【第37話】未完成の刺繍と、凍てついた森の真実
幻影の中の太陽が、西の空へと傾き始めた。 エレンは、森の空間に縫いかけていた刺繍の糸を、ふうっと息を吹きかけて一時的に固定した。
「今日はここまでね」
エレンは優しく微笑みながら、ステラ・ニードルを裁縫箱に丁寧に片付けた。 「早く帰らないと、あの子が泣き出しちゃうわ」
彼女は、未完成のまま輝く光の回路にそっと触れ、「また明日、必ず続きを編みに来るからね」と囁くと、森の出口――ルカたちが住む故郷の村の方角へと向かって、軽やかな足取りで歩き出した。
「お母様……!」
ルカは、去りゆく母の背中に向かって、悲痛な声を上げた。 また明日。母はそう言って、あの優しく温かい家へと帰り、そして幼いルカを膝に抱き寄せたのだ。
しかし、「明日」は決して訪れなかった。 あの日の夜、故郷の村の上空に巨大な『虚無』の裂け目が現れ、母エレンはルカを庇ってこの世界から永遠に失われてしまったからだ。
母は、世界を救うことよりも、ただ一人の愛する娘を守るために、その命を使い果たした。 そして、この森を救うはずだった優しい光の回路は、永遠に完成することのない「縫いかけの刺繍」として、この場所に放置されてしまったのだ。
「お母様ぁぁっ!!」
ルカの悲痛な叫び声が響いた瞬間。
「キィィィィィィィィンッ!!!!」
ステラ・ニードルの放っていた共鳴音が、限界を迎えたガラスが割れるような鋭い悲鳴へと変わり、ブツン、と途切れた。
* * *
「……ハッ!!」
ルカは、激しい息継ぎとともに現実に引き戻された。 むせ返るような緑の匂いも、黄金色の陽光も、母の後ろ姿も、すべてが嘘のように消え去っている。
視界を埋め尽くすのは、再び、絶対零度の冷気と青黒い薄闇が支配する、琥珀色の結晶群。 ルカは氷のように冷たい地面に両膝をつき、両手で顔を覆って激しく嗚咽した。
「ガウ……クゥン……」
ノアが心配そうにルカの顔を舐める。 ノアのザラリとした熱い舌の感触だけが、ルカが今、残酷な現実に存在していることを証明していた。
ルカは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、自身の真鍮の右腕を見つめた。 スリットに収められたステラ・ニードルは、もう光を放ってはいなかった。 再び冷たい銀色の金属へと戻り、沈黙している。
しかし、あの針がルカの脳裏に焼き付けた光景は、決して消えることのない真実として、彼女の魂の最も深い部分に刻み込まれた。
「……お母様は、この森に来ていた。そして、この森を救おうとしていたんだわ」
ルカは、震える足に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
母は、この森の空間の綻びを『刺繍』によって編み直し、毒を浄化する回路を作ろうとしていた。 しかし、その作業の途中で命を落とし、回路は未完成のまま遺された。
ならば、現在この森を支配している、このおぞましい「琥珀色の結晶」による時間の凍結は、母の仕業ではない。
母が死に、未完成の回路では抑えきれなくなった虚無の毒が、森に溢れ出しそうになった時。 森の完全な崩壊を恐れた『何者か』が、森を編み直す技術を持たず、ただ現状を維持するためだけに、森の時間を強制的に凍結させ、すべての生命をこの完璧な琥珀の檻の中に封じ込めてしまったのだ。
「私が……やらなくちゃ」
ルカの左手が、右腕の真鍮のフレームを強く、痛みを感じるほどに握りしめた。
王宮で魔法を失い、絶望の底にいた時は、すべてが終わったと思っていた。 だが違う。この右腕の痛みが。ノアの熱が。そして、魔力を失ってもなお母の記憶を繋いでくれたこの針が、ルカに教えてくれている。
「お母様が遺した、未完成の仕事。……完璧な魔法じゃなくて、泥だらけの『継ぎ接ぎ』で世界を繋ぐ、本当の職人の仕事」
ルカは、真っ直ぐに顔を上げた。 その瞳の奥には、涙の跡を焼き尽くすような、静かで、しかし決して消えることのない業火が宿っていた。 アイアン・ヘイヴンで父の論理を打ち破った時よりも、さらに深く、揺るぎない覚悟。
「この森の時間を止めた番人……あなたが誰であろうと、関係ない。お母様が紡ごうとした命の糸を、こんな冷たいガラスの棺桶の中で終わらせたりしない」
ルカは、真鍮の義手のメインバルブを開いた。
シュゴォォォォォッ!!
熱い蒸気が、絶対零度の森の空気を切り裂いて白く噴き上がる。
「行くわよ、ノア。森の心臓部へ。……私のお母様の『続き』を、縫いに行くわ」
銀狼の誇り高い咆哮が、静寂の森の空気を物理的に振るわせる。
不完全な娘と、魔法を持たない獣。 二つの泥臭い命のノイズは、永遠の美しさを強要する結晶の墓標群を力強く踏み越え、母の遺した真実が眠る、囁きの森の最深部へと向けて、決意の歩みを進めていった。
* * *
母エレンの遺した記憶の残滓――ステラ・ニードルが再生した、温かくも残酷な幻影から覚醒したルカは、ひんやりとした結晶の森の冷気を肺の奥深くまで吸い込んだ。
涙はすでに乾いていた。悲しみに暮れている時間はない。 母が未完成のまま遺した仕事が、あるいはこの森を救うための「慈愛の回路」が、この凍てついた狂気の奥底で、今も放置されたまま眠っているはずなのだ。
それを探し出し、自分の手で縫い上げること。 それが、魔法を失った自分にできる、世界と母に対する唯一の贖罪であり、継ぎ接ぎ屋としての初仕事となる。
「行くわよ、ノア。……この森の奥へ」
ルカの足取りには、先ほどまでの迷いや恐怖は微塵もなかった。 右腕を縛る革紐をギチッと軋ませ、分厚い落ち葉の結晶を踏み砕きながら、ズン、ズンと、まるで自らの存在をこの絶対的な静寂に叩きつけるようにして歩みを進める。
しかし、広場を抜けてさらに森の深部へと足を踏み入れようとした、その時だった。
「……グルルルッ」
ルカの足元を歩いていたノアが、唐突に立ち止まり、前方の虚空に向かって低く、極めて警戒に満ちた唸り声を上げた。 彼の銀色の毛が逆立ち、四肢の筋肉がバネのように張り詰めている。
何か巨大な外敵が潜んでいるのかとルカも身構えたが、青黒い薄闇の先には、相変わらず琥珀色にコーティングされた動かない木々が立ち並んでいるだけだ。
「どうしたの、ノア? 何かいるの?」
ノアは前へ進もうとしない。 それどころか、見えない壁に阻まれているかのように、鼻先を僅かに下げ、前足で虚空を引っ掻くような仕草を見せた。
ルカは目を細め、ノアが警戒している「空間」を凝視した。
魔法による解析能力を失った今のルカの肉眼では、そこには何もないように見える。 だが、ルカは自らの身体をゆっくりと沈め、視線の高さを変えながら、森の天蓋からわずかに差し込む青白い光の角度を微調整してみた。
(……光が、不自然に屈折している?)
結晶の表面で反射する光とは違う。 何もないはずの空中で、一条の極めて細い光の筋が、まるで空中に引かれた鋭利な刃の軌跡のように、キラリと冷たく瞬いたのだ。
ルカは、息を殺して自身の右腕を持ち上げた。 生身の左手ではなく、右腕に縛り付けられたステラ・ニードルの純銀の切先を、その「光の筋」が走っていると思われる空間へと極めて慎重に差し出していく。
チィィン……。
かすかな、しかし極めて硬質な金属音が鳴った。 ステラ・ニードルの刃先が、空中の「何か」に触れ、物理的に弾かれた音だった。
「……糸?」
ルカは、針の先でその見えない障害物をなぞるように動かした。 間違いない。 それは、肉眼ではほとんど識別できないほどに極細でありながら、巨大な純銀の塊がぶつかっても決して切れることのない、恐ろしいほどの張力を持った『銀色の糸』だったのだ。
それはルカとノアの行く手を阻むように、無音の闇の中にひっそりと、しかし強固に張り巡らされていた――。




