第七十七話 侵食と覚醒
アレンは、バストリア王よりアルデンの遺した「剣の破片」を受け取った。
それは、かつてアレンがアルデンと戦った際に砕いたものだった。
しかし、その夜、剣の破片が異変を起こし——アレンに試練をもたらすこととなる。
バストリア城の夜は、深い静寂に包まれていた。
城の外では、遠く衛兵たちの巡回する足音がかすかに響く。
だが、城内の奥深く、貴族や王族のために用意された客室の並ぶ区域は、まるで別世界のように静まり返っていた。
アレンたちが案内された部屋も例外ではない。
広々とした空間に、天蓋付きの豪奢なベッドが配置されている。
窓の外には、月の光が白銀の輝きを放ち、城の中庭を静かに照らしていた。
ふかふかのベッドに体を沈めたユイは、思わず感嘆の声を漏らした。
「こんな贅沢な部屋に泊まるなんて、夢みたい……」
「俺は落ち着かねぇな……」
ヴァルガスは腕を組み、部屋の壁を見ながら呟く。
「まぁ、悪い気はしねぇけどよ」
アレンは静かに椅子に腰掛け、剣の破片を机の上に置いたまま、深く息を吐いた。
長い一日だった。
ゼノンとの戦い、王との謁見、そしてアルデンの剣の破片——。
静かに目を閉じると、いつの間にか睡魔が訪れ、深い眠りへと引き込まれていった。
しかし——
「グルルッ!!」
フェンの鋭い唸り声が、静寂を切り裂いた。
「……ん?」
アレンは瞬時に目を覚ます。
体を起こし、辺りを見渡すと、フェンが扉の方向ではなく、部屋の中央に向かって警戒しているのが分かった。
「フェン……?」
ミリアとユイも、フェンの様子に気付き、次第に目を覚ます。
そして——
「……あれ、何……?」
ミリアが声を震わせながら指を差す。
アレンも視線を向けた瞬間、眉をひそめた。
部屋の机の上に置いてあったはずの剣の破片が、不気味に蠢いていた。
「……霧?」
アレンは警戒しながら破片に目を凝らす。
確かに、破片の周囲に黒い霧のようなものが漂い始めていた。
しかし、それだけではない。
「これ……動いてる?」
ユイが小さく声を漏らす。
破片が微かに波打ち、まるで何かが息をしているかのように、脈動していた。
「……ッ!」
突然、破片の表面から、霧が勢いよく噴き出した。
霧状になった破片は、徐々に気化し、蒸発し始める。
「ちょっと待て!」
ヴァルガスが慌てて声を上げる。
「このままじゃ、跡形もなく消えるぞ!」
アレンもそれを見て、眉をひそめた。
アルデンの手がかりが、完全に消えてしまう——
ただでさえ少ない情報が、ここで失われるわけにはいかない。
「どうしよう……!」
ユイが不安そうに叫ぶ。
アレンは一瞬、迷った。
しかし——
「……クソ、やるしかねぇ!」
アレンは蒸発しかけた破片を素早く掴んだ。
そして、そのまま——
口の中へと放り込んだ。
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「——えっ……!?」
ユイが息を呑む。
「アレン……!?」
ミリアも驚きの声を上げる。
ヴァルガスだけが、表情を変えずにアレンを見つめていた。
次の瞬間——
「……ッ!!」
アレンの全身に、耐えがたい吐き気が襲った。
胃がひっくり返りそうな感覚。
まるで、飲み込んだ破片が体内で拒絶しているかのようだった。
「ぐ……ッ」
アレンは歯を食いしばる。
「アレン、大丈夫!?」
ユイが駆け寄ろうとするが、ヴァルガスが腕を伸ばして制した。
「下手に触るな……今、こいつは戦ってる」
「戦ってるって……何と?」
「分からねぇ。でも、こいつの体が何かを受け入れようとしてるのは確かだ」
アレンの視界がぐにゃりと歪んだ。
意識が、どこか遠くへ引きずられるような感覚——
「ダメだ……ここで吐いたら、全部終わりだ」
アレンは意地になり、強引に飲み込む。
その瞬間——
「——ッ!!!」
全身を駆け巡る感覚。
それは、まるで自分自身が変質するかのような錯覚。
そして——
黒い霧に包まれた異世界が、目の前に広がった。
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霧の中。
どこまでも暗く、冷たい世界。
その中心に、何かがいた。
「……これは……?」
アレンは言葉を失う。
目の前に見えるのは、巨大な影。
輪郭は曖昧で、その存在自体が不確かだった。
しかし、アレンには分かる。
ヴォイド・リーヴァー。
アルデンが消えたあの時、彼を包み込んでいた黒い霧——
その核心に、アレンは今、触れようとしていた。
「……まずい」
影が、こちらを見た気がした。
侵食する。
声が聞こえた気がした。
「……っ!!」
アレンの全身が、黒い霧に包まれる。
意識が溶けていく——
自分が、自分でなくなるような感覚。
「やめろ……!」
必死で抗う。
「俺は……俺だ!!」
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「……ッ!!」
アレンは大きく息を吐き、膝をついた。
「アレン!」
ユイが駆け寄る。
ヴァルガスは腕を組んだまま、じっとアレンを見ていた。
「……無事か?」
「……ああ」
アレンは、深く息を整えながらゆっくりと立ち上がる。
すると——
「……っ!?」
アレンの体から、黒い霧がゆっくりと漂い始めた。
「これは……」
アレン自身も驚いた。
霧が、まるで彼の体の内側から発生しているかのようだった。
そして、その瞬間。
「……力が……流れ込んでくる」
アレンは確かに感じた。
何かが、自分の中に馴染んでいく感覚を。
これは、力。
未知なる、新たな能力の発現。
アレンは静かに拳を握る。
「これが……"喰らった"結果、なのか」
まだ、何が変わったのかは分からない。
だが、確実に——
アレンは、また一つ、異質な何かを手に入れたのだった。
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アレンは、蒸発しかけた剣の破片を喰らい、ヴォイド・リーヴァーの記憶の一端を垣間見た。
強烈な拒絶反応に耐え、自我を保ったことで、彼の中に新たな力が宿る。




