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 意識がゆらゆらとゆらめきながら浮上する。


──予言の子なのに神殿や王家に挨拶をしなくていいの? と訊いたら、人知れず舞い降り、人知れず羽ばたく、との予言もあるらしく、お告げを受けたエミリアは、予言の子を人知れず保護するよう言われていたと教えられた。


 瞼がなかなか開かない。


──俺関与しちゃったよ……、と急にオスカルが顔色を悪くしたから、ダメでしたか? と申し訳なく思えば、リカルドが、出会うべきして出会ったのだろう、と少しふて腐れるように笑っていた。


 普段瞼を開けるときに意識なんてしていないからか、まるで貼り付いたかのようで、思うように開かない。


──俺が独り占めするつもりだったのに、そう呟いたリカルドに、心のどこかで喜びながら、心のどこかで期間限定だからかと悲しんだ。


 ようやく僅かに開いた隙間から見える景色。それが昨日までと違う。それに気付けば、吸い込む匂いも違っていることに気付いてしまう。


 ああ、目が覚めてしまった。


 もうすぐ誕生日だと言ったら、一緒に祝おうと言ってくれた。

 庭の花が咲きそうだと言ったら、一緒に見ようと言ってくれた。

 新しくできたカフェに一緒に行こうと言ってくれた。

 一緒に色んなことをしよう。

 一緒に色んなものを見よう。

 一緒に色んなものを食べよう。

 一緒に、一緒に──。


 気付けば涙が流れていた。流れ落ちた涙が耳に入り込んで不快だった。すごく不快なのに、それが気にならないほど気になることは──。

 もう二度と会えない。もう二度と声を聞けない。もう二度と──。




「有紗、おはよう。今日もいい天気よ」

 耳に飛び込む母の声。きっと毎日声をかけながら病室に入ってきていたのだろう。うっすらと見える視界に映る母は、目を覚まし、涙を流す私を目にした途端、「有紗!」と悲鳴のような声をあげながら駆け寄ってきた。

「おか、ぁさん」

 しわがれたか細い声は、まるで自分の声じゃないみたいだ。

「うん、帰ってきたんだね」

 目が見開かれる。さっきまで目が開かないと思っていたのが嘘みたいに、大きく目を見開いた。

「知って、たの?」

「知ってたというか、知らされたのよ。随分前に。そうね、ひとまずは先生を呼ぶわ」

 母は凪いだ声でそう言うと、私の頭をひと撫でした。

 おかしい。今まで感じていた感触と違う。もっと大きな手だったような──そこまで考えて、再び涙が溢れた。


 恋しい。どうしようもなくリカルドが恋しい。


 母が涙を流す私には何も言わず、ナースコールのボタンを押す。『どうされました?』という看護士さんの声は、少しぼやけたように聞こえた。

「娘が目覚めました」

 母が答えると、スピーカーの向こうから、がたっという音と共に『すぐに行きます』とやはりぼやけたようなくぐもった音が返ってきた。

 その後診察といくつかの検査の末、異常なしと診断された私は、動きの悪くなった体でリハビリを軽く行い、目覚めてから三日後には退院した。

 眠っていたのは、わずか七日。向こうではひと月ほどだったのに。




 家に帰り、一息つくと、母が古い手紙を見せてくれた。

「どこから話そうか」

 そう言って、母が話し始めたのは、信じられないようでいて、どこか納得できる話だった。


 私が三歳の頃、祖父の国に家族で出掛けた。

 そこで、私を見た瞬間「エルザ!」と叫び、「俺が悪かった、俺のせいだ……」そう言いながら私に縋り付き泣き出したお爺さんがいたそうだ。祖父の家の近所に住む、少し風変わりなお爺さんで、前世の記憶があると噂されていたらしい。

「三歳の女の子に縋り付いて泣くのよ。変質者だと思うでしょう? お父さんが怒り狂ってね。おじいちゃんがなんとか取り成して警察には届けなかったの。でもね、どうしてだか私には単なる変質者だとは思えなくて。何となく忘れられなかったのよ」

 そして数年後、私があの夢を見た。

 日中、私が落ち着いているときに少しずつ聞き出した夢の内容。出てくるエルザという名前。母はあの時のお爺さんを思い出し、すぐさま祖父を介しメールを送った。私の夢の内容を添えて。

 すると、そのお爺さん本人がわざわざ日本まで祖父と一緒に訪ねて来た。一人では父に追い払われるだろうと思ったゆえに、祖父に全てを話し、協力してもらったそうだ。

「そのお爺さんが言うには、自分にはエルザの婚約者だった男の記憶があるって言うの」

「もしかして……ビト?」

 すると母が、ふぅーっと大きく息を吐き出し、少しだけ眉を寄せながら口元に薄く笑みを浮かべるという、何ともちぐはぐな表情になった。

 そして、再びゆっくりと話し始めた。

「そう、その名前……。本当に、本当だったのね」

 そう言うと、母がその時のことを思い出しながら話してくれた。


 そのお爺さん自身はサントスという名前だったそうだ。そのサントスさんが泣き叫ぶ私を見て、涙を流しながら「それはエルザだ、アリサじゃない。それはエルザの記憶だ、アリサの記憶じゃない」って、何度も繰り返し、たどたどしい日本語で語りかけてくれたそうだ。

 時々母にはわからない言葉でも語りかけていたらしい。

「きっと同じことを、私たちにはわからない、そうね、今思えばエルザの世界の言葉で話しかけていたんでしょうね」

 サントスさんが同じことを繰り返し語りかけられるうちに、私自身がその夢は別の人の記憶だって認識するようになっていったと母は言う。

 それはなんとなく覚えがある。ある日唐突に理解したような気がする。

「サントスさんはあなたが落ち着き始めたら、『自分はアリサに会うべきではない』って祖国に帰って行ったの」


 そのお爺さんは、私が十歳になる頃、その前世の世界に私と同じように三日間だけ滞在したそうだ。突然神殿の広間に現れた彼は、まるで神のように敬われたらしい。

 滞在中に見た夢で、私が十七歳の終わりにこの世界を訪れること、そこで聖騎士に声を掛けられることがわかったそうだ。更に、エルザが亡くなった原因、ビトが亡くなった原因、それらの元凶をも夢に見て、お告げとしてそれらを神殿の巫女に伝えたと、まるで本当に夢物語のようなことを、母に手紙で知らせたそうだ。


 そのサントスさんは三年前に亡くなった。

 その亡くなる直前に送られてきた手紙によると、私のことを見付ける聖騎士の母が巫女だったので、その母に直接お告げとして伝えることができたと書かれていたそうだ。

 祖父の国の言葉で書かれたその手紙を見せてもらう。

 そこには、「アリサが出会う予定の聖騎士に、アリサの顔のイメージをなんとか送ることができた。だが、私が直接知るアリサは七歳の少女だったので、その時のイメージが送られたかもしれない。とても心配だ」、そう書かれていた。

 出会ったときのリカルドが訝しげにしていたのはそのせいかもしれない。

 最後に「本当にエルザを愛していた。あの日エルザだけを選ばなかったことを、今でも後悔している」そう夢の中の言葉で書かれていた。

 文字を覚えて来て良かった。でなければ、最後の一文は読めないままだった。

「最後に書かれている言葉、有紗にわかる?」

「わかる。エルザへの謝罪……それと懺悔、かな。サントスさん自身のことじゃないのに、サントスさんは最後までビトの記憶に囚われていたんだね」

「サントスさん、常に教会に寄付していたそうよ。ご自分はいつだってぎりぎりの生活をしていたんですって」

 エルザの知るビトはそういう人だった。記憶の中のエルザが悲しんでいるような気がした。




 十日程学校を休んだ私は、登校すると仲のいい友人たちから口々に「よかった」と声を掛けられた。

「でもねぇ。お見舞いに行ったとき、有紗ったら幸せそうな顔をして寝てたから、余程いい夢でも見ているんじゃないかって思ってたのよ。どんな夢見てたの?」

「そうなの? 憶えてないなぁ。そんなに幸せそうだった?」

 胸の奥がぎゅっと傷む。誤魔化すように笑うも、上手く笑えているのかがわからない。

「なんかね、恋してるみたいな顔だった」

「なにそれー」

「恋してるって! なに言ってんのよー」

 笑いながら騒ぐ友人たちの声を聞きながら、泣きそうになった。

 恋しているみたい、じゃなくて、私は間違いなく恋をしていた。もう二度と会えない人に、思いっきり恋をしていた……。




 恋しい気持ちだけをそこに静かに置いたまま、それまでと同じ毎日を繰り返し、高校を卒業した。


 以前から、祖父の国に留学することを決めていた私は、卒業と同時に向こうで暮らす。最初は反対していた父も、母と一緒に説得し、祖父の家で暮らすことを条件に渋々認めてくれた。最初からそのつもりだった私にとっては、その条件は何の問題にもならない。

 様々な手続きを経て、六月に試験を受け、受かれば秋には大学生だ。


 ──∽──


 それは、まるで分厚いコンクリートの壁でできたコインロッカーのようだった。


 まるでどこかの庭園のようにきっちりと手入れされた緑の芝生。木漏れ日の中、ゆっくりと歩きながら彼の今世での名を探す。

 聞いていた場所にそれは静かに刻まれていた。


 そっとその刻まれた名に指を這わす。有紗には覚えの無い名前。もうひとつの名前の方が記憶に馴染んでいる。指に伝わるひんやりとした石の感触。それは、どこか寂しさを含んでいるようにも思えた。

「ありがとう」

 ここに来るまでにあったたくさんの想い。それは結局、たった一言に集約された。


 ふと見上げた空の色は、日本のそれとは少しだけ違って見える。

 もう一度彼の刻まれた名に目を戻し、小さな花束を手向けた。もうひとつの名を持つ彼が好きだった花。それに似た花を探した。

 どうか来世では幸せになって欲しい。彼女はあなたをとても愛していたから。

 気が済むまで彼のお墓に刻まれた文字を眺め、彼の今世の名を瞼に刻み付ける。最後に彼のもうひとつの名前を呟いた。彼女の代わりに。


 背後に人の気配を感じて振り返ると、数歩先、そこにどこか既視感を覚えるような、けれど見知らぬ男の人が何かに驚いた様子で呆然と立っていた。

 このお墓はいくつもの小さな区画が上下左右に分かれている。この場所にいると邪魔なのかもしれない。

 慌ててその場を去ろうとしたその瞬間、いきなり腕を取られた。

『アリサ! 君はアリサだろう?』

 聞こえたそれは、記憶にある言葉。ここではない、夢の中で話していた言葉──。


 耳を疑い、あまりの驚きに体の動きが止まる。

『領主の正妻の息子だと言えばわかるか?』

 あの日のリカルドと同じ言葉。ここでは私とサントスさんしか知らないはずの言葉。

 単なるナンパや変質者じゃない。それ以上に得体の知れない恐怖を感じた。夢の中の言葉を操り、リカルドの言葉も知っている人。

『誰?』

 意図せず夢の中と同じ言葉を漏らす。すると、目の前の男がそっと腕を放し、くつくつと小さく笑った。その笑い方に既視感を覚え、その男の顔を凝視する。まさか、そんなはずは……。

『偶然なんだけど、俺自身の名前もリカルドっていうんだ。立ち話も何だから、これまた偶然なんだけど、この先にあるラウーヤというカフェに行かないか?』

 目の前の男から次々とこぼれ出てくる言葉に、目眩を感じ、足元が覚束なくなる。

『ほら、前を見ていないと危ない』

 そう言って、私の手を取り、その手に引かれて歩き始める。リカルドと同じ言葉。まるで思考が追いつかない。




 気付けばカフェの椅子に腰を下ろし、目の前にはお茶が用意されていた。

『ほら、まずは一息入れて。エマの入れてくれたお茶ほどじゃないけど。……うん、まあこれもなかなかだ』

 言われるがまま口に含めば、カモミールの香りが鼻に抜けていった。肩に入っていた力も少しだけ抜ける。

 その様子を眺めていた男は、小さく息を吐き出し、私の目を真っ直ぐに見ながら、ここにはないはずの言葉で話し始めた。

『アリサは、エルザとは別の存在だろう? エルザの記憶を持っているが、別の人間だと認識している、だろう?』

 言われた言葉に素直に頷けば、リカルドに似た柔らかな笑みを返された。

『俺は、リカルドそのものなんだ。リカルドの魂を持って生まれているとでも言えばいいのかな。おそらくサントスさんもそうだったんだろうと思う』

 耳に飛び込んできた言葉がそのまま素通りしそうになる。言われた言葉を頭の中で何度も繰り返し、言葉を正しく理解しようとする。

『サントスさんをご存じなんですか?』

『直接はお目にかかれなかったけどね』

 彼が少し寂しそうな表情を見せた。

『俺がリカルドであることを思い出したのは、アリサがあの世界に行ったのと同じ頃だったから。それまでは単なる夢だと思っていたんだ。似たような夢をよく見るなぁって、それだけだった』

 彼は目の前のお茶に視線を落とし、静かにカップを持ち上げてそれを口に含む。その仕草にまで既視感を覚える。

『前世なのか、何なのか。俺がリカルドであることを自覚して、神殿に現れたサントスという名の男の人を探して、彼にたどり着いたときにはもう……亡くなっていたんだ。今日はそれでもと思って、サントスさんに会いに来て、そのままそこでぼーっとしてたら、目の前をアリサが横切って……また、夢なのかと思った』

 姿はまるで違うのに、その表情や仕草はリカルドそのものだった。

 小さく笑うときの目や口の動き、カップを持つときの指の位置、話すときの速度や歩くときの速度、座ったときの姿勢や歩くときの姿勢、さっきの手を繋ぐときの握り方も一緒だった。

『あの時、アリサが俺に会ったとき、俺はリカルドだったんだ』

『え?』

『あー、何って言ったらわかるかなぁ。アリサがあの世界に滞在している間のリカルドは、今、目の前にいるこの俺でもあったと言えばわかる? あのひと月ほどは俺もリカルドの中にいたというか、同調していたというか、俺自身だったというか……』

『つまり……あの時のリカルドは、あなたでもあったと言うこと?』

『そう言うこと。俺であってリカルドでもあって、リカルドであって俺でもある状態? まるで自分の姿だけが変わったような、不思議な感覚だった』

 目の前にいるリカルドは、今大学で夢についての研究をしているそうだ。実家がそれなりに裕福だからできることだと笑っていた。彼自身も資産運用で自身の資産を増やしてもいるらしい。

 私について話せば、私が目指す大学がリカルドの働いている大学で、祖父にはサントスさんのことを探しているときに会って話を聞いたことがあると言う。祖父に出会ったことがサントスさんへと繋がったそうだ。


 ラウーヤという名のカフェを出て、地下鉄の駅に向かいながら通りを歩く。

「どっちにしても出会っていたんだろうな、俺たちは」

 今いる国の言葉を話すリカルドが、小さく笑った。

 その言葉を聞いて、私の中で静かに置かれ続けていた気持ちが小さくざわめき出す。私も大概単純だと、思わず呆れたような笑いが零れた。

「ああ、その顔、アリサなんだな」

 そう言って立ち止まり、私の頬に優しく指先で触れるリカルドは、泣き出しそうに顔を歪め、それなのに嬉しそうな、なんとも複雑な表情をしていた。

「俺さ、夢で会った子に恋をして、この先彼女以外好きになれないってくらい、その子に恋しいって気持ちを全部持っていかれて、一生一人で生きていくのかと思っていたんだ」

 顔に熱が集まる。恥ずかしくなり思わず俯く。

「ああ、やっぱりアリサだ!」

 いきなりリカルドに抱きしめられた。逆らわずその胸に頬を寄せると、その体温が伝わり、その鼓動が耳に聞こえた。ようやくリカルドを、現実を、実感した。


 生きている。リカルドはここで、同じこの世界で生きている。


 そっと抱きしめられた腕の力が弱まり、その腕の中から開放される。ふと目が合えば、互いに少し照れてしまう。

 知っているのに知らない人。姿の違いに戸惑わないわけではない。でも、それ以上にリカルドに再び出会えた嬉しさが上回る。彼はリカルドだ。信じられないけれど、自分の中のエルザの記憶がそう教えてくれる。


 手を繋ぎ、ゆっくり歩き出すと、すっと目の前を横切り止まった車は祖父のものだ。

「おじいちゃん?」

「遅いから迎えに来たんだ」

 車から降りてそう言う祖父は、リカルドを見てどこか納得したように頷いた。

「きっとそうだろうと思っていた。君は本当にリカルドなのだろう?」

「そうですね。たまたま同じ名前なので紛らわしいのですが」

「サントスが最後に言っていたんだ。いつか有紗とリカルドは出会うだろうと。どうだい、一緒に食事でも」

 祖父がぱちんと片目を瞑った。どこかで見たようなその仕草。

「喜んで」

 にこやかに笑うリカルドとともに祖父の車に乗り込み、祖父の家に向かう。今は私も住む家に──。






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