第1話 最後の依頼
第1話 最後の依頼
暗い洞窟の中を、一人の冒険者が進んでいた。
背丈は百八十センチ近く。細身ながらも、その身体は無駄のない筋肉で引き締まっている。身につけているのは、動きやすさを重視した革鎧だった。表面には無数の傷が刻まれているが、傷みは丁寧に補修され、留め具や革紐にも緩みは見当たらない。
熟練の冒険者を思わせる装備とは対照的に、その顔にはまだ少年の面影が残っていた。
艶のある黒髪。
暗闇の奥を鋭く見据える黒い瞳。
青年と呼ぶには若く、少年と呼ぶには精悍すぎる。
彼の名は、ジン・クロード。
十八歳のCランク冒険者だった。
「…………」
ジンは左手に持った松明で足元を照らしながら、黙々と洞窟の奥へ進んでいく。
左腰には、緩やかに反った片刃の刀。
右腰の革製ホルスターには、ハンドガン型の魔銃。
さらに背中の小さな鞄には、ポーションや保存食、予備の弾倉が収められている。
単独で洞窟へ入るのは、熟練の冒険者でも危険を伴う。まして、この洞窟には坑夫を何人も食い殺した魔物が潜んでいる。
それでも、ジンの足取りに迷いはなかった。
やがて、靴底から伝わる微かな振動を感じ、静かに足を止める。
「……来たか?」
松明を石床へ落とす。
先端に巻かれた布には油が染み込ませてあるため、落とした程度では火は消えない。赤い炎が揺らめき、洞窟の壁にジンの長い影を映し出した。
ジンは刀の鯉口を切り、柄へ右手を添えた。
目を閉じ、呼吸を整える。
視覚に頼ってはいけない。
僅かな空気の動き。
地面を伝わる振動。
壁の奥から響く、岩石が削られる音。
それらすべてへ意識を集中させる。
振動は少しずつ大きくなっていた。洞窟全体が低く唸り、天井から小石がぱらぱらと落ちてくる。
正面ではない。
右斜め上――。
ジンが目を開いた瞬間。
ドガンッ!!
右側の岩壁が内側から吹き飛んだ。
砕けた岩石と砂埃の中から飛び出してきたのは、円状に並んだ無数の巨大な牙だった。
その中心には、すべてを飲み込むような暗い口腔が広がっている。喉の奥まで鋭い牙がびっしりと並び、開閉するたびに岩の破片が粉々に砕かれていく。
岩盤すら噛み砕いて地中を進む牙だ。
捕らえられれば、人間の身体など鎧ごと引き裂かれるだろう。
魔物は崩れた壁の穴から、ずるずると全身を這い出させた。
灰色の皮膚は分厚く、芋虫の腹のように脈打っている。胴回りは牛すら丸呑みにできるほど太く、全長は十メートルを優に超えていた。
「来たな、キラーワーム!」
ジンが今回引き受けたのは、魔鉄の鉱山に巣食うキラーワームの討伐依頼だった。
数週間前から坑夫が相次いで行方不明になり、調査へ向かった三人組の冒険者も襲撃された。一人が食い殺され、残る二人も重傷を負いながら、辛うじて地上へ逃げ帰ったという。
キラーワームの危険度はCランク。
だが、Cランクに分類される魔物の中では、最も危険な討伐対象の一つだった。本来なら、複数人の冒険者で挑むべき相手である。
それでも、ジンはこの依頼を引き受けた。
千年以上続く六王国の戦争。
エスパーダ王国は現在、南方を支配するオルクス帝国と激しい戦争を繰り広げている。有能な冒険者の多くが徴兵され、冒険者ギルドには危険な依頼を任せられる人材がほとんど残っていなかった。
誰かが引き受けなければ、鉱山は閉鎖される。
多くの坑夫と、その家族が生活を失うことになる。
そして何より。
これは、騎士学園へ入学する前に受ける最後の依頼だった。
ジンは明日、騎士学園の入学試験を受ける。
騎士になり、戦場へ出るために。
十四歳の自分から、両親を奪った戦争へ戻るために。
母は聖騎士だった。
父は黒騎士だった。
二人とも、オルクス帝国のハイオーク兵との戦いで命を落とした。
あの日から、ジンは独りで生きてきた。
両親が遺してくれた財産があるため、生活に困ったことはない。だが、広すぎる家で一人きりの食事を取るたびに、金では埋められないものがあると思い知らされた。
だから、強くなろうと決めた。
もう二度と、何もできない子供には戻らない。
いつか必ず、皇帝オルクスを倒す。
その日まで――。
「こんなところで、死ぬわけにはいかない!」
キラーワームが巨体を震わせ、ジンへ襲いかかった。
暗闇で生きるキラーワームには、目がない。その代わりに振動を感知する器官が発達しており、僅かな足音からでも獲物の位置を正確に割り出せる。
巨大な口が迫る寸前、ジンは左へ跳んだ。
牙が虚空を噛み砕く。
同時に刀を抜き放ち、すれ違いざまに胴体を横薙ぎに斬りつけた。
ガキンッ!
「なにっ!?」
まるで岩を斬りつけたような衝撃が、刀から腕へ伝わってきた。
キラーワームの皮膚には浅い傷が刻まれただけだった。
直後、うねった胴体がジンを横殴りにする。
「ぐっ!」
咄嗟に刀の腹で受けたものの、衝撃までは殺し切れない。ジンの身体は数メートルも弾き飛ばされ、石床を転がった。
すぐさま片膝をつき、刀を構え直す。
「やっぱり、硬いな……」
分厚い外皮を破れないのなら、狙うべきは口の中だ。
だが、岩石すら砕く牙の正面へ立つのは自殺行為である。
ならば、自分で弱点を作るしかない。
ジンは体内の魔力を解放した。
黒みを帯びた魔力が全身を包み、刀身にまで広がっていく。さらに革鎧へ刻まれた身体強化のルーン文字へ魔力を流し込んだ。
刻まれた文字が淡い光を放つ。
次の瞬間、ジンの心臓が激しく脈打った。
身体強化魔術。
筋肉に魔力を流し、肉体が本来持つ限界近くまで力を引き出す魔術だ。
爆発的な力を得られる反面、肉体への負担は大きい。長時間使えば筋繊維が傷つき、翌日はまともに動けなくなることもある。
明日に入学試験を控えた今、できれば使いたくない魔術だった。
だが、命には代えられない。
「ギギギギギギ!」
キラーワームが再び突進してくる。
ジンは先ほどとは比較にならない速度で踏み込み、牙が届く寸前で横へ回避した。そのまま脇を駆け抜け、硬い外皮の一点へ刀を突き出す。
ガキンッ!
刃は弾かれた。
それでも、僅かに傷が深くなっている。
ジンは次の突進も避け、まったく同じ場所へ二度目の突きを放った。
三度目。
四度目。
キラーワームの攻撃が、徐々にジンの動きを捉え始める。
五度目の突進。
ジンは足元の小石を右側へ蹴り飛ばした。
石が音を立てて地面を跳ねる。
振動を感知したキラーワームの牙が、ジンではなく小石の落下地点へ向けられた。
「そこだ!」
ジンは無防備になった側面へ踏み込み、これまでと同じ一点へ渾身の突きを放った。
ザクッ!
ついに刀が硬い外皮を貫いた。
「ギギギギギギ!?」
キラーワームが絶叫し、傷口から緑色の体液が噴水のように噴き出した。
強烈な悪臭が鼻を突き、革鎧を汚す。
キラーワームは巨体をくねらせ、壁に開けた穴へ逃げようとした。
野生の魔物は臆病だ。
危険を感じれば逃げ、傷が癒えた頃に再び獲物を襲う。
「逃がすか!」
ジンは刀を引き抜くと、右腰の魔銃を抜いた。
傷口へ銃口を押し込み、残された魔力を一気に注ぎ込む。
魔銃に刻まれた《爆炎》のルーン文字が、真紅の光を放った。
「喰らえ!」
引き金を引く。
轟音とともに、銃口から灼熱の炎が放たれた。
外皮を焼く必要はない。
すでに開いた傷口から流れ込んだ爆炎が、キラーワームの体内を直接焼き尽くしていく。
「ギギギギギギギギ――!」
キラーワームの巨体が激しくのたうち回り、牙の並ぶ口から炎が噴き出した。
やがて断末魔は弱々しく途切れ、十メートルを超える巨体が地響きを立てて横たわる。
「……終わったか」
ジンはしばらく魔銃を構えたまま、キラーワームの様子を観察した。
動く気配はない。
完全に息絶えている。
大きく息を吐き、魔銃をホルスターへ戻した。
右手にはめた指輪を死骸へ向ける。中央の宝石へ魔力を流すと、巨大なキラーワームの身体が歪み、一瞬で指輪の中へ吸い込まれていった。
「全部入ったのか。さすがに高価な魔導具だけはあるな」
これは討伐の証拠を持ち帰るため、冒険者ギルドから貸与された収納魔導具である。一軒家ほどの大きさまで収納できるが、非常に高価で、Cランク冒険者が個人で所有できる代物ではない。
ジンは落とした松明を拾い、来た道へ向かって歩き始めた。
一歩進むたびに、身体中の筋肉が軋む。
早くも身体強化魔術の反動が始まっていた。
「……明日の入学試験、大丈夫かな」
戦闘中には忘れていた重大な問題を思い出し、ジンは顔をしかめた。
それでも依頼は達成した。
今日をもって、冒険者としての日々はいったん終わる。
明日からは、両親と同じ騎士になるための道が始まるのだ。
ジンは一度だけ足を止め、振り返った。
誰もいないはずの洞窟の奥から、何かに見られているような気がした。
耳を澄ませても、聞こえるのは松明が燃える小さな音だけだ。
「……気のせいか」
再び歩き始める。
その右手にある収納指輪の中で、キラーワームの魔石が一度だけ、黒い光を放ったことに気づかないまま。




