第3話 旧校舎の怪異と、50点で済ませる祓魔作業
昼休みの喧騒から完全に切り離された場所。
立ち入り禁止となっている旧校舎の一階、薄暗い理科室の前で、沙羅は息を呑んだ。
――寒い。
季節外れの凍えるような冷気が、床を這うように満ちている。
ギィ……ギィィ……。
錆びついた扉の奥から聞こえてくるのは、濡れた雑巾を絞るような、いやに生々しい音。
そして、鼻腔を突くのは、古い鉄の匂いと、腐った泥の悪臭だった。
「やはり……昨日の呪いの残滓が、この地の低い霊と結びついてしまったのですね」
沙羅は白く細い指先で、懐から和紙の護符を取り出した。
昨日の松本城で悠真が祓った『黒霧の貴族』。その飛び散った呪いの欠片が、学校という思春期の鬱屈した感情が溜まりやすい空間で、急速に肥大化していたのだ。
理科室の扉が、内側から『ぐしゃり』とひしゃげた。
這い出てきたのは、黒い泥濘の塊だった。
無数の生徒たちの歪んだ顔が泥の表面に浮かび上がり、声にならない悲鳴を上げている。手足の区別もないその肉塊は、天井まで届くほどの巨体へと膨れ上がった。
『……クルシイ……タスケテ……恨メシイ……!』
鼓膜ではなく、脳に直接響くおぞましい怨嗟の声。
沙羅は恐怖で膝が震えるのを必死に堪え、護符を構えた。
「退きなさい、悪しきモノよ! 『臨兵闘者皆陣列在前』――!」
凛とした声と共に、沙羅の護符から清浄な光が放たれる。
しかし。
『……アァァァッ!!』
怪異が泥の腕を振り下ろした瞬間、沙羅の放った光は、濁流に呑まれる小石のようにあっけなくかき消されてしまった。
圧倒的な力の差。巫女である沙羅には『視る』力はあっても、これほど肥大化した怨霊を単独で祓う攻撃力はないのだ。
「きゃあっ……!」
衝撃で吹き飛ばされ、冷たい廊下の床に叩きつけられる。
全身を打つ激痛に顔を歪める沙羅の頭上へ、怪異が巨大な影を落とした。
無数の歪んだ顔が、沙羅の清らかな生気を喰らおうと、一斉に口を大きく開く。
(ああ……父様。申し訳ありません。私はここで……)
沙羅が絶望に目を閉じた、その時だった。
「……あー、マジか。ここも立ち入り禁止かよ。昼寝する場所探してたのに」
気の抜けた、あまりにも場違いな声。
廊下の曲がり角から姿を現したのは、パックのカフェオレにストローを挿した悠真だった。
『……ギ……?』
怪異が動きを止める。
沙羅も、信じられないものを見るように目を見開いた。
「ゆ、悠真殿!? いけません、逃げてください! これは私の時代の呪いが――」
「いや、逃げるって言ってもさ」
悠真はカフェオレをずずっと啜りながら、天井まで届く異形の肉塊を見上げた。
「俺、さっきの給食のカレーうどん、お代わり争奪戦に負けてちょっと機嫌悪いんだよね。おまけに昼寝の邪魔までされるとか、最悪なんだけど」
『ガアアアアアアアアッ!!』
悠真のそのあまりにも舐め腐った態度に激昂したのか、怪異は沙羅から標的を変え、巨大な泥の腕を悠真へと全力で叩き下ろした。
理科室の壁が崩れ落ちるほどの圧倒的な質量。
しかし、悠真は避ける素振りすら見せない。
ただ面倒くさそうに、ポケットから例の『御朱印帳』を取り出した。
「いちいち全身呼ぶのも疲れるし。50点くらいの力でサクッと終わらせてよ、戸隠のおっさん」
悠真が適当なページを開き、指先で叩く。
瞬間。
旧校舎の空間が、文字通り『割れた』。
空間の裂け目から現れたのは、神々しい黄金のオーラを纏った、丸太のように太い『巨大な剛腕』のみ。
それは、長野県北部・戸隠神社に鎮座する、天の岩戸をこじ開けたとされる怪力の神――天手力雄命の右腕だった。
『……!?』
怪異が悲鳴を上げる間もなかった。
顕現した巨大な神の腕は、悠真に迫っていた泥の塊を、まるで使い古しの紙コップでも握り潰すかのように、無造作に、そして容赦なく『グシャァッ!』と握り潰したのだ。
――パンッ!
風船が破裂したような音と共に、黒い泥は一瞬で浄化の光に包まれ、塵一つ残さず消滅した。
あとに残ったのは、何事もなかったかのように静まり返った旧校舎の廊下と、呆然とへたり込む沙羅だけ。
「よし、及第点。50点で十分だろ、こんなの」
悠真は御朱印帳を雑にポケットに突っ込むと、残りのカフェオレを飲み干した。
「あー……でも、ここホコリっぽいし、昼寝はやめとくか。ほら、沙羅も早く教室戻るぞ。もうすぐ5時間目始まるし」
「…………え?」
「え? じゃないよ。次、数学の小テストあるんだからな」
圧倒的な絶望を、文字通りの『秒殺』で、しかも片手間の作業のように終わらせた少年。
沙羅は、悠真の背中を見つめたまま、ガタガタと震える足で立ち上がるしかなかった。
(このお方……神の力を、手足の如く……いや、それ以上に雑に扱っておられる……!?)
未来の救世主は、沙羅の想像をはるかに絶する、無自覚で規格外の怠け者だった。




