三十一、「親魏倭王」印と「漢委奴国王」印
三十一、「親魏倭王」印と「漢委奴国王」印
さて、卑弥呼に「親魏倭王」印が与えられた後、「漢委奴国王」印はどんな運命をたどったのであろうか。
卑奴母離に託された蛇印は後漢が滅んだ時にその権威の裏付けを失ってしまった。
卑弥呼が「親魏倭王」の金印を得るに至っては、もはや、不必要なばかりではなく、下手をすると、後漢の皇帝、劉氏の後裔を名乗る蜀の劉備玄徳や諸葛孔明等の後裔に好を通じていると魏の使者に疑われる恐れがある。
漢の初代皇帝は劉邦である。
以後、漢王朝は劉氏によって引き継がれた。
「三国志演義」を読むと、桃園に魏を結ぶ、劉備玄徳、関羽雲長、張飛をはじめ、三顧の礼をもって迎えられた、軍師、諸葛孔明など、蜀の英雄たちが華々しく活躍し、血沸き肉躍る話が展開する。
だが、魏、呉、蜀の三国のうち、蜀は最も戦力の劣る国であった。
にも、拘らず、強力な他の二国と伍して、三国時代を駆け抜けたのか。
それは、劉備玄徳が、漢の皇族、劉氏の正当な後継者であると喧伝したからである。
従って、倭国が蜀と何らかの繋がりを持っていると疑われることを恐れて、奴国王は「漢委奴国王」印の存在を秘匿したことであろう。
恐らく、以後は、阿曇族の長の手で密かに所持されていたのではないかと推測される。
そして、年月を経るに従ってその存在は忘れ去られたのではないか。
あるいは、阿曇族の長の手によって、阿曇氏は長であると同時に海神のお告げを聞く神官でもあった、綿津見三神の磐座に珍宝として密かに捧げられたのかもしれない。
どういう訳か、私には、あの堂山古墳が思い出されてならない。
阿曇族は金印を密かに隠し持っていたが、ある時、偉大な長が亡くなった。その時、人々はその遺体を箱式石棺に葬り、その副葬品として銅剣や勾玉や銅鏡と一緒に金印を収めたのではないだろうか。
金印は、三世紀から江戸時代の後半に百姓甚兵衛に発見されるまでの間、永い眠りについていたのだ。
今まで述べてきたのはあくまで仮説ではないかと言われれば、そのとおりだと答えざるを得ない。
だが、大いに現実味を帯びた説であって、無下に否定の出来るものではないと私は自負している。




