば、その対象を鋭利な刃物のようにスッパリと切断してしまうか、あるいは触れた対象の時間をその場に「縫い留めて」しまうような、極めて攻撃的で、冷酷な束縛の力。
(……この糸の張り方、そして結晶化の魔法。これは、自然発生した『虚無』の仕業なんかじゃない)
ルカは断言した。 スノー・ホワイトの頂を襲った『虚無の力』は、もっと無秩序で、暴力的で、デタラメな破壊だった。 空間をランダムに喰い破り、法則を無茶苦茶に書き換える、純粋な混沌。それが虚無の性質だ。
しかし、この銀色の蜘蛛の巣はどうだ。 木々の配置、動物たちの筋肉の動き、そして風の流れに至るまで、そのすべてを緻密に計算し尽くし、最も美しい「瞬間」を切り取って永遠に保存するために、一本一本の糸が計算ずくで配置されている。
森全体を覆う琥珀色の結晶は、この無数の銀糸から供給される魔力によって、その絶対零度の結界を維持し続けているのだ。
「……人工的な『封印の術式』だわ。誰かが、自分の意志で、この森全体の時間を物理的・魔力的に縫い止めたんだ」
ルカの脳裏に、途方もないスケールの魔力演算図が浮かび上がった。 これほど巨大な森全体を、バクテリアの活動すら許さないレベルで完全に凍結させるなど、狂気の沙汰だ。 それを成し遂げるためには、常軌を逸した魔力量だけでなく、途方もない『執念』が必要となる。
なぜ、こんなことをしたのか。 ルカには、その術者の歪んだ心理が、痛いほどによく理解できた。
(……怖いからだわ)
ルカは、自らの左手で、胸の奥を強く抑えた。 変わっていくことが怖い。傷つくことが怖い。命が老いて、朽ちて、やがて失われてしまうという自然の理に耐えられなかったのだ。
だから、最も美しい瞬間に時間を止め、一切の摩擦も変化も起きない、無菌室のような「永遠のジオラマ」を作り上げた。
父アルベルトが、世界からノイズを排除しようとしたのと同じだ。 かつてのルカが、世界を「完璧な魔法の数式」で支配しようとしたのと同じだ。
この森の時間を止めた術者は、世界を憎んでいるのではない。 むしろ、世界を異常なまでに愛しすぎるがゆえに、その喪失に耐えきれず、対象を『剥製』にしてしまった悲しき狂人なのだ。
「お父様と同じ。……不完全なものを愛せない、寂しい人」
ルカは、目の前に立ち塞がる銀色の蜘蛛の巣に向かって、ステラ・ニードルを突き出した右腕をゆっくりと持ち上げた。
「でも、こんなのは救済じゃない。ただの巨大なお墓よ。結界の奥で、まだ心臓を動かして生きようとしている命たちを……無音のまま圧殺する、残酷な檻だわ」
ルカがステラ・ニードルの純銀の刃で銀色の糸を弾くと、ピーンッ……と、氷の弦を弾いたような冷たく高い音が鳴った。 その音は、森の奥深くへ向かって、波紋のように連続して伝わっていく。
どんなに複雑で巨大な蜘蛛の巣であっても、必ず『中心』がある。 糸を張り巡らせ、すべての張力をコントロールし、結界の維持に必要な魔力を送り出し続けている『核』。 あるいは、その巣の中心に陣取り、外敵の侵入を監視している『蜘蛛(術者)』そのものが。
ルカは、硬直した右腕全体を使い、ステラ・ニードルの質量を乗せて目の前の銀糸を軽く下へと押し込んだ。 糸は激しく抵抗したが、ルカがテコの原理で力学的なトルクをかけると、ごく僅かに「たわみ」を生じた。
ルカは、そのたわみが戻ろうとする『反発力のベクトル』を、残された左手の指先の感覚と、針から右腕の骨を伝わる物理的な重さによって、精密に読み取っていった。
「こっちの糸は、右に引っ張られている。あっちの糸は、斜め上へ……」
魔力による空間解析ができない今のルカにとって、それは極めて原始的で、気の遠くなるような作業だった。
しかし、彼女は「国一番の魔道具師」であると同時に、針と糸を誰よりも愛した「裁縫師」の娘なのだ。 布の織り目を見れば、どこに張力がかかっているかが分かる。糸の結び目を見れば、どの方向から力が加わって引き締められたかが分かる。
「……全部の糸が、一つの方向に向かって、極限まで張り詰められている」
ルカは、顔を上げた。 彼女の視線が射抜いたのは、囁きの森のさらに奥深く――琥珀色の結晶群が最も濃密に群生し、もはや光すらも歪んで見えるほどの絶対零度の中心地だった。
「この糸の源流……この森の時間を止めている『番人』は、あの奥にいる」
ルカは、振り返らずにノアに声をかけた。
「ノア。ここから先は、この銀の糸に触れちゃ駄目よ。この糸は、ただの結界じゃない。侵入者の動きを感知して、瞬時に相手を切り刻むか、結晶化させるための『罠』を兼ねているわ」
ノアは「グルッ」と低く喉を鳴らし、ルカの言葉に同意するように、自らの身体を低く沈めた。
「私の針で、糸の結び目を物理的に解きほぐしながら道を開くわ。……私の背中から、絶対に離れないでね」
ルカは、右腕を拘束する革紐の結び目を左手でさらに固く締め直した。 そして、眼前に立ち塞がる絶対零度の銀糸の交差点――その最も張力が集中している「結び目」の隙間へと、ステラ・ニードルの鋭利な切先を容赦無くねじ込んだ。
ギィィィィンッ!!
完璧な均衡を保っていた魔力の糸が、泥臭い純銀の巨大針による「テコの原理」という物理的な干渉に耐えきれず、悲鳴のような金属音を上げて局所的にその張力を失い、だらりと垂れ下がっていく。
「道が……開いたわ」
ルカは、たるんだ銀糸の隙間を縫うようにして、一歩、また一歩と、森の最深部へと足を踏み出していった。
その足取りは、もはやかつての優雅な魔道具師のものではない。 硬直した腕を引きずり、重い針で結界を物理的にこじ開け、不恰好な革の摩擦音を森に響き渡らせる泥臭い足取り。
だが、そのノイズにまみれた暴力的なまでの『生存の意志』こそが、この死に絶えた森の沈黙を破壊し、生命の熱を叩き込むための、ルカだけの『新しい魔法』だった。
「待っていなさい、森の番人。……あなたのその綺麗で残酷な停滞を、私が泥だらけの『継ぎ接ぎ』で、粉々に打ち砕いてあげるから」
青黒い薄闇の中、結界をこじ開けるルカの背中を追うようにして、ノアの銀色の影が続く。 無数の結晶の墓標と、それを縛り付ける銀色の蜘蛛の巣を切り裂きながら、不完全な少女と獣は、時が止まった森の心臓部へと向かって、確かな命の鼓動を響かせながら進んでいった。
物語はついに、永遠の完成を望む悲しき番人との、避けられない思想と物理の激突へと向かおうとしていた――。




