第41話 悪魔の眠り
第41話 悪魔の眠り
見知らぬ天井が、視界いっぱいに広がっていた。
白く塗られた板張りの天井。
鼻をくすぐる薬草と消毒液の匂い。
窓から差し込む柔らかな日差しが、白い壁を明るく照らしている。
「……ここは?」
掠れた声を漏らし、ジンはゆっくりと瞬きをした。
身体の下には、清潔なシーツが敷かれている。右腕には包帯が巻かれていたが、ゴブリンロードとの戦いで受けたはずの傷は、ほとんど痛まなかった。
身体を起こそうと肘へ力を入れる。
その瞬間、全身を鉛で満たされたような倦怠感が襲ってきた。
「ぐっ……」
「あ、起きたニャ!」
聞き慣れた声とともに、赤褐色の犬耳が視界へ飛び込んできた。
寝台のすぐ横に置かれた椅子へ、ニーニャが座っている。大きな尻尾を左右へ振りながら、片手には艶やかな赤い果実を持っていた。
しかも、その口元は果汁で濡れている。
「ニーニャ……?」
「ジンが起きたニャ!」
ニーニャの声を聞き、病室にいた全員が一斉に振り向いた。
窓際にはクロエ。
壁際には腕を組んだアグニス。
その隣では、イアンがいつもの細い目をさらに細めて笑っている。
「ようやくお目覚めかいな」
「随分と長く眠っていたわね」
クロエが寝台のそばまで歩み寄った。
その姿を見たジンは、張り詰めていた息を吐き出した。
「みんな……無事だったのか」
「見てのとおりよ」
アグニスが赤い髪を払う。
「ニーニャも私も、あんたより先に退院したわ。イアンも鼻血を出しすぎただけで、身体には問題ないそうよ」
「ワイの扱い、雑すぎへん?」
「実際、そうだったでしょう」
クロエに冷静に返され、イアンは肩をすくめた。
「俺は、どのくらい眠っていた?」
「三日よ」
「三日……」
ジンは自分の身体へ目を落とした。
記憶の最後にあるのは、ゴブリンロードの上級魔石を喰らった瞬間だった。
膨れ上がった力。
全身を塗り潰した怒りと憎悪。
自分の意思を無視し、魔力の糸に引かれて動き続けた身体。
そして――仲間へ向けて振り上げた大剣。
ジンの手が、無意識に掛け布団を掴んだ。
「俺は……みんなを襲った」
「そうね」
クロエは否定しなかった。
「危うく私たちまで斬られるところだったわ」
「すまない」
「謝罪は受け取っておくけれど、今ここで暗い顔をされても困るわ。少なくとも全員、生きて戻ってきた。それで十分よ」
クロエの言葉に、ニーニャも大きく頷いた。
「そうニャ。それに、暴れていたジンより、銀髪になったニーニャの方が格好良かったはずニャ!」
「あなた、自分が何をしたのか覚えていないでしょう」
「覚えていないから、好きに想像できるニャ」
「胸を張るところではないわよ」
アグニスが呆れたように息を吐いた。
病室へ、いつもの空気が戻ってくる。
そのやり取りを聞いているうちに、ジンの胸に残っていた重苦しさが、僅かに薄れていった。
「捕らわれていた人たちは?」
「全員、救出されたわ」
クロエが答える。
「長く囚われていた人の中には、心身ともに深い傷を負った者もいる。まだ治療は必要だけれど、少なくとも全員、生きて地下王国を出ることができたわ」
「そうか……」
助けられた。
少なくとも、自分たちが地下王国へ踏み込んだことは無駄ではなかった。
ジンが安堵していると、隣からしゃり、と小気味よい音が聞こえた。
ニーニャが新しい果実へ噛みついていた。
寝台脇の机には、豪華な果物籠が置かれている。赤や黄色の果実だけでなく、季節外れの高級果実まで詰められていた。
ただし、籠の半分ほどはすでに空になっている。
「それは、見舞いの品じゃないのか?」
「そうやで」
イアンが答えた。
「目覚めたジンはんに食べてもらおう思うて、奮発して最高級の果物セットを買ってきたんや」
「美味しかったニャ」
「なんでニーニャはんが感想を言うとるんやろなぁ?」
「毒が入っていないか、確かめてあげたニャ」
「一つで十分やろ。もう五つ目やで」
「味によって毒が違うかもしれないニャ」
悪びれもせず、ニーニャは果実を頬張る。
「それに、クロエの料理にはもう飽きたニャ。ジンはさっさと退院して、屋敷へ帰ってくるニャ」
「三日間、食事を作ってあげた私に対して、随分な言い方ね」
「クロエの料理は健康的すぎるニャ。肉が足りないニャ」
「病み上がりの人間へ、毎食山盛りの肉を出す方がおかしいでしょう」
「ニーニャはもう元気ニャ」
「だから退院できたのでしょう」
クロエの額に青筋が浮かぶ。
ニーニャは危険を察したのか、果物籠を抱えたままイアンの背後へ隠れた。
「ワイを盾にせんといてくれる?」
ジンは思わず笑った。
その瞬間、アグニスが顔を背けながら、寝台脇へ小さな箱を置いた。
「これ」
「何だ?」
「見れば分かるでしょう。回復用のポーションよ」
箱の中には、透き通った赤い液体が入った小瓶が収められていた。瓶を封じる蝋印には、王都でも有名な高級薬房の紋章が刻まれている。
「かなり高いものじゃないのか?」
「べ、別に大したものではないわ」
アグニスはジンと目を合わせようとしない。
「治癒師の治療で傷はほとんど治っているらしいけれど、体力までは戻っていないのでしょう? それを飲んで、さっさと治して元気になりなさいよね!」
「ありがとう」
「お礼なんていらないわ。選抜テストで一人欠けたら、私たちが困るだけよ」
「アグニスはん、そのポーションを買うために昨日――」
「イアン」
アグニスの掌に炎が灯った。
「それ以上喋ったら燃やすわよ」
「ワイ、まだ何も言うてへんのに……」
イアンが両手を上げる。
その反応だけで事情を察したジンは、ポーションの箱を大切に手元へ置いた。
「選抜テストと言ったな」
「三日後から始まるわ」
クロエが答えた。
「一か月後に行われる学園対抗戦へ出場する代表チームを決める試験よ。担当の治癒師によれば、あなたは今日中に退院できるそうだけれど、数日は安静にするようにとのことよ」
「間に合うのか?」
「間に合わせるしかないニャ」
ニーニャが果実を持ったまま、得意げに胸を張った。
「もしジンが戦えなくても、うちら四人だけで勝ち抜いてみせるニャ! 一か月後の本戦までに、体調を万全にしておくニャ!」
「そうね」
クロエも頷いた。
「いつもあなたに頼ってばかりでは、格好がつかないもの」
「別に、あんたがいなくても問題ないわ」
アグニスは腕を組んだ。
「私が出てくる相手を全部なぎ倒してあげる」
「頼もしいな」
「本気に決まっているでしょう」
最後にイアンが、困ったように頬を掻く。
「ジンはんがおらん試合なんて、ワイには悪夢やわぁ……」
「悪夢を操るのは、あなたでしょう」
クロエが即座に返した。
再び笑い声が上がる。
ジンは仲間たちの顔を眺めながら、静かに息を吐いた。
身体の奥に残っていた冷たさが、少しずつ解けていくようだった。
◇
その日の夕方。
治癒師の許可を得たジンは、クロエたちとともに屋敷へ戻った。
三日ぶりの自室は、何も変わっていなかった。
壁へ立て掛けられた刀。
机の上に積まれた教本。
窓から見える騎士学園の尖塔。
仲間たちは夕食の準備へ向かい、ジンは一人で部屋に残った。
身体の傷は治っている。
まだ疲労感はあるものの、歩くことも刀を振るうこともできる。
ジンは右手を床へ向けた。
「来い、黒騎士」
魔力を流す。
だが、何も起きなかった。
「……黒騎士」
もう一度、強く命じる。
足元から僅かに黒い霧が漏れた。
それは人の形を作る前に揺らぎ、空気の中へ消えていく。
ジンは眉を寄せた。
以前なら、呼びかけるだけで黒騎士は現れた。それどころか、ジョーカーが勝手に姿を見せることさえあった。
「ジョーカー」
意識を自分の内側へ沈める。
「聞こえているなら返事をしろ」
静寂だけが返ってきた。
耳障りな笑い声もない。
主人様と呼ぶふざけた声もない。
胸の奥には、何か巨大なものが存在している感覚だけが残っている。だが、幾重もの闇に閉ざされ、こちらから触れることができない。
「魔石を喰らいすぎたせいか……?」
答える者はいない。
ジョーカーが消滅したとは思えなかった。もし消えているなら、魂の一部を抉り取られたような喪失があるはずだ。
だが、今のジョーカーは深い眠りへ落ち、外からの呼びかけを拒んでいる。
少なくとも、すぐに黒騎士を使うことはできない。
ジンは窓の外へ視線を向けた。
週明けには選抜テストが始まる。
これまでのように黒騎士へ敵を任せることも、換装によって身体能力を引き上げることもできない。
「黒騎士なしで、戦えということか」
ジンは壁へ立て掛けていた刀を手に取った。
鞘から刃を抜き、静かに構える。
右眼へ魔力を集めると、黄金色の光が灯った。
その瞬間、自分の腕を流れる魔力が、これまでとは比べものにならないほど鮮明に見えた。
心臓から肩へ。
肩から腕へ。
指先から刀へ流れようとして、定着できずに霧散する魔力。
「神眼は使える。それどころか……以前よりも見える」
黒騎士の力は、今は使えない。
だが、すべてを失ったわけではない。
ジンは刀を握り直した。
「なら、今ある力で戦うだけだ」
窓の外から、騎士学園の鐘が響く。
選抜テストの開始まで、残された時間は僅かだった。




