のほほん州吏、太陽神殿にて友の無事と飛躍を知る
凱旋ではなく、撤退だった。兵たちは一人も欠けず、整然と列を乱すこと無く帰還を果たしたが、それでも、凱旋ではなく、撤退なのだ。兵たちの士気に微かな影響を及ぼしていることは、軍事に疎いファンオウにも、何となく感じられた。
変わらずにいられたのはファンオウとエリック、そしてソテツである。
友の為に、動いた。それを解っているのは、当事者である三人のみだった。ソテツはエリックを師として敬い、そのエリックが妄信するファンオウの行いの全てを、正しいものとして受け入れている。だからこそ、揺れずに傍にいられるのだ。
「兵たちもまた、民じゃ。その民を、わしは、友の為に、危険に晒した。そして、得るものもない、負け戦を、させてしもうた……」
「何を言うか、夫殿。妾のもとへ、こうして無事に戻って来た。それが、民らにとっても、何よりの喜びとなっておることくらい、解らぬそなたでもあるまい」
太陽神殿の私室で、沈むファンオウの頭を白雪が優しく撫でる。
「じゃが、兵らの顔は、帰りには、少し暗く、なっておったで、のお」
「それは夫殿が、そのように浮かぬ顔をしておるからじゃ。そなたに付き従う民は、恩賞が欲しゅうて仕えておるわけでは無い。傍で見ておれば、それくらいは解るものじゃがのう」
帰還してひと月、物思いに沈みがちになるファンオウを、白雪が構うという機会が増えていた。
「じゃが、民を顧みぬ領主でいては、ロンジャどのと、何も変わらぬ。豊かさを与え、慈しんでこそ、良き領主と、なるのでは、ないかのお」
ロンジャを騙し討ちのような形に陥れたことが、心根に引っかかっている。自身にも、それは解っていた。友の為に、やったことだ。そのことについては、何の後悔も無い。だが医師として、手にかけてしまった命のことを、忘れてしまうことは出来ない。無意識に残る悔恨が、知らずファンオウを白雪に甘えさせてしまっているのだ。
「暴政を敷いて、賊徒に領と命までをも盗られた男のことなど、いつまでも気にするものでは無いわ。夫殿が放っていても、やがてイグルとやらが、本懐を果たしたであろうさ。それが、ちと早うなった。それだけのことじゃて」
白雪としてはファンオウの、心の傾斜を喜ぶ気持ちもあった。愛しい夫がうじうじと悩み続ける姿を見ることは少し歯がゆいものも感じはするが、遠征する前に比して、長い時を共に過ごしてくれる。それは純粋に、嬉しいことだった。
「イグルは、公爵領を、把握したと、報告があったのお。まだ、ひと月じゃというのに、魂消た手腕じゃ、のお」
「そうじゃ。人界のことは妾にはよう解らぬが、歪のあるものは、在るべき姿へと戻るもの。天が、そのように導いたということじゃ」
ようやくふわりと微笑んだファンオウに、白雪が小さく息を吐く。雲間から微かにのぞくような笑みは、しかしすぐに曇ってしまう。
「じゃが、国王陛下は、何とするか……血族である、ロンジャどのを、殺されて、しもうたのじゃからのお。イグルと、陛下が、ぶつかり合うような、ことにならねば、良いのじゃがのお」
「それは夫殿が考えても、せんの無いことじゃ。もしそうなったとて、そなたが手を貸してやれば、事は丸く収まろう。そなたはどちらとも、仲が良いのじゃからの」
ファンオウの不安を、吹き飛ばすように白雪が笑う。童女の朗らかな声音に、ファンオウは安堵の息を吐く。
「お主にかかれば、難しいことなど、何もないように、思えるのお、白雪や」
ファンオウの言葉に白雪が胸を張り、大きくうなずく。子を宿した、という腹はまだ張っておらず、平らなままだった。
「妾は、龍神であるからの。夫殿さえ望めば、人の世など容易く平らげることも出来る。じゃから、妾にとっては、難しいことなど何も無いのじゃ」
「じゃが、わしは」
「うむ。そなたがそれを望まぬことは、解っておる。人の乱した世は、人の手で治める。それが、そなたの願いであろ。それは、ようく、解っておる……」
布衣の袷に指を這わせ、白雪が羽根のように軽い身体をファンオウへと預けてくる。幼い双眸には似つかわしくない、情欲の炎が宿っている。
「し、白雪……そのう、のお?」
そっと触れるように撫でる手つきは、ファンオウの肌の中にある何かをぞわぞわと刺激する。首を振って見せるファンオウだったが、白雪の指は止まらない。
「夫殿の愚痴に、付きおうてやったのじゃ。少しは、褒美をもらっても、構わぬじゃろ?」
「……む、むう」
ちろり、と舌を出して言う白雪に、ファンオウは押し切られるようにうなずいた。側で影のように控えていたヨナとソテツが、静々と退出してゆく。
「さあ、夫殿……」
ふっと、白雪の紅い唇が窄まり、燭台の火を消した。たちまちに室内は、窓外からの月が頼りの、ほの暗さになる。
「お手柔らかにのお、白雪や……」
薄闇の中で、ファンオウの唇に柔らかなものが触れる。熱く香しい舌が、ぬるりと口の中へと滑り込んでくる。
「む?」
ふと、白雪が動きを止めた。
「むう?」
どうかしたのか、と閉じていた眼を開くファンオウの前で、白雪がぱちりと指を鳴らす。燭台に、再び火が灯され室内に明かりが戻る。直後、コツコツと規則正しい足音が、部屋の前までやってきた。
「殿、まだ起きておられますか? 王都のフェイより、報告が入りました」
「う、うむ。入るがよい、エリック」
先程まで淫靡に蠢いていた白雪の指が、ファンオウの布衣の乱れを整える。白雪の柔らかな指先はそのまま、ファンオウの口唇を拭うように動く。垂れていた唾液と、紅が綺麗に拭き取られた。それを見計らったかのように、エリックが入室してくる。
「相も変わらず、無粋じゃの、エリック」
ファンオウに引っ付いたまま、白雪が軽口を浴びせる。
「奥方様におかれましては、お愉しみのところ申し訳ありません。しかし、すぐに殿のお耳に、入れるべき報告なれば、平にご容赦を」
冷淡な眼を白雪に向け、涼しい顔でエリックが応じる。言葉ばかりは謝罪であるが、一片たりともその気持ちのない声音である。
「わ、わしは、構わぬ、エリックよ。それより、王都のフェイは、何と言っておるのかのお?」
二人の間へ分け入るように、ファンオウは問いかける。エリックが満足げにうなずき、白雪がふんと鼻を鳴らす。
「はい。イグルについてのことです。国王は、イグルの元ロンジャ公爵領占拠を認め、新たに領主として任じる勅を出した、とのこと。次いでイグルには、将軍位への復帰、並びに州吏の地位が与えられると、王宮より正式な沙汰が下ったようです」
「何と……それは、真のことかのお?」
齎された報告に、ファンオウは糸のように細い眼をいっぱいに見開いた。
「はい。すでに勅使は王都を出立し、イグルの元へと向かったようです」
「おお、良かったのお。陛下も、イグルのことを、気に掛けていて、下さったのじゃのお」
ゆるゆるとうなずくファンオウに、エリックが首を横へ振る。
「いいえ、事はそう簡単なものではありません、殿」
「どういう、ことかのお?」
「フェイによれば、国王の裏にジュンサイの働きかけがあったようです。恐らくこれは、王太子と新宰相への、牽制の一手でありましょう」
首を傾げるファンオウに、エリックが指を立てて言った。
「ジュンサイどのが……王太子どのと、新宰相どのへの、牽制?」
「はい。イグルへの処罰は、王太子と新宰相の政権下によって行われたものです。それを今になって、国王が上書きの勅を出す。これは暗に、王太子の政権を国王が認めていない、ということを示しています。殿が診られたとはいえ、すでに命脈の尽きかかっている国王に、王太子と争う気力など残ってはいないでしょう。ジュンサイは、王の死後を見据え、王太子の権威を削ぎにかかっている、ということです」
「ふむう……」
「イグルの此度の活躍は、天下万民に喝采をもって受け入れられました。いま、イグルを潰すことは、良くない流れを呼び寄せることになる。そんな判断も、あったようです。王都の民は国王の裁可を喜び、王太子を批判する声も上がり始めているとのこと。国王の死後、ジュンサイが動くことはもう間違いありますまい」
「つまりは、イグルはジュンサイどのに、利用されようとして、おるのかのお?」
ファンオウの問いに、エリックが首是する。
「王が死に、王太子を放逐し、新たな傀儡を立てる。そうして事が成れば、何かの理由を付けてイグルは始末されることになるやも知れません。そうして己の権力が盤石なものとなれば、息子二人に軍と政を支配させ、その上に君臨しようと、するでしょう。それが、ジュンサイという男です」
「……手放しでは、喜べぬ、という訳じゃな。イグルの、飛躍は」
むう、とファンオウは眉を寄せる。
「はい。ですが……」
うなずいたエリックが、その美貌に不敵な笑みを見せる。
「それは、全てがジュンサイの思惑通りに、事が運んだ場合のことです。奴は殿を軽んじ、イグルを飼い慣らせると、思い上がっております。ゆえに此度の沙汰は、奴自身の首を絞めることとなるでしょう。俺が、そうさせてみせます」
乏しい表情に、凄絶な色が浮かんでいる。ファンオウには、それがよく解った。
「……いつにも増して、悪い顔になっておるの、エリックは」
傍らで、白雪がぽつりと言う。
「お主にも、解るように、なったのじゃのお」
「そなたの、大事な人、じゃからの」
間近でにこりと笑う白雪に、ファンオウもまた、笑みを返す。
「うむ。エリックも、イグルも、もちろん、白雪、お主も、わしは大事に、思うておる」
カラカラと、声を上げてファンオウは笑う。北方より帰還して以来、それは初めてのことだった。笑えば、全てがほどよく解けてゆく。だからこそ、どんな時も、笑顔を忘れてはいけないのだ。実感を胸にファンオウは、心ゆくまで笑い続ける。
「……やはり、敵いませんな、奥方様には」
「……半分は、そなたの手柄じゃ。不本意じゃがの」
ぽつりと言い交わす二人の言葉は、機嫌良く笑うファンオウの耳には、届いてはいなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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