第9話 伝説の巨大サーモン争奪戦
夕刻、半額市は異様な光景に包まれていた。
港湾ギルドの荷車が何台も並び、氷箱から白い霧があふれ出す。
冷気は床を這い、観客の吐息すら白く染めていた。
《本日の目玉:伝説の巨大サーモン切り身(半額)》
全長五メートルの巨魚を解体した片身。
紅玉のように光る身に霜が煌めき、皮目には銀の斑が走る。
ただ置かれているだけで、祭壇の供物のような荘厳さを放っていた。
「でけぇ……」
「これが伝説級か」
冒険者も料理人も商人も、皆が息を呑む。
市場は今日だけ、戦場というより祭りの闘技場だった。
「厚切りこそ至高!」
拳を突き上げたのは、獣人の大食い冒険者。
「筋を断つな! 斜めに滑らせろ!」
ドワーフ鍛冶師が包丁を掲げる。
「水で清めれば滋養は二倍!」
エルフ僧侶が水魔法を走らせる。
「誇り高き魚を守る!」
竜騎士見習いシオンが剣を抜き、群衆を制御する。
「コレクションに加えるのよ!」
貴族令嬢が銀盆を差し出す。
「赤の外郭を記録せねば!」
評論家老人はインクを飛ばしながら紙を叩いている。
――オールスターが揃い踏み。
市場は熱狂で揺れていた。
私は深呼吸し、魚体を見つめた。
(中央は奪い合い……でも、魚には流れがある)
氷箱の位置は南北に四基。
溶け跡の水が尾に向かって細い筋を描いている。
つまり搬入時、尾が低く、冷気が滞留していた証拠だ。
(旨味は冷気に集まる。尾こそが、旨味の滞留点……!)
これまで学んだ「順序」「押し」「音」「境界」「欲望の制御」――すべての線がひとつに繋がった気がした。
店主が赤札を掲げる。
「ルールはいつも通り!」
「買った者の勝ち!」
「争いは――」
「武力に訴えてもよし!」
ぱちん。半額。
――戦端が開いた。
獣人が豪腕で厚切りを奪い、ドワーフが刃を閃かせ、僧侶が水を飛ばす。
貴族令嬢は札束を投げ、侍女が魚を抱え込む。
評論家老人は「赤! 赤の外郭!」と泣き叫ぶ。
シオンは剣の峰で突進を押し返し、「秩序を守れ!」と叫ぶ。
魚の血と氷の匂いが立ち上り、怒号と笑いが交錯した。
私は混乱をすり抜け、尾へと辿り着いた。
皮目の銀が強く光り、肉色は中央より濃い。
油がしっとり滲み、香りが濃厚に立ち昇る。
薄紙で尾の端をすくい、銅貨一枚を店主に渡す。
店主の木札が鳴る――「購入成立!」
一口。
締まった身に凝縮した油と旨味。
噛むたびに塩気が細い線を描き、魚が舌で歌うように響いた。
「……これだ! 最高です!」
観客がざわめく。
「尻尾!?」
「端っこかよ!」
「いや、色が濃い……匂いも強い」
店主が言い放つ。
「知らねえのか! 尻尾は一番旨味が凝縮される部分だ!」
市場が静まり――次の瞬間、爆発した。
「なにぃ!?」
「厚切り信仰が崩れた!」
「いや認めん! 厚切りこそ正義!」
群衆は二派に分かれ、罵声と笑いが交錯する。
シオンが歩み寄り、剣を収めた。
「嬢ちゃん……誇りを軽んじたのではない。理を読んだのか。俺は認める」
「ありがとうございます!」
その言葉は戦場の騒音の中でも確かに響いた。
ロングコートの影――半額王が尾の肉を一瞥し、低く笑う。
「嬢ちゃん、ついに戦場の眼がついたな」
背後で老人が囁く。
「……昔、港で荷崩れした魚を直してたのは王だった。あれがなきゃ、子どもらは飢えて死んでただろう」
噂はまた広がり、誰もが王の背中を見つめた。
王はただ黙って、崩れた木箱を積み直していた。
群衆が一斉に叫ぶ。
「「「いや食えよ!!(中央を!)」」」
私は苦笑し、尻尾の小さな一切れを口に運ぶ。
心も胃袋も、十分に満ちていた。
キャラクター紹介
リナ:冷気と運搬痕を読み、尻尾=旨味の滞留点を必然として見抜く。学びの集大成。
ユイ:戦場を見守り、「理で勝つリナ」に安堵しつつも心配を続ける。
半額王:リナの「戦場の眼」を認める。港で魚荷崩れを直した過去の噂が広がる。
シオン:リナを正式に認め、敬意を抱く。
オールスター(マリオ、ドワーフ、僧侶、貴族令嬢、評論家老人):戦場を混沌に彩る。
群衆:厚切り派と尻尾派に分かれて大論争。