1時間目 変わらない日常
毎日午後四時。
ショートホームルームが終わった瞬間、自分はこの学校の生徒じゃなくなる。
「お疲れ様でーす。」
事務室のドアをくぐると、室内の人々からあいさつが返される。そんな声を聞きながら、鞄の中から事務員用のジャンパーを取り出して、机をデスクの下に放り投げてからそれを羽織った。
「ユキくーん、来て早々悪いんだけど、ゴンさんのヘルプ入ってくれなーい?」
室長のナミが指し示す窓口では、書類提出を待つ生徒の列が長く伸びている。
仕方ない。時期が時期だ。
「はい。行ってきます。」
ユキは一つ頷き、ゴンの隣の席に座って書類の提出口を開いた。すると、書類の受付を待っていた生徒たちがこぞってユキの前に並ぶ場所を変えた。
(……さて、仕事だ。)
いつもの光景に軽く溜め息をつき、ユキは提出口から滑ってきた書類に目を通し始めた。
ここは国立セントラル大学付属ユリア高校。完全寄宿制という特殊制度を持つここは
、国内随一の進学校として世界的にも名が通っている。
いや、進学校というには少し語弊があるかもしれない。
ユリア高校の親に当たるセントラル大学は、数多くの官僚・議員を輩出している。その割合は実に七十パーセント。そしてセントラル大学卒業生を占めるユリア高校卒業生の割合もまた、六十パーセントをゆうに超えている。
議員・閣僚になるための国家試験も、セントラル大学への入学試験も、受験資格に出身校による制限はなく、一定の条件さえ満たせば誰でも挑戦できるようになってはいる。
ただ、ユリア高校での教育を受けていない者が試験を突破するのは至難の業であるのは、どうしたって如実に表れている傾向だ。
つまりここは、未来の国政を担う人材を育成するための養成所。あるいは、国に都合よく若者を洗脳する場所だと言った方がより的確なのかもしれない。
そんな現実から、将来の夢を掴むために毎年ユリア高校を志す者は非常に多い。ユリア高校は国内に五つの分校を置いているのだが、どの分校も常に生徒でいっぱいだ。先に待ち受ける大学入試のために、どこの分校でも生徒間で激しい成績戦争が繰り広げられている。
特に本校と呼ばれているここは、入試の成績上位三百五十名のみが在籍を許される場所。他の分校の授業がどんなものかは知らないが、本校の授業レベルはもはや大学生レベルだともっぱらの噂だ。
さて、そんなここは今夏休みまであと二週間という時期。ほとんどの生徒が帰省するため、事務員は申請書類をさばくので鬼のように忙しい。
忙しいのだが……
「ふざけんじゃねーぞ、てめぇ‼ もういっぺん言ってみやがれ!」
突如響く怒声。
やれやれ。後もつかえていて忙しいというのに、問題児は必ずいるものだ。
怒鳴られたことには顔色一つ変えず、ユキは受け取った書類を相手に突き返した。
「ですから、この帰省申請は受理できないって言ったんです。いかなる申請書にも親御さんのサインが必要だという規則です。申請締め切りまでまだ時間もあるんですから、ちゃんと申請書を郵送してサインをもらってください。」
「馬鹿言ってんじゃねぇ‼ 親父たちは出張でしばらく帰ってこねぇんだよ!」
「それは先輩の自業自得でしょう。申請書は二十四時間いつでもダウンロードできるんですよ? いつだって準備できたでしょうに。」
「……んだと…」
窓の向こうの男子生徒の顔に、明らかな敵意が表れる。
これは少し長くなりそうだ。
「後ろに並んでる皆さん。どうぞ隣の窓口に流れてください。そちらの方が申請早いですよ。」
一応後ろの生徒たちに一声かけておき、ユキは問題の生徒と再び向き合う。
「何をどう言われましても、親御さんの承認がないことには書類を受理できません。ちょっとお金を払えば国際便の速達もできるんですから、ちゃんと決められたルールは守っていただかないと困ります。」
頑として揺らがないユキの態度。それに忍耐の緒が切れたのだろう。顔を真っ赤にした男子生徒が乱暴に窓を叩いた。
「二年のくせに、ちょっと先公に気に入られてるからって調子乗ってんじゃねぇぞ⁉ てめぇなんか、権力もなけりゃ金もない、能力も中途半端な万年二位のくせに‼ 俺がその気になればな、てめぇをこの学校からいつでも追い出してやれるんだからな⁉」
ざわり、と。
彼が放った暴言に、後ろに並んでいた生徒たちだけではなく、事務室の職員たちですらざわめきたつ。
しかし。
「で?」
言われた当人が返したのはそれだけ。
「はっ…⁉」
これには面を食らったのか、男子生徒が返答に窮する。
「今さら怒りも怯えもしませんよ。そんなこと、くそくらい言われてるんで。というか、それとこの書類になんの関係があるんです?」
畳みかけるように言い、ユキはその男子生徒を真っ直ぐ見上げる。
「……ですが、そこまで無理を通したいのなら、一つだけ合法的な抜け道を教えてさしあげましょう。」
底冷えする光を宿した瞳で彼を刺し貫いたユキは、静かに書類を差し出した。
「この書類、あなたの権力とやらを使って理事長に直接通してください。」
その言葉に、周囲がさらにざわめく。
「何を驚くんです? この学校のありとあらゆる規則を作ったのは理事長です。その理事長がいいって言うんなら、たかが事務員のオレが言うことは何もありません。黙って書類を受理しましょう。」
できるものなら、な。
最後の一言だけ喉の奥に押し込み、ユキは黙して彼の出方を待った。
厳格なことで有名なこの学校の理事長は、国内でも五本の指に入るほどの権力者だ。彼程度の家の権力など歯が立つはずもなかろう。
その証拠に。
「…………くそっ‼」
口では敵わない上に圧力をかけることも無駄と分かったらしい彼は、書類を握り潰してそこを去っていった。
やれやれ。親の目を盗んで学校を抜け出そうとして、どんなことを企んでいたのやら。
ともあれ、これでようやく一段落。
ふと目を上げると、自分の前には相も変わらず長蛇の列。隣のゴンの前には数える程度の生徒しか並んでいない。
まあある意味仕方あるまい。ゴンはわりときつめの強面だ。その上基本的には何もしゃべらず、書類に不備があった場合は赤い付箋で指摘するのみ。大抵の生徒はその圧力に勝てず、素直に引き下がる。
つまり自分の前に並んで動かない奴らは、ゴンが怖い臆病者か、自分になら多少の無理を通せると思っている大馬鹿者というわけだ。
ユキは大きく溜め息を吐き、あえて音を出して椅子から立ち上がった。
「今ちょうどいい見本がありましたよね? 同じ生徒だからって、甘くなんてしませんよ。不備のあった書類は問答無用で叩き返します。」
窓口に並ぶ全員の視線を集めたのを確認し、ユキは声のトーンを一気に下げた。
「ただでさえこっちは、処理しなきゃいけない書類が多くててんてこ舞いなんだよ。受付時間も限られてんだ。ちょっとは賢いお前らなら、最低限のモラルくらいあるだろう。迷惑だから均等に並べ。受付時間過ぎたら書類受け取んねぇからな。」
凄まじい怒気を孕んだユキの一瞥。それに圧倒され、ユキの前に並んでいた生徒の半分ほどがゴンの列に並んだ。
まったく。何度この流れを繰り返せば気が済むのだ。
ユキはもう一度息をつきながら椅子に座り、即座に頭を切り替えて仕事に集中した。
★
そこからゴンと二人で怒濤のごとく書類受理をさばき、受付窓口を閉めたのは午後五時半きっかり。
「ゴンさん、ユキ君、今日もお疲れ様ー。いつも嫌な仕事させて、ほんとにごめんね。」
ゴンと二人で受理した書類を整理していると、後ろからナミがひょっこりと顔を出してきた。
「別に、俺はわりと打たれ慣れてますし、そこまで苦ではないですけど……」
ユキはちらりとゴンを見やる。
「ゴンさん、大丈夫ですか?」
訊ねると、それまで彫像のようにどっしりとしていたゴンが途端にぶるぶると小刻みに震え出した。
ご覧のとおり、ゴンは本当は人付き合いというものはすこぶる苦手である。強面に見えるのは緊張しているだけだし、何もしゃべらないのではなく、何もしゃべれないのである。
何も言えない彼の代わりに窓口業務を代わってやるように言ったこともあるのだが、その時にはすでに彼が窓口に座ることが定着していた頃。当然皆は難色を示し、当人もこんな自分が役に立つならと自ら窓口に向かう始末だった。
当時働き始めたばかりの自分がそれ以上何も言えるわけもなく、かといって無理をするゴンを放っておくこともできなかった結果。八ヶ月ほどがたった今では、ゴンの隣はもはや自分の定位置だ。
「でもゴンさん、ユキ君が入ってからちょっと元気になりましたよねー?」
「……‼ ……‼」
ナミの言葉に、それまで震えていたゴンがこくこくと首を縦に振る。ぱあっと明るくなったゴン周辺の空気には、まるで花でも飛んでいるようだ。
確かに自分が来てから、ゴンは居心地よく仕事をしている。自分がさりげなくフォローに入るようになったのと、ゴンの強面と寡黙さが周囲に与える誤解が解けたからだろう。今では自分以外の事務員も気さくにゴンに話しかけるようになり、言葉対ジェスチャーで会話が成り立つという奇妙な光景がよく見られる。
(こりゃまた、今夜はえらい長いメールが来るな…)
そんな確信を抱きながら一人書類整理を進めていると、急に背中に衝撃が走った。
「それにしても、ホントにユキ君が来てくれて助かってるわぁ‼ 今までは無茶を言う子を追い払うの大変だったのよ。かよわい女子はもう怯えちゃって。 」
「おかげで針のむしろですよ。」
顔を渋くして苦笑するユキに、ナミは高らかに笑ってばんばんとその背中を叩く。
「それでへこたれる子じゃないから好きよー。さすがはあの人の推薦で来ただけあるわ。」
「ナミさん、それはトップシークレットです。」
また複雑になることを……
ユキはこっそりと溜め息をついた。
ナミの言うあの人とは、ずばりこの高校の理事長のことだ。
どうしてそんな大物から推薦を受けられたかというと、それはもうただがむしゃらに努力してきたからなのだろうと思う。
「………」
目を伏せるユキ。
十二歳の時、自分と母の二人を置いて父がこの世を去った。臨月が近かった母は身体的にも精神的にも調子を崩し、当時は子供を下ろすと言う母を祖母たちと止めることで大変だった。
自分がしっかりと母たちを支えなければ。
幼心にそう決心したのをよく覚えている。
中学時代は死に物狂いで勉強し、特待生枠をもぎ取って今に至る。とはいえ寮費や教材費はかかるので、土日は朝から晩まで働く日々を過ごしていた。
そんな生活の中でひょんなことから理事長と知り合い、理事長の鶴の一声で平日の放課後に事務員として働かせてもらえることになった。おかげで日曜日くらいはまともに休めるようになり、崩しかけていた体調もどうにかなった。
感謝はしている。だがその反面、普段から教師たちとの距離が近い自分に特例が適応された事実から、一部の生徒にはひどい敵意と羨望の眼差しを向けられているのが現状だ。
今日吐かれた暴言も、裏だけではなく表立って言われるようになったのは事務室で働くようになってからだ。
まあこれも軽い方なのだろうとは思う。今のところ自分に特例が適応されたのは、自分を気に入った教師たちが理事長にかけ合ってくれたからだと周囲に認識されている。これがナミの言うとおりで、本当は理事長直々の推薦からの特例だったと知られた日には……面倒しか待っていないと確信ができる。どんなことになるのか、想像もしたくない。
「……気にしちゃダメよ。」
自分の無言をどう捉えたのか、ナミの声が急に柔らかくなる。
「ユキ君の能力が中途半端なわけないじゃない。二位っていったって、三位との差はびっくりするくらいあるんだし。一位があのナギ君じゃ仕方ないわよ。私は、断然ユキ君を応援してるわよ。」
「……‼ ……‼」
ナミに続き、隣のゴンがそれを肯定するように首を振る。それに触発されて、小さな事務室が一気に自分を慰めるような言葉で満ちる。
皆の好意は非常にありがたいのだが、この空気は少々居心地が悪い。
「あー……オレ、倉庫周りの掃除でもしてきますね。」
話の最中で整理した書類を学年ごとのフォルダに突っ込み、ユキは逃げるように事務室を後にした。