8時間目 あいつの心と体は、オレらと同じ世界にしかない
『お前さんならその内慣れるわい。』
よく言ったもんだ。
こちらがどれだけ悩んでいるのかも知らないくせに。
ああ、どうせ他人事だ。ウォルトだってトモだって、その他大勢だって、自分には関係がないからこちらの不幸を簡単に笑い飛ばす。
一度は同じ経験をしてみればいいのだ。
こんな毎日に慣れることなんて…
慣れることなんて……
(―――慣れたわ‼)
はたと我に返った気分になり、ユキは途端に痛んできた頭を抱えた。
隣には当然のようにナギの姿。何があっても離れない彼に振り回され続け、ふと気づけば彼が隣にいる光景が普通になってきてしまった。
まあ慣れたとは言っても定期的に怒鳴るのは変わらないし、一日平均二回ほどは殴っている気がする。だかそれもナギにとってはただじゃれ合いのようだ。
やれやれ、ちゃんと話の意味が分かっているのやら。暖簾に腕押しとはまさにこのことだろう。こちらの言葉がまともに響いたと感じたのは、自分がブレッドたちに圧力をかけられたあの時だけだ。
「どうしたの、ユキ。頭でも痛い?」
「ああ……まあな。」
ナギにしたから顔を覗き込まれ、ユキはそれを気だるげに押し返した。
頭痛の原因が暢気に何を言うか。痛みがひどくなりそうだから離れてほしい。
(それにしても…)
ユキは複雑そうに眉をひそめてナギを見る。
頭でも痛い? なんて。
数ヶ月前のナギなら絶対に言わなかっただろうに。
少しは周りの様子でも見るようになったのだろうか。そうならそれに越したことはない。さっさと周りに目を広げて、ぜひとも自分の元を巣立っていってくれ。
「そういえば、ユキ。今日のお弁当なぁにー?」
こんな風に食べものにご執心の内は無理か…。
「ほらよ。」
ユキは溜め息交じりに持っていた袋をナギに渡す。
「うわあああ、楽しみー。俺、ユキの料理大好きー。」
「ああ、待て待て、こんな廊下のど真ん中で開けるな。屋上まで待てないのか、お前は。」
やはり少しは周りを見るようになったなんて、ただの幻想だったのかもしれない。
廊下の人通りが多くなる昼休み。こんな時に目の前の弁当しか見ていないのだから。
「あ、ナギ!」
ふとナギを呼ぶ声。
そちらを向くと、ナギの元へと駆け寄ってくる生徒が三人ばかり。
(ああ…金魚の糞三人衆か。)
ユキは冷ややかな目で彼らを一瞥し、すぐに視線を逸らした。
ナギに群がる人間は多い。取り分けこの三人は、まるでナギは自分たち専用だとでも言うようにナギを囲っていた。
つい最近。ナギが自分に張りつくようになるまでは。
「ナギ、ちょっと助けてくれ。」
三人衆のリーダー格であるニックがナギの前で手を合わせる。
しかし。
「今からご飯だからやだー。」
ナギは即答。
「…………馬鹿。」
一瞬迷ったが、ユキはナギの頭を軽く小突いた。
「弁当は逃げねぇよ。急ぎっぽいから、話だけでも聞いてやれ。」
「ええ…急いでるの?」
そこでナギはようやくニックたちの顔を見た。
「ほら、急ぎだってよ。」
何度も頷くニックたちを見ても反応しないナギを見かねて、ユキはその背中をぽんと押してやる。
「ユキがそう言うなら……何?」
ナギが聞き入れる素振りを見せたことで、ニックたちがパッと表情を輝かせた。
さて、どうせいつもの用件だろうし、邪魔者は消えるとしよう。
ユキはさりげなくナギたちから離れる。
しかしその歩みは、ほんの数歩で止まることになる。
ナギがユキのシャツの裾をガッチリと掴んでいたからだ。
驚いたユキがそちらを見ると、ナギはいつもの笑顔でニックたちと雑談を交わしていた。
(げっ……なんだよ、これ。離せっ! 離せって、この‼)
どんなに裾を引っ張っても振り回しても、ナギは絶対に握った手を開きはしない。こんな細腕から出ているとは思えないほどの力だ。
ちょっと待ってくれ。ニックたちの話など聞いても気分が悪くなるだけなので、さっさと屋上にでも避難していたいのだが。
そうこうしている内に。
「これ、今すぐ頼む!」
ニックがナギに小型のノートパソコンを差し出した。
(よし、ナイス!)
立ちながらノートパソコンを触るともなれば両手を使うはず。いつものナギならそうしているので間違いない。
だが甘かった。
「ごめん、ちょっとパソコン支えててね。」
ナギはニックに言うと、自分はパソコンを持たずに空いている片手で器用にキーボードを打ち始めた。
だめだ。今日は何がなんでも逃がさないつもりらしい。
諦めたユキは肩を落とし、ふと目に入ったパソコンの画面を眺めた。
(おいおい…それ、昼提出の課題じゃねぇか。)
確か提出の締め切りは十五分後。まだまだまっさらな画面を見るに、どんなに頑張っても完成に一時間はかかる。
だが、そこは天才の為せる技。何もなかった画面に驚くべきスピードでプログラムのコードが打ち込まれていく。
「はい。終わり。」
所要時間たったの五分。次元が化け物だ。
「ありがとう! マジで助かったよ‼」
「別にー。このくらいいいよ。」
笑うナギに、ユキは思わず顔をしかめる。
ナギと接する時間が多くなるほど、普段他人と接するナギの表情がいかに空っぽか分かってしまう。
本当に何もないんだな、と。
そう実感してしまうのが複雑だ。
「あとさ、実はもう一個頼みがあってさ。来週までの現文の自由課題も手伝ってくれねぇかな?」
それは手伝ってくれではなく、代わりにやってくれの間違いだろ。
突っ込みたい気持ちをぐっとこらえ、ユキは沈黙に徹する。
ニックたちがナギを囲うのはこういう理由。おそらく、これまでのほとんどの課題をこうしてナギにやらせているのだろう。皆それに気づいてはいるのだが、ニックたちの親が権力者である故に何も言えないのである。
下手に突っかかって目をつけられても面倒なので、自分も他に倣って見て見ぬ振りをすることにしている。今はよくても、どうせいずれは今の行いが自分に返ってくる。せいぜいその時に苦しめばいい。
とはいえ、やはりこういう場面を見ているのは精神衛生的によくない。だからさっさと離れたかったのに。
「あー…なんかそんな課題あったっけ? 多分授業中に終わらせたやつから、あんまり覚えてないや。」
ナギの頭はコンピューターか何かなんじゃないだろうか。あまりに普通を外れた発言に、背筋が薄ら寒くなる。
「じゃあ課題の内容だけメールしといて。」
「マジで⁉ ほんとにいつも助かるわ! さすがナギだぜ‼」
「うん、ありがと。じゃあ、もういい?」
「おう。今度お礼は弾ませるから!」
ひとまず直近の課題がなんとかなったことで気が済んだのだろう。ニックたちは上機嫌で廊下を走っていく。
呆れてものも言えない。
とりあえず、気分を切り替えて弁当を食べるか。
「じゃあ行く……か…………」
ナギに目を向けたユキは大きく目を見開いた。
ニックたちを見送りながら手を振るナギ。
その顔にあったのは、とても寂しげで悲しげな微笑み。
(なん、だよ……その顔………)
これまで一度として見たことがないその顔に、ユキは動揺を隠せなかった。
「―――ユキの言うとおりだよね。」
ぽつりとナギが呟く。
「俺が周りを見ないから、俺の周りにも俺を見ない人しか残らない。ユキがそう言わなきゃ知るつもりもなかった。ユキがちゃんと俺を見てぶつかってくれる人じゃなかったら……知らずに済んだのにな。」
「………っ」
予想していなかったその言葉に、ユキはたじろいでしまう。
(オレのせいかよ…。)
そんなことを思いながら、それと同時にそれが事実であることを悟る。
トモはナギを思って傍についているが、彼は決して自分みたいな体当たりな接し方をしない。彼は自分の力量をわきまえていて、自分の言葉はナギの心に響かないと理解している。だから彼はナギに自分を押しつけるのではなく、彼の心に自分が合わせることを選んだ。
ナギ本人が言うように、この天才を真正面から否定してやったのはこの学校で自分だけ。そしてナギに言葉が響いたと手応えを得たのも、きっと自分だけなのだ。
結果としてそれでナギが寂しさや悲しみを感じてしまったのなら、それはちょっと申し訳なかったなとは思う。
でも。
「それを知らないと、先に進めないだろ。」
ユキはそう告げた。
これは悪いことじゃないと思う。
寂しさや悲しみを感じられたのなら、その先で安らぎや嬉しさを感じることもできるはずだから。
「オレたちは毎日色んな人に出会うけど、その中から大事に思える人とか、逆に自分のことを大事に想ってくれる人を見つけるのって、すごい大変なことなんだと思う。それこそ、本当に砂の中から砂金を探すみたいにさ。外ればっか引いては泣いて、裏切られては後悔して、知れば知るほどしんどい時もあるだろう。―――でも、まずは見なきゃ何も見つけられない。」
バケツいっぱいの砂の中に砂金が紛れていたとしても、そのバケツを見ようとしなければ砂金の存在には気づけない。
ユキはナギの頭を軽く掻き回した。
「どんな悪いことでも、まずはそのことに気づけたことが大きな成功だ。何かしら変化があったなら、これまで見えなかったものが絶対に見えてくる。だからどんなことでも目を背けるな。そうすれば、きっと空っぽのお前にも大事に思えるものができるよ。」
こうなりゃ仕方ない。
気づかせてしまったのが自分なら、一応背中を押してやることくらいまではしてやろう。
ナギのためにというよりは、この先ナギに手を差し伸べてくれる人たちのために。
「……えへへ。そっか。悪いことに気づくのも成功なんて、ユキは変なこと言うね。」
「そうか?」
「うん。俺の周りっていい結果だけが成功って感じだったから、なんか新鮮。」
「……よく分からんけど、天才の世界ってのは窮屈だな。」
いい結果だけが成功だなんて、そんな無茶苦茶な。
自分からしたらそちらの方がありえない。
ほんの少しだけナギが言う世界を想像して、一瞬で嫌気が差した。
人間、何事もほどほどが一番である。
「ま、学校では少しくらい気ぃ抜けばいいんじゃねぇの。」
ユキはナギの肩を叩き、すぐ近くの階段を上がり始めた。
「天才っつったって人間なんだ。絶対に失敗はする。研究所でどうしても成功を求められるなら、その分学校ですっ転んでおけよ。オレは別にお前に成功なんて求めねぇし、頑張った上で転んだんだったら責めない。まあその時には、気が向けばお情けくらいには起こしてやってもいいかもなー。」
それは特に何も考えずに告げた言葉。
階段を上る自分は、そろそろ動かないと弁当を食べ損ねるかもしれないと、どうでもいいことを思っていた。
だから全然気づかなかった。
階下で立ち尽くすナギが、どこか茫然としながらもきらめいた表情をしていたことになんて。
この時は何も……
★
慣れてきたとはいえ、放課後になればさすがに疲れが溜まる。
「ユキー、大丈夫ー?」
無言で机に突っ伏しているユキの頭をナギがつつく。
「大丈夫だよ。この後研究所だろ。早く行け。」
もうナギの顔を見る気力もないので、手だけを上げてしっしっと厄介払いをする。
「ううー、行くのめんどくさいなぁ…」
「別に行かなくてもいいんじゃね? 永遠にさよならーってことで。」
「いってきまぁす…」
複雑だか効果はてきめん。
ナギは唇を尖らせ、渋々教室を出ていく。
「はぁ…」
遠退くナギの足音を聞きながら、ユキは上げていた片手をうなじにやり、髪を束ねていたゴムを取った。
自分の中で髪を下ろすのは休息の時。身についた習慣からか、髪が耳や首筋に下りてきた瞬間にずんと体が重くなってしまった。
バイトまであと一時間。少しだけここで仮眠でも取ろう。
「……キ」
「………」
「ユキ」
「…………ん…」
優しく肩を揺さぶられる。
それで目を開けると、ぼやけた視界に携帯電話の画面が入ってくる。
バイトまであと二十分だった。
「うおっ、いつの間に⁉」
慌てて跳ね起きる。
確か三十分前に鳴るようにタイマーを設定したはず。しかしタイマーが鳴った記憶がない。
「ああ。タイマーならちゃんと鳴ったけど、ユキが自分で止めてたよ。そのまますぐ寝ちゃったから、起きてはなかったんだろうとは思ってたけど。」
向かいの席に座っていた、友人のルズが苦笑する。周りを見ると、彼の他にも数人の生徒が近場の席に腰をかけていた。
彼らは自分と同じで、庶民から雑草根性でここまで登ってきたタイプの人間だ。育ってきた境遇が似ていることもあり、気が合うのでよく話している。
「悪い。助かったわ。」
ユキは大きな欠伸をする。
起こしてもらって本当に助かった。この調子だと、もしかしたら日が暮れるまでずっと眠っていたかもしれない。
「相当疲れてたんだろ。ただでさえ働き過ぎなんだから、倒れない程度にしろよ?」
「んー…」
「なあ…」
目をこするユキに、ルズがこっそりと声をかける。
「お前がいつも以上に疲れてるのって、その……ナギのこと、だろ?」
「………っ」
ナギの名を聞いたことで唐突に目が覚める。
目を丸くするユキに、ルズを始め周囲の友人たちがユキを気遣うような顔をする。
「噂になってんだよ。ユキがナギの相手してるのは、そういう圧力があったんじゃないかって。だっておかしいだろ。ユキ、あんなにナギのこと嫌ってたじゃん。」
「ああ…まあ、そうだよな。そんな噂も流れるわな。」
噂というか、れっきとした事実だが。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫なように見えるか?」
「全然。だから心配なんじゃん。」
ルズは複雑そうな表情を湛えて語る。
「ユキって面倒見いいからさ、変に目をつけられちゃったんだろ? いくら先生からの命令だからって、あそこまで律儀に付き合わなくてもいいと思うよ。ナギってほら……おれらとは違う世界の人間じゃん。最初から理解できるわけないんだし、頑張ったところで同じとこに並べるわけでもないから、その努力も無意味だろ。それで自分が潰れてたら元も子もないよ。」
「………」
ユキは黙し、ぐるりと辺りを見回す。
皆が皆、同じ顔をしている。
心底自分を案じてくれている顔。
そして、ナギに対しての先入観で満たされた顔だ。
ナギに対する周囲の反応は大きく二つ。
一方は彼の能力にあやかろうと、積極的にナギに関わり機嫌を取ろうとするタイプ。
そしてもう一方は、極力ナギに関わろうとせず無関係を保とうとするタイプだ。
ナギという圧倒的な才能を前にすると、大抵の人間は自分の凡才を痛感させられる。だから自分のプライドを守るために〝無関係〟という安全地帯に逃げていたいのだ。
関わらなければ、知らなければ、自分にとって都合の悪いことは直視せずに済むから。
「そうだな。確かにあいつの才能は別次元にあるんだろうな。」
ユキはふと息を吐き、ルズの言葉の一部を認め、そして。
「――――でも、あいつの心と体はオレらと同じ世界にしかないよ。」
なんでもないことのように、ルズの言葉の一部を否定した。
彼は自分たちとは違う世界にいる。
それは誰もが口にする言葉で。
もちろん自分もそう思っていることで。
でも―――本当はそうじゃなくて。
「同じ学校なんだし、手を伸ばせば触れられる。やろうと思えば話すこともできる。ちゃんと同じ世界にいるじゃねぇか。誰だって相手の全部を理解するなんて無理。誰だって他人に理解されないことの一つや二つはある。あいつの場合、ただそれが他より多すぎるってだけ。」
きっと、ナギが出会ってきた人間のほとんどは、こうやって彼を理解することを諦めた。
どうせ理解できない。
この言葉は、ナギを孤独にする呪いなのだろう。
(なんだかな…)
ユキは面白くなさそうに口をへの字に曲げる。
嫌いなのは嫌いだ。
彼には、まだまだ気に食わない部分が山ほどある。
なのに一度触れてしまったら、今の彼を作り上げているのは彼だけじゃないと身をもって知ってしまって。
自分の言葉をちゃんと聞いていたナギを見ていたら、彼がもっと早く自分みたいな人間に出会えていたらよかったのに、なんてことを思ってしまって。
大嫌いだからと。
彼を全面的に拒絶できなくなっている自分がいることに気づいてしまう。
「……うん。確かに相手を全部理解するのは無理だな。おれには今のユキの言葉が理解できないよ。」
ルズが眉をひそめてそう告げた。
「そうか?」
ユキは軽く首を捻る。
「うん。さすがはあのナギと張り合うだけあるなって思う。あとお人好しすぎるだろ。なんでそこまで疲れさせられててナギを庇えるかな?」
「別に庇ってるつもりはねぇんだけどな。単純にオレの認識がそうだってだけだ。」
ユキはゴムで髪をくくり、席から立ち上がった。
そろそろ行かなければバイトに遅刻してしまう。
「大体な、お前ら。別にそこまであの馬鹿に囚われる必要もないだろ。」
机の脇にかけていた鞄を取り上げ、体をほぐしながらユキは友人たちを見渡した。
「なんで同じとこに立つ必要がある? あいつと同じ分野でも専攻すんの? もしそうだったらご愁傷様って感じだけどさ。そうじゃないなら、あいつを目指す必要なんてないだろ。どうしてもあいつの存在が足を引っ張るっていうなら、あいつとは違う畑で努力すればいい。そうすりゃ比べようもなくなるさ。お前らはお前らであの馬鹿に負けない強みがあるんだから、あんまりあいつを意識しすぎんなよ。オレみたいにどうにもこうにもあいつの性格が嫌いってんなら……まあ、ドンマイ。」
人の価値を量る物差しは、何も成績や功績だけじゃない。
人にはそれぞれいいところがあって、それを活かせる場所もまたそれぞれ。
大勢に評価されなくたって、ちゃんと自分を見てくれる少数がいればそれで十分ではないか。
「自信持てよ。少なくともオレは、お前らのことを認めてる。あの馬鹿より、よっぽどできた人間だってな。」
「ユキ……」
ユキの言葉を聞いた彼らは、感動を噛み締めたように顔をほんのり赤くする。
「お前、男前過ぎんよ。惚れるぞ。」
「気色悪いからやめろ。」
「いやいや、割とマジで。」
ルズが表情を引き締める。
「ユキさ、ナギ以上に才能あると思うよ。人の上に立つ才能ってやつ。もしユキが会社でも作るって言ったら、おれ即決でついていくもん。安心感が違う。」
「んな大袈裟な…」
「大袈裟じゃない。」
強く遮られ、ユキはきょとんと目をしばたたかせる。
ルズの表情は大真面目だ。それで他の友人の顔も見れば、全員がルズの言葉を肯定するように頷いている。
「…………そっか。ありがとな。」
ほら。
やはり、大きな功績なんて要らないじゃないか。
こうして認めてくれる人がいれば、それだけでこれまで頑張ってきた報いになる。
「その評価はありがたく受け取っとくよ。じゃ、そろそろ行くな。」
ユキは破顔し、次にひらひらと手を振りながら彼らに背を向けた。
そんなユキの背にルズが言葉を投げかける。
「ユキ! 今のこと、軽く流すなよ! おれら、本気でお前のこと尊敬してんだ! 安定就職なんてもったいない。もっと上を目指してみろよ‼」
「そうだな。考えとく。」
「だから、もっと真剣に……」
「――――分かってる。」
教室のドアに手をかけたところで、ユキは皆を振り返って微笑んだ。
その微笑みが全てを物語っている。
ちゃんと受け止めているから、と。
滅多に笑わないユキの笑顔。
その破壊力はすさまじく、ルズたちは一瞬で意識をかっさらわれてしまう。
そんなルズたちを置いて、ユキは教室を出ていった。
「――――で、お前は何してる?」
ユキはじろりと横を見る。
「その……やっぱりユキがバイト行くまで一緒にいようかなって…思ったんだけど……」
教室寄りの壁によりかかっていたナギは歯切れ悪くそう答える。
「あっそ。とりあえず離れるぞ。今お前を見たら、あいつらが気まずくなっちまうから。」
ナギの腕を掴み、ユキは足早にそこを離れた。
危なかった。
窓からちらりと見慣れた影を見た時は、色んな意味で気まずくなった。
この状況でルズたちとナギを鉢合わせるわけにはいかない。とはいえ話の流れと熱量を考えると、このままではルズたちが駆け寄ってきそうだったからさらに困った。
なんとか上手く彼らの動きを封じられて一安心。こうして考えると、日頃滅多に笑顔を見せないのはある意味いいことかもしれない。
ほっとした心がそんなこずるいことを考える。
「話、どれだけ聞いてた?」
やたらと静かなナギに訊ねる。
「……全部。」
やっぱり。
どうりで変にそわそわした顔をしていると思った。
「こればっかは、立ち聞きしたお前が悪い。嫌な気分になったかもしれないけど、あいつらは責めないでやれ。」
「え……あ、違う!」
「おおっ」
突然腕を引かれ、ユキは勢いに負けるまま数歩よろける。
「びっくりした…違うって、何が?」
「あの……えっと、ね…」
ナギは何やら口ごもっている。
珍しい。いつもは言葉に詰まることなんてないのに。
「あのね…ユキ……」
「うん。」
「――――ありがとう。」
心から嬉しそうな笑顔で、ナギが告げたのはそんな一言。
「……はぁ?」
ユキは不可解そうに顔をしかめる。
話の流れが全然分からない。
「いいの。とにかくありがとう。」
ナギはただ笑うだけだ。
「相変わらず意味不明だな、お前。……って、ヤバ‼」
さりげなく携帯電話の画面に目を落としたユキはその時間に驚愕し、慌ててその場を走り出す。
「お前、もうついてくんな!」
当然のように後ろについてくるナギに、ユキはいつもどおりの怒声を飛ばす。
「えー。事務室に入るまで!」
「はあっ……ったく、ちゃんと研究所には行けよな⁉」
「はーい。」
「くっそ、もう!」
ユキはナギに構わず先を急ぐことにする。
もう十分に学んだ。どうせ怒ってもナギは気にせずついてくるのだ。今は事務室に急ぐことが最優先。放っておいて好きにさせるのが一番である。
一切の苛立ちを捨てて廊下を走るユキ。
そんなユキの後ろを走りながら。
「……ふふ。」
ナギは照れ臭そうにはにかんでいた。