のほほん領主、悪鬼の罠に陥り尊き血を流す
ふらふらと、覚束ない足取りでファンオウは歩いてゆく。傍らには、イーサンが付き従い周囲を油断なく警戒していた。夜の密林は不穏な静けさを湛えており、鳥獣の物音すらしない程である。ただ、ファンオウの耳には誘いかけるような、懐かしいような声がはっきりと聞こえていた。
『オイデ……オイデ……』
声を頼りに、ファンオウは木々の間を抜けてゆく。さくさくと、草を踏む二人の足音が密林の奥へと続いてゆく。
「ファンオウ様、これ以上離れられますと、危険です」
イーサンが、硬い声を上げた。
「うむ、そうじゃのお。じゃが……声も、大きくなってきた。もう少しで、会えそうなのじゃ」
虚ろな視線を茂みに向けて、ファンオウは言った。
「声……ですか? 私には、何も……それに、誰に会えるのでしょうか」
問いかけに、ファンオウはぼんやりとした表情で口を開く。
「……兄上じゃ。この声は、確かに上の兄上の声じゃ。領内で、行方不明になっておった……」
ファンオウの脳裏にあるのは、幼き日に遊んでくれた、長兄の姿である。大きく優しい、そして強い兄だった。王都へ勉学の修行に出るファンオウを、心配しつつも励ましてくれた、頼もしい顔が目に浮かぶ。
「兄上様であらせられますか……? しかし、ファンオウ様のお二人の兄上様は、どちらも亡くなられたと」
「生きて、おったのじゃろう。上の兄上は、行方知れずと、なっておったのじゃからのお」
イーサンの言葉を、のんびりとした口調で遮りファンオウは茂みへと真っすぐに歩を進める。がさり、と茂みが動いたのは、その時だった。
「ファンオウ様! お下がりを! 何かいます!」
剣を抜き、イーサンがファンオウを庇うように前に出ようとする。だがそれよりも、茂みから立ち上がる影のほうが速かった。
「伝令、伝令!」
褐色の肌に化粧を施した、それは麾下の戦士の一人であった。見慣れた味方の姿に、イーサンの動きが一瞬止まる。
「ふむう、伝令とな? 一体、何事じゃろうかのお?」
目の前の戦士に違和感を覚えつつ、ファンオウは一歩身を引いた。違和感の正体が何であるか、ファンオウはすぐには気づけない。あ、と思ったときには、茂みから飛び出してきた戦士が右腕を大きく振りかぶっていた。戦士の右腕は褐色よりもなお黒く染め上げられ、その口は頬まで引き裂けんばかりの笑みに彩られている。
「伝令、お前、死ぬ!」
漆黒の、闇色の咢のような腕がファンオウに向けて振り下ろされる。
「なっ……」
「ファンオウ様!」
すぐ側で、イーサンが叫びを上げた。
ぶつん、と音立てて、悪鬼の手の中の鏡の映像が掻き消える。エリックは眼を見開いたまま、呆然と立つ尽す。
「ちっ、影が壊されたか……せっかく、良い所だったってのによお、なあ?」
軽い舌打ちをしつつ、悪鬼が視線を向けてくる。だが、眼前にある異形の巨体でさえ、今のエリックにはどうでも良いことだった。
「殿……!」
素人目に見ても、判ることだった。ましてや、エリックはエルフの動体視力と豊富な戦闘経験を持っている。導き出される答えは、絶望だった。あれは、致命の一撃だった。映像が消える寸前、黒い鬼の腕に禍々しく鋭い爪がファンオウの斜め上方から振り下ろされていた。角度からみて、肩口から入った爪は肋骨を砕き、心臓を切り裂き脇腹へと抜けていった筈だ。ただの人間には、どうすることもできない。
「おいおい、あっけなさすぎんだろうが。これで、仕舞いか?」
虚空を見つめたまま動かぬエリックに、悪鬼が声をかける。同時に、間合いを詰めた悪鬼がエリックの腹部へ軽く拳を放つ。意識ではなく、無意識が身体を動かした。両腕をクロスさせ、エリックは鬼の拳を受け止める。鈍い音と衝撃が左腕に走るが、どこか遠い出来事のように感じた。
「感想を、聞かせてくれよクソエルフ」
言葉とともに、悪鬼の拳が顔面へと迫る。身体をわずかに後ろへ下げて、最小限の動きでそれを避けた。避けつつ、エリックは一歩、前へと足を踏み出し右拳を固めて突き出す。分厚い悪鬼の腹筋に、破裂音と閃光を撒き散らしながら拳が着弾した。
「おっふぉう!」
肺の中の空気を絞り出すように、悪鬼が呻く。
「貴様……」
続く一撃を引き絞りながら、エリックは悪鬼の右足を踏み抜く。
「ぎ、い、があああ!」
「貴様!」
折れた左腕ごと叩きこむような、肘打ちが悪鬼の腹にめり込んだ。
「貴様貴様貴様貴様あああああ!」
右拳、左足刀、右膝、左肩……目にも止まらぬ連撃が、悪鬼に打ち込まれてゆく。その打撃の数々には先刻までの流麗な動作は無く、代わりに触れただけでも卒倒してしまいかねない程の殺気が込められていた。
「ぐっ、ひひひ! いーい声で啼くじゃねえかよお! だがあ!」
嵐の如き連打の中で、悪鬼が嗤う。その右胸へ、吸い込まれるようにエリックの手刀が放たれる。凄まじい一撃に、悪鬼が身をのけ反らせる。追い打ちをかけようとするエリックの側頭部、死角に悪鬼の裏拳が迫る。手刀を受けてぐらついたかに見えた悪鬼が、身を回して拳を叩きつけてきたのだ。
「こいつはどうだ!」
エリックの横合いから振り抜かれた裏拳が、こめかみの辺りを強打する。防御も間に合わないタイミングのそれをまともに受けて、エリックの頭がわずかに傾いだ。
「何……?」
訝しげな声を上げるのは、悪鬼である。放った一撃は、頭蓋を粉砕して余りあるほどの全力を込めたものだ。たとえ自分が受けたとしても、無事な形で頭部が残ることの無い、それくらいの一撃だ。だというのに、目の前のエルフは憤怒の形相を浮かべ悪鬼を睨み付けている。
「きぃぃさぁああまああああがあああ!」
のみならず、拳と足による暴力の嵐はほどなく再開された。
「てめえええ! 一体、何をしたああ!」
叫ぶ悪鬼の、右腕が肘の付け根から千切れかかっていた。鬼の再生能力をもってしても、それは重傷と呼べる代物だった。裏拳の直撃する寸前に、エリックが伸び切った悪鬼の肘を拳で貫き、威力を殺すとともにその肉を抉り取ったのだ。
「よくもぉぉお! よくも殿をおお!」
悪鬼の言葉に耳を貸さず、吠えるエリックはさらに鋭く、速く連撃を放つ。胸板を、顔面を、股間を、膝を、脛を、ありとあらゆる場所を打ち抜かれ、悪鬼がついに膝をつく。左手と右膝でやっと身体を支える悪鬼を前に、エリックは身体を回転させつつ跳び上がる。跳躍と、回転の勢いを乗せ、全身全霊を込めた右回し蹴りが、悪鬼の頭部を刈り取った。
悪鬼の重い身体が宙を舞い、床へと投げ出される。地響きを立てて跳ねる悪鬼のすぐ側には、一本の剣が突き立っていた。悪鬼の眼が、銀色に輝く刀身を捉える。同時に、傷だらけの左腕が剣の柄へと伸びる。
「へ、へへ……て、てめえの剣で、ばらばらにして……食ってやる」
悪鬼の指が、剣の柄に触れる。その瞬間、剣が床からずるりと抜けて、伸ばした悪鬼の手首を切り裂く。
「う、があああああ!」
悲鳴を上げる悪鬼の目の前には、長い足があった。
「てめええええ! クソエルフの分際でえええ!」
どろりとした緑色の血が、悪鬼の腕の切断面から噴き出した。怒りの咆哮を上げる悪鬼の胸板を、エリックは踏みつけて剣先を持ち上げる。
「しねええええい!」
裂帛の気合とともに、剣の切っ先が悪鬼の眉間へ突き立てられる。
「がっ! ぐ……げ……」
頭部に中ほどまで割り入った刀身を、エリックは横に捻じった。奇怪なうめき声を上げて、悪鬼は息絶える。どくどくと、流れ出る緑の体液が床へと広がってゆく。剣を一振りして血を払い、エリックは悪鬼から身を離した。悪鬼の死体をそのままに、神殿の奥へと歩こうとしたエリックが、がくりと膝をつく。剣を床に突き立て杖の代わりにして、エリックは立ち上がろうとする。
「まだだ……まだ、殿の、仇を討たねば……」
エリックの身体を覆っていた薄い光が、消えてゆく。悪鬼への最期の一撃で、光の精霊の力を使い果たしてしまったのだ。突き立てた剣が、ぎしりと軋んだ。
「俺は……まだ! まだ倒れん! おおおあああああ!」
獣のような咆哮を上げて、エリックは足に力を込める。細い左腕と美しい顔が真っ青になって膨れ上がり、無様な様相を見せていた。だが、それでもエリックは立ち上がる。剣を引きずり、向かう先は神殿のさらに奥へである。
「悪鬼を、召喚した者を……それまでは……」
うわごとのように呟きながら、エリックは一歩、また一歩と歩いてゆく。神殿の外では月が、密林の中へ沈もうとしていた。
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