おばけトンネル
あの夜、幽霊に見えたのは私だった。
あの夏の夜、すべては雨に溶けた。
私の髪は腰まで届く長さだった。五年も前、まだ少し若かった頃の話だ。
その日は、朝から一点の雲もない猛暑だった。仲間たちと久しぶりに集まり、笑い声と共に時間は過ぎ去った。
家庭を持つ者が多かったため、十八時には自然と解散となった。私は地元へ自転車で帰る道を選んだ。
薄手のベージュのズボンと、淡いピンクのポロシャツ。軽やかな格好が、蒸し暑い空気に心地よかった。
しかし、走り始めて二十分も経たないうちに、空は急変した。暗雲が低く垂れ込み、冷たい風が肌を刺す。雷鳴が遠くで響き、次の瞬間、豪雨が叩きつけた。
台風並みの雨と風だった。近くの屋根付き駐輪場に駆け込み、一時間ほど待った。だが雨は一向に弱まる気配がない。
夏の雨など、むしろ心地よいものだと甘く考え、私は再びペダルを漕ぎ出した。五分で後悔した。
全身がびしょ濡れになり、ベージュのズボンは肌に張り付き、まるで何も穿いていないかのように透けていた。
上半身のピンクも同様に体に貼りつき、惨めな裸身を強調する。体温は急速に奪われ、歯の根が合わなくなった。
髪は括っていなかった。雨に打たれ、風に煽られ、顔全体に絡みつく。視界が塞がれ、息さえままならない。
必死に髪をかき分けながらハンドルを握るが、風圧で自転車がふらつく。そのとき、道路脇に女子高生のグループが立っているのが見えた。
彼女たちは私を一目見て、悲鳴を上げた。
「きゃあっ!」
私は咄嗟に顔を背け、必死にペダルを漕いだ。全裸の長髪の男――そう見えたに違いない。自分でもそう思った。
羞恥と恐怖が混じり合い、ただ逃げることしか頭になかった。しかし、このままでは息ができない。
風雨の中、髪を押さえながらでは自転車を制御できない。そのとき、脳裏に浮かんだのは、あのトンネルだった。
通称、オバケトンネル。
女性の幽霊が出ると噂の絶えない、近所の短いトンネル。下り坂から再び上りになる独特の構造が、まるで長い闇を永遠に通り抜けるように錯覚させる。
そして出口直後のT字路の正面にそびえる壁。
あの閉塞感が、言い知れぬ不気味さを生むのだ。こんな夜、誰も近寄るはずがない。私は震える足でトンネルへと急いだ。
中は予想通り、誰もいなかった。薄暗い照明が、濡れた路面をぼんやり照らしているだけだ。
バッグからブラシを取り出し、必死に髪を梳いた――
車が何台か通り過ぎたが、誰も止まらなかった。幸いだった。
髪を整え、ゴムで一つに括り終えたとき、ようやく人心地がついた。私は再び自転車に跨がり、一気に家路を急いだ。
雨はまだ降り続いていたが、トンネルを出た瞬間、背後に何か冷たい視線を感じたような気がした。
それから数日後、噂は一気に広がった。
「オバケトンネルに、全裸の女の幽霊が出たらしい」
「腰まである長い黒髪で、雨の夜に髪を梳いていたって…」
「顔は見えなかったけど、透けた体がぼんやり光ってたんだって」
私は黙っていた。誰にも話さなかった。
だが夜、ベッドの中で目を閉じると、あのトンネルの暗がりが瞼の裏に浮かぶ。梳いた髪の感触と、女子高生たちの悲鳴。
そして、出口の壁に叩きつけられるような閉塞感。あれは、私だった。
しかし、時折、ふと思うのだ。あのとき、トンネルの中で髪を梳いている私を、誰か別の「何か」が、じっと見ていたのではないかと。
雨の音が、まだ耳の奥に残っている。
読んで頂き有り難う御座います。




