のほほん領主と黒の悪鬼、緒戦の幕を開ける
進軍を、感じていた。密林のことならば、手に取るように女には判るのだ。己が魔術の秘儀を用いて拡げた、密林なのだ。小癪な領主の軍が動き出したことは、すぐに知れた。だというのに、黒の悪鬼はのんびりと構えている。五百の軍が、この太陽神殿を目指して攻め寄せてくるというのに、だ。
夜の闇の中、四方に篝火を置いた儀式の間で、女は水晶玉に両手をかざして呪文を唱える。目当ての反応は、すぐに見つかった。
生い茂る密林の樹上に、黄色に黒のまだら模様のその獣は悠然と寝そべっていた。毛皮の下には、張り詰めた筋肉が滑らかな曲線を描いて上下している。たけだけしい面構えのその獣は、密林の王者ジャガーであった。
『起きなさい、王者よ……』
水晶玉を通じ、女はジャガーに語り掛ける。黄色い瞳が開き、ジャガーは声の主を探るように首を巡らせる。
『お前の縄張りを、侵そうとする者たちがいるわ』
女の声が届いているのか、ジャガーは口元を引き絞りぐるると不機嫌そうに唸る。
『王者の誇りにかけて、彼らを食い殺しなさい。そうすれば、お前に新たな力と地位を与えるわ』
甘く、唆す女の声に、ジャガーは天へと向けて咆哮する。それは、ただの鳴き声では無い。密林の王者が放つ、麾下の猛獣たちへの合図であった。応じるように、密林のあちこちで咆哮が響く。不穏な気配に包まれた密林を水晶玉の中に見ながら、女は嫣然と微笑んだ。
「これで、いいわ……私の密林の魔術の力を、奴らに思い知らせてあげる」
含み笑いを漏らす女の視界に、儀式の間に差し込んだ黒い影が映る。
「猛獣どもを、向かわせたのか。可哀想なことをする」
姿を現したのは、黒の悪鬼である。今しがた起きたばかりという風情で、言葉とは裏腹に悪鬼の声には何の感傷も込められてはいない。
「お前にやる気が無いのが、いけないのよ。貧弱な人間の領主もエルフも、皆猛獣に食わせることにしたわ」
女の言葉に、悪鬼はきょとんと首を傾げ、それから片手をぶんぶんと振る。
「違う、違う。可哀想なのは、猛獣どもの方だ。奴らをけしかけたところで、足止めくらいの役にしか立たぬぞ」
悪鬼の言い様に、今度は女がぽかんとした表情になる。
「……お前は、随分と領主どもを買っているようだけれど、密林の中の彼らは強大よ? 前後左右、あらゆる方向から襲い掛かってくる猛獣を、人間の軍勢が対処できるわけが無いわ」
物を知らぬ子供を諭すような女の口調に、悪鬼はうんざりとした顔になる。
「まあ、操主がそれでいいなら、いいんだがな」
頭の後ろで手を組んで、悪鬼は女の前にどかりと腰を下ろす。
「馬鹿にして……いいわ、それなら、お前も見ていなさい。猛獣たちが、領主どもを食い殺す様をね」
女が再び水晶玉に手をかざすと、丸い表面に夜営をしている領主の兵の姿が浮かび上がる。
「それじゃあ、お手並み拝見、と洒落込もうか」
嘯くには目もくれず、女は水晶玉をじっと見つめた。
密林の節くれだった木の根元で、レンガがむくりと身を起こす。手には、白銀の槍斧が握られていた。
「全員、戦闘態勢に入って。大盾と槍の兵を四辺に置いて、方陣を組んで」
レンガの指示に、戦士たちは機敏に動く。木でできた楕円の大盾と石の穂先の槍を持った兵たちが四方に展開し、壁を作った。
夜営のため切り開いた森の端々から、不気味な気配が押し寄せてくる。大地に手を当てて、レンガは目を閉じる。
「敵の気配は……多いね。悪鬼の奴、本腰を入れて夜襲を仕掛けてきたのかな?」
目を開いたレンガは、戦士の壁の一辺を抜けて前に出る。
「大した気は感じられないけど、油断しないようにね」
レンガの言葉に応じるように、木々のざわめきが強くなる。ほどなく、レンガの前方の木の枝が大きくしなった。夜の闇の中に、燃え上がるような赤い双眸が現れる。月明かりに照らされた、黄色に黒のまだら模様の美しい獣が跳躍する。その獣は、四足でいてなお、人の背丈ほどもあった。足音を立てず、獣は戦士の壁を睥睨する。そのひと睨みだけで、戦士たちの間に戦慄が走った。
密林における捕食者の頂点に立つ獣、ジャガーである。美しくしなやかな筋肉は、優美なフォルムとは裏腹に凄まじい力を秘めている。その動きは俊敏で、一度標的とされてしまえば逃れ得る術は無い。これに出会って生きて帰れた者は、ジャガーの気まぐれによるものに過ぎないのである。
そのジャガーが、双眸に憎悪を滾らせて戦士たちを睨み付けている。戦士たちが算を乱して逃げないのは、訓練の賜物ではない。逃げても、食い殺されると確信しているからだった。絶望に、足がすくんでしまっているのである。
「何を呆けてるの! 気を抜くなっ!」
叱咤するレンガの声に、ジャガーの長い髭がぴくりと動く。甲高い女ドワーフの声は、密林の王者を刺激してしまったようだ。レンガの側にいた戦士たちは顔を青くして、大盾を構えたままじりりと後退する。その動きに、ジャガーは素早く反応した。
魂の凍るような雄叫びとともに、ジャガーは音もなく跳躍する。標的となった戦士の一人は、眼を瞑り大盾を突き出して構える。だが、重量のあるジャガーの飛び掛かりを防ぐには、その盾はあまりにも脆い。ジャガーの鋭い爪を持つ腕の一振りさえあれば、容易く木っ端みじんになってしまう。惨劇の始まりを思い浮かべ、戦士たちはほとんど恐慌状態となってしまう。
「でりゃああっ!」
ジャガーの爪が大盾に触れる直前、咆哮とともに銀光が走った。重いものが、地面にどさりと落ちる。大盾を構えた戦士が、訪れない衝撃に、恐る恐る覗き見る。目の前に、ジャガーの顔が落ちていた。
「結構、大物だったね。ちょっとばかり、手が痺れちゃった」
聞こえる声に、戦士が目を向ける。月光を背負い、白銀の槍斧をびゅっと横に振って血を振りとばすレンガの姿が、そこにあった。
「ぼさっとしないで、盾を構えて槍を引き絞る! 敵は、まだ来るよ!」
レンガの一喝に、戦士たちが我に返り大盾を大地に立て、周囲の木々へと視線を戻す。無数のワニや毒蛇、そして王者よりも小柄ではあるがジャガーの群れも殺到していた。
「投擲隊、どんどん投げて! 狙いは付けなくてもいいから!」
迫りくる猛獣を斬り飛ばしながら、レンガは大声を上げる。たちまち、壁の中から石の槍が撃ち出される。鋭く研ぎ澄まされた石の穂先は、猛獣たちの硬い皮膚を貫いて大地へと縫い付ける。壁となった戦士たちも、槍を繰り出し獲物を仕留めてゆく。戦いの趨勢は、ほどなく決した。王者という頭を失った猛獣たちは、散り散りになって逃げてゆく。
「よし、方陣解いていいよ。投げやりの回収と、獣の死体の始末をする。武器が壊れちゃった子は、あたしのとこに持ってきて。あと、怪我人がいたらファンオウさんのとこに回すから、言ってね」
返り血を浴びて真っ赤になったレンガは、にっこりと笑みを浮かべて言った。戦士たちは密林の王者の死体とレンガとに交互に目をやり、やがてレンガを中心として跪く。
「あー、そういうの、いいから。とっとと動きなさい!」
畏敬の眼差しと武勇を讃える歌声を上げる戦士たちに、返り血ではない色に頬を染めてレンガは怒鳴る。ぴしり、と背筋を伸ばし、戦士たちは立ち上がって機敏に動き始めた。
「まったく……武器の使い方、もう少しなんとかならないものかな」
積み上げられた石槍の穂先を魔法で研ぎつつ、レンガはぼやく。土の魔法はドワーフのお家芸であるので、石槍には可能な限りの強化を施してはいた。だが、それでも石は石である。強度にも、自ずと限界は訪れる。
「早いとこ、鉄かせめて青銅くらいは、量産できるようにしなくっちゃね」
密林を出れば、それなりの鉱脈はある。だが、戦士たち全員に武器を用意する時間は、与えられてはいなかった。そのため、手間と魔力をかけて石器を鍛える羽目になっているのである。
刃の欠けた石の穂先に手を当てる。ぼんやりと石が光り、硬く鋭い刃が生まれる。幾本目かの槍に、術を施している時だった。レンガの耳に、鳥の鳴き声のような音が聞こえてきた。
「……ラドウの部隊の合図ね。あっちは、順調か。いいなー」
息を吐いて、レンガは戦士の一人にうなずく。戦士が口をすぼめ、ぴゅーい、ちちちと鳴き声を返した。意味するところは、敵襲あり、けれども進軍は予定通り、である。
「これで伝わるんだから、すごいよね、ほんと」
感心の声を上げたレンガの手元で、最期の石槍が鋭さを取り戻す。怪我人の搬送の手筈を整えて、レンガはごろんとその場へ横になった。
「隊長仕事って、肩凝るなあ……これは、ファンオウさんに念入りに解してもらわないと、いけないね」
降るような星空を見つめ、レンガはひとりごちる。猛獣たちの襲撃で、死者は出ていなかったが怪我を負った者は数名出ていた。動けなくなるほどの怪我ではなかったが、それでも念には念を入れて、後方へ回すことにしたのだ。
「さっきの襲撃に、鬼の姿は見当たらなかったけど……やっぱり、温存してるのかな」
問いかけに、応える者は誰もいない。くつろぐレンガの周囲で、戦士たちも思い思いの体勢で休息を取っていた。
「エリックの奴……ほんとに、人使い荒いんだから。見てなさいよ忠犬エルフ。あんたより偉くなったら、思いっきりこき使ってやるんだから……!」
言いながら、レンガはちょっぴり邪悪な笑みを浮かべる。レンガの頭の中には、髭の生えたファンオウの隣に座りエリックを足蹴にする未来のヴィジョンが映っていたのである。
蒸し暑い密林の夜空に、レンガの含み笑いが溶けてゆく。中天にある月が、青白くほのかに輝いている。生温い風が、吹き抜けていった。
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