表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蛇印(じゃいん)  作者: 屯田 水鏡
20/33

二十、三番目の祠、表津宮2

二十、三番目の祠、表津宮2


拠点である勝馬の地を放棄してまで島の南部へ移動しなければならない如何なる事由があったのであろうか。

きっと一族の存亡に関わる事柄があったに違いない。

阿曇族が勝馬の地を放棄したのは、地形の変化と政治的な理由の双方があったからではないだろうか。

まず、遥かな昔、海水面は今よりも二百メートルほど低かった

ところが、縄文時期になると、海進が始まった。

歴史教科書ではそれを縄文海進と呼ぶ。

水面は上昇し、長い年月をかけて勝馬の集落のすぐそばまで海が迫ると、そこに入り江が広がり、遠浅の浜辺を形成し、舟の係留地として絶好の環境となった。

そこにやってきた阿曇族が住み着き、海人族の拠点とし、大いに繁栄した。

ところが、弥生時代から古墳時代に至ろうとする頃、今度は海が後退し始めて、次第に入り江が消滅して港としての用をなさなくなったのではないかと思料される。

また、その頃、倭国を治めた大王にとって、玄界灘を渡って朝鮮半島の国々から資源を調達するために、航海術に長けた阿曇族を支配下に置き、管理して、一朝有事の時はすぐに出動を命じる必要があった。

そのため、阿曇族を、北部の閉ざされた拠点におくよりも、南部へ移動させる方が好都合であったからなのではないだろうか。

一方、阿曇族にとっても、干しあがりつつあった入り江は舟の出入りに支障を来し始めた。

だから、移住することを決断した。

つまり、双方の思惑が一致したのではないか。

神功皇后伝説にその辺の事情に関するヒントが隠されていそうだ。

「古事記」と「日本書紀」をもっと深読みすれば、手掛かりが掴めそうな気がするのだが、私の力量では心残りではあるがこれ以上進めそうもない。

では、勝馬の地はその後どうなったのであろうか。

かつて、入り江であったと思しき辺りに船を係留した形跡はない。

砂地の奥深く埋もれてしまったからなのであろうか。

大陸や朝鮮半島との交易を行っていたことは、細形銅剣の鋳型の発見で明らかではあるが、その規模についてはさらに広範囲の発掘調査が行われなければ分からない。

かといって、集落の住人に立ち退きを強いてまで調査を行うことは難しい。

勝馬の地が、かつて、海人集団の根拠地であったのならば、現在でも海に携わる仕事、例えば、漁業等が行われていて然るべきである。

ところが、海にたずさわる仕事と言えば、外周道路沿いに魚料理の店が何軒かあって、他には、海の家と称する海水浴客相手の休憩所が若干あるだけなのだ。

しかも、勝馬の主産業は農業である。

これは一体、どういうことなのだ。

強力な海人族の拠点であった名残がどこにも見当たらないではないか。

今、勝馬に住む人々は阿曇族とは全く血統が異なる面々ばかりなのか?

まだ、解明しなければならない多くの疑問点は残るが、これ以上、思索を重ねても、謎を解明するには至るまい。

膨大な時間を要するであろうし、これ以上の思索は、例えば、酔っ払いの足元の様に覚束なく、そもそも、私の能力を遥かに超えている。

それでも、疑問点の幾つかを一定の仮説へ導くことができたことは、私の力量からすれば上出来だ。

残る謎の探索は、頭の回転が速く、才能に溢れた誰かにに任せたとしても、非難されることはなかろう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ