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1 ようこそニンゲン

早速だが死んでもらおう!

 

「おはよう、おねえちゃん」


 鈍器で殴られているような頭痛とは対照的な穏やかな声を聞いて、薄暗い部屋の中で少女は目を覚ました。ドクドクと脈打つ頭を押さえながら息を整える。現状を把握しようと白黒に点滅する視界で辺りを見回すと、所々に苔が生えている石造りの部屋で、頑丈な鉄の棒が立っている。いわゆる牢屋であると理解する。

「…は…えぇ……」

 少女は千春という。どこにでもいる至って普通の十四歳の女の子だ。一切の色が抜け落ちた真っ白な髪の毛が人目を引くだけの、普遍的な女の子である。ついさっきまで千春は弟を迎えに行くため、ネオンの輝く街中を急いで走っていたのだが、足元が疎かになってしまい小石につまづいて派手に転倒。運悪く縁石に頭をぶつけてあえなく気絶。そうして今に至る。

「…や、普通に意味わからな…え?」

 おかしな夢でも見ているのかと頬をつねってみるが痛みを感じるので現実だと絶望する。路上で爆睡している未成年は大いに問題アリなので、もしかしたら警察に保護されたのかもしれない。そうだとしたらもう少し上等な部屋に転がしてほしかった、と千春は思った。頭の痛みも治まり、足に力が入り始めたので立ち上がって格子に近寄り牢屋の外を見てみる。暗く静かで、どこからか水滴が垂れる音も聞こえる。他にもたくさん牢屋があるが、見える範囲内に自分以外の人はいない様子。警官らしき人も歩いていない。

「あのー…だ、だれか…」

 試しに尋ねてみても、当然答えは無く。溜め息をついて座り込み、格子に寄り掛かったその時、遠くから靴音が千春の耳に入った。再度立ち上がってその方を見ていると、かすかなオレンジ色の光が見えた。

「よ、よかった…なんとか出してもらわないと…」

 話の分かる優しいおじさん警官だといいな、とズレた期待をする千春の希望は見事に消え失せる。やって来たその人は、話の分かる優しいおじさん警官でもなく、ましてや「人」でも無かったのだから。

「────」

「えっ…」

 ランタンに照らされて見えるのは、丈の長い軍服に身を包み、首元を鮮血のように赤いマフラーで覆っている長身の男性だ。黒い髪を七三分けに撫で付け、メガネの奥には濃い隈がある。ここまでの特徴を踏まえると疲れた人と捉えられるが、捉えられない理由が二つあった。一つは耳がツンと尖っている事。これだけなら生まれつきそういう耳だったんだろうとか、整形してみたんだろうとか色々言い訳が立つ。しかし問題なのは二つ目の理由だった。

「────」

 何を話しているのか全く聞き取れない。千春は海外の言葉を全て知っている訳じゃないが、明らかに人間の話す言葉では無いと胸を張って断言出来る。複数入り混じった低い声にノイズがかった、形容しがたい言語。ただ、相手も言葉が通じず困惑しているのか身振り手振りを加えてくれてはいる。悲しいことに分からないものは分からない。お互いがお互いに困惑するという切ない空間が爆誕した。

「あ、あの…私…」

「───」

「えぇ…ど、どうしよう」

「─────」

「わ、わからないぃ」

 二人でしばらく沈黙した。気まずい空気感の中で、男性は閃いたように手を叩き、千春を指差した。

「…私?」

 そして、親指を出してグッドの形にし、自身の首へ持って行く。グッドを逆さまに向けて一直線に引いた。

「首ちょんぱ…」

 ニッカリと笑い、人差し指と親指をくっつけて輪っかを作る。オーケー、と聞いているのだろうか。一連の動作を要約した千春がたたき出した結論は。

「わたわたわっ私殺されるんですか?!」

「───」

 顔面蒼白で叫んだ千春に、眉を下げてまた笑った。どうやら合っているらしい。首を切る動作はつまりギロチンでドン、を表しているのだろう。冗談じゃないと見上げても真剣な表情なので本当に首を落とす心づもりらしい。しかし千春はこんな所で、理不尽に殺される訳には行かない。最愛の弟が自分を待っている。

「な、なんでっ、どうしてこここ、殺されなきゃいけないんですか?!」

「───」

「私何か悪い事した覚えないんですよっ、や、あの、覚えてないだけで何かしたって事でしたら本当に申し訳ありません! で、ですからどうか、いっ命だけは!」

「───」

「困った顔されても私だって困るんですよ…」

 いかに自分が無害であるかを必死で伝えてもやはり無意味のようで、困った笑みを返されるのみ。言葉が通じないのがこんなにも辛いとは。

「──」

「…?」

 男性が呟いて通路の奥へ視線をやる。先ほど男性が通って来た方だ。オレンジ色の光が近付いて来る。千春は気付かなかったが男性は腰に長剣を差しており、警戒してそれに手をかけていた。コツコツと乾いた靴音。

「──」

「───」

「っ…ま、また人間じゃないひと…」

「──」

 男性は知り合いであると分かったのか警戒を解き、陽気に話し出した。細くしなやかな肢体に藍色のくたびれたスーツを着用しており、男性なのか女性なのか判別しにくいどっちつかずの端正な顔立ちで、右半分を黒髪で隠している。千春を見やると、咥えていたまだ長い煙草を消した。

「───ァ、アー。ホン、ずつ…本日ワ、せーてンなり」

「……え?」

「たダいまちゅーにんぐ中にて……っシャア!! 来た!」

「ひぃっ」

「いやー悪いねぇ、コイツ喋れないからさぁ苦労かけたっしょ? メンゴメンゴ」

 凛とした声音は女性のもので、少し掠れ気味であった。そんな事は重要ではない。重要なのは、彼女が千春の使う日本語を話し出した、という事だ。千春の幻聴で無ければ確かに彼女は日本語を話した。

「え…えっ…?」

「めちゃくそ久しぶりに使ったワ。大丈夫? アタシ君の使ってる日本語喋れてるかしらん?」

「あぇっ…え、はいっ……」

「おけおけ。正直ニンゲンの言葉使えるのアタシしかいないワケ。しかもここじゃない世界のっつったら余計にね」

「ここじゃない、世界…って、あ、あなたは一体…」

「アタシはヒビキ。こっちの野郎はヤロスラフ、ヤレスって呼んでいいよ」

「…わ、私は、千春と申します…」

「…ちは、る?」

 千春の名を聞いたヒビキの表情が一変する。驚きと悲しみが混ざった、不思議な表情に。

「……そっかぁ…」

「あ、あの…ヒビキ、さん…?」

 ヒビキはすぐにその表情を消し、ヤレスの左頬めがけてビンタをした。通路内に響く強烈な一撃で、ヤレスとメガネが吹っ飛んだ。

「えぇっ?!」

「うっし!」

 スーツの襟を正しながら地に伏せたヤレスを見た。頬を押さえているヤレスの額に青筋が何本か浮いてきている。

「っっったいわボケェッ!!! いきなり何すんねんお前コラァ!!」

「わりわり、これも必要な犠牲やねん」

「どこが必要やってん!!」

「必要だべ? まじないのためなんですよ」

 何の説明も無くいきなりビンタを喰らわされた事に激怒したヤレスがヒビキに掴みかかる。千春はあんな大男をぶっ飛ばせるヒビキの腕力に驚いたが、冷静になってヤレスの言葉が理解出来るようになっている事にまた驚いた。

「こっことば、が」

「え?」

「さ、さっきまで何言ってるかさっぱりだったのに…?!」

「…ホンマやん! おうヒビキ何したんや! ワシ何でニンゲンの言葉分かるんや?!」

「ヒビキさんビンタのおかげやね」

「説明になっとらんわ!!」

 ヤレスの独特な訛りは千春も聞いた事があった。あまり馴染みは無いが、元の世界の日本で言う所の関西弁に該当するだろう。厳格そうな見た目から繰り出されるギャップで千春は親しみが湧いた。さっきまで殺そうとニコニコで提案してきた相手に。

「まぁこれで話は進められるなぁ、助かったでヒビキ」

「おうともさ。部下が困ってたら助けるのが上司ってなモンだろ?」

「はぇ~ほなワシの残業数カッと減らしてくれたってもええんやで?」

「いつも助かってま~っす!」

「ざけんなァ!!」

 ヤレスは思ったよりツッコミ担当の苦労人らしい。コントでも見ている気分になったが、千春は心臓に悪い単語を聞いて一気に冷汗が出て来た。

「…は、話…」

「せやせや。早速やけどな、ニンゲンの君は斬首せなあかんから斬首するな?」

「まままままま待ってください! ほ、本当にわたた私死ぬんですか?!」

「嬢ちゃんは何も悪い事してへんけど、それが決まりやから」

「き、決まりって」

「ニンゲンは殺す。いかなる理由があっても発見次第即座に捕縛し処刑ってな」

 恐怖心を和らげようと笑顔を浮かべてくれるが、そうする事でより恐怖心が増幅するのが分からないのか。というより、笑顔のヤレスの目は一切笑っていない事に気が付いた。彼は千春ではなく、ニンゲンそのものに憎しみを持っているのだと。

「なぁヤレス」

「なんや?」

「そもそもこの子、どこで何があって誰が連れて来たんだ? アタシさっきまでグラズィエラに居たから何も事の顛末分かってねんだわ」

「今朝がたやったかな? ジャンキー通りの裏路地に倒れてたのを通りがかった肉屋のおっちゃんが見つけてん。白髪なんて珍しいから意識無いんやったらバラして売ろうとしたらしい」

「あぁ肉屋ってそっちね」

「ほんで近寄ってよう見たらニンゲンって分かって、サクラダモンに通報したんや」

 正直な所、千春はこの世界に来てからの記憶が無い。元の世界でどう過ごしていたかも所々抜け落ちていて、弟に関する記憶しか持ち合わせていなかったので、ヤレスの話を聞いてそんな感じだったんだと他人事のように理解する。サクラダモンとは警察組織と認識してもいいかもしれない。しかし解体して売り飛ばす非道な売買は違法であってほしい。

「サクラダモンからワシが報告受けて、今に至るっちゅーワケ」

「そっかそっか、理解」

「ニンゲンは処刑、そうやろ?」

「まぁ、それはそうなんだけど…」

「…」

 何かを悩んでいる様子のヒビキを見る。殺さないでほしい、という懇願の眼差しで。何故か千春と同じ日本語を話し、わざわざヤレスに言葉が理解出来るように施してくれた彼女ならもしかしたら助けてくれるかもしれない。

「…おいヒビキ、変な事考えとんちゃうぞ」

「なにがだよ」

「まさか殺さない、なんて言い出さへんやろなぁ? そんな甘っちょろい事言うてみ、ワシがお前を殺すで」

 二人の顔が険しくなり、一触即発の雰囲気になる。ニンゲンを殺したいヤレスと殺したくないヒビキで対立している。

「…ヤレス。はっきり言うが、アタシはこの子を殺したくない」

「ハッ、やっぱりなぁ? ガキだからか?」

「それもあるが、この子はアタシ達に害を及ぼしてない、そうだろう?」

「ニンゲンやぞ? ええ顔しといて後から手のひら返しで全部奪ってく腐れ外道のどこに信じられる要素があんねん」

「じゃあこうする。ニンゲンは信じなくていい、でもアタシを信じろ」

 アタシを信じろ、その一言を聞いたヤレスが呆気に取られる。言葉が出てこないのか忙しなく辺りを見回している。

「そんっ…なん…だあああ、何でお前はそんなに庇うんや!」

「脅威になり得ないし、子どもだし、かわいいから!!」

「最後が一番の理由やろ?!」

「頼む、ヤロスラフ。万一があったその時はアタシとこの子の首を落とせ」

 ニンゲンである千春が何か問題を起こしたら一緒に死んでやる。ヒビキの強い覚悟をぶつけられたヤレスが更にたじろぐ。真っ直ぐに視線を向けられ、頭をガリガリと掻いて観念したかのように息を吐き出した。

「分かった分かった!!! お前がそこまで言うんやったら生かす!」

「ファーッ!! っぱ分かってんねヤレスはよぉ!」

 生存が確定したのか、喜びの奇声を上げたヒビキが千春の頭を撫でくり回した。力が強すぎて首がもげそうになる。

「ワシらの監視下に置いといた方がええやろ。ここに閉じ込めとくか?」

 やはり怖い発想しか浮かばないヤレスが鳩尾を殴られた。

「ウチで働いてもらう!」

「は、はぁああ?! お前マジでどうしたんや?!」

「ニンゲンである事をちゃんと紹介して、補佐にでもなってもらうつもり」

「そんなバカげた事許せるか! 仮にそうなったとしてもナナかザネリに一瞬でぶっ殺されるわ!!」

「そこはまぁ、ヒビキさんパワーで、こう!」

 拳を作ってブンブン振り回すヒビキの頭がド突かれる。暴力強めなコントが止まらない。

「…あ、あの、私に出来る事があれば何でもします! 鉄砲玉でもなんでも、やれって言われたらやります!」

「ほな死んでくれ言うたら死んでくれるんけ?」

「死ぬ以外だったら何でもします! だから、だからどうかお慈悲を!」

「なーんだ決まりじゃん。ヤレス、チハルは今日から言祝ぎの会の新入りちゃんね」

「あーあ、あーあ。ナナがへそ曲げて荒れてもワシ知らんぞー」

 ヒビキが牢屋の鍵を開けてくれてようやく出る事が叶う。何はともあれ命拾い出来た事に安堵して息をつく。頭に手が乗り、見上げるとヒビキが優しく微笑みを向けていた。つむじを指でなぞり、ゆっくりと頬へ下りて撫でる。その手つきに妙な懐かしさを感じたのは気のせいだろう。

「ごめんな、チハル。怖い思いさせた」

「い、いえ…助けていただきありがとうございます」

「融通利かないこのドアホのせいでほんっと申し訳なかった」

「誰がドアホやお前やドアホは」

「さっさとこんなくせぇトコ出ような」

 千春の肩を抱き、歩幅を合わせて歩き出した。靴音と裸足のペタペタという気の抜ける音が通路に響く。元の世界からそのままの姿で来たので裸足らしい。擦り切れて赤くなり血が滲んでいる。

「え、今気づいたけど何で裸足?」

「…あんまり覚えてないんですけど、靴を履いて出るの忘れちゃったっぽいです」

「おっちょこちょいだなー、抱っこしたげる」

「え、ちょっ」

 立ち止まり千春を抱える。本で見た事があるお姫様だっこ、というものだ。ヒビキの綺麗な顔とせっけんの良い匂いやほのかな煙草の苦い匂いでドキドキする。

「軽くね? ちゃんとメシ食ってる?」

「そ、それなりにっ。ていうか下ろしてくださいよ」

「足痛い痛いしちゃうからねぇ、目的地まではヒビキさんバス運行中~」

 ランタンを持ち先頭を歩くヤレスに付いて行く。そんなヤレスに揺れる黒い尻尾がある事に気付く。馬の尻尾によく似ている。体毛がえげつない濃さという訳では無さそうだ。

「この世界は、ニンゲンとニンゲンじゃない者たちが生きているんだ」

 聞いてみようと顔を上げた所で丁度ヒビキが話し出した。スーツと同じ静かな藍色の瞳が千春を見つめる。

「大陸が五個ぐらいあって、そのうち四個がニンゲンのもので、残りの一個がアタシら魔族の居場所だ。その昔魔族はニンゲンの奴隷でさ、独立戦争を経てようやくその一個で落ち着けるようになったんだ」

「ま、最悪な事に地続きかつ四方八方囲まれてるからまだ根に持っとるニンゲン共が戦争仕掛けてくるんやけどな」

 重い鉄の扉を押し開けて、ホールに出る。両隣に門番の二人が立っていた。一人は人型の体に首から上が大きな花が咲いており、もう一人はのっぺらぼうだ。お疲れ、と声をかけたヒビキはその二人の肩を叩いた。

「おやヒビキさま」

「あれ、ソイツもう殺すんです? 今回早かったっスね~」

 聞こえてくる言葉もしっかり殺意マシマシで千春は悲しい気持ちになった。忌々し気にヤレスが舌打ちをして、二人をなだめた。

「…殺さないんやと」

「え?」

「ヒビキさまはぁ、このニンゲンをぉ、殺さないんやってぇええ!」

「は」

「はぁあ?!」

 驚愕で目をひん剥いた二人がヒビキに詰め寄る。魔族とニンゲンのいがみ合いを知った今ではこうまで殺したいのは仕方の無い事ではあるが、関係の無い巻き込まれた千春はたまったもんじゃない。

「どういう事ですかヒビキさま?!」

「落ち着けよタロー、ゴンザ」

「これが落ち着いていられますか!!!」

「他でもない貴方がニンゲンを生かすってなれば、皆に示しがつきませんよ?!」

「いいか、お前ら。アタシが考えなしにいつも動いてるって思ってるだろうけどさ、今回ばかりは一味違うんだぜ?」

 不敵に笑みを浮かべ、口角を上げる。花頭のタローとのっぺらぼうのゴンザは怪訝に話の続きを待つ。

「この子には、ニンゲンとアタシら魔族の架け橋になってもらう」

 そうキッパリと言い放った。タローも、ゴンザも、ヤレスも、千春も何も言わない。しばしの静寂が訪れた。

「…おい、ええ加減にせえよヒビキ」

 最初に口を開いたのは額に筋を浮かべたヤレスだった。怒りに握りしめた拳が震えている。

「架け橋? お前いつまで夢見とるんや? アイツらとワシらが仲良うなれんのは分かり切っとるやろが」

「別に仲良くなりたいワケじゃないさ。戦争はもうお互いナシの状態まで持って行きたい、それだけだ」

「何でこっちが頭下げなあかんねん? 火種はいつだってあっちやないか」

「分かってる癪だよな。でも、もう終わりにしなきゃならないんだよ」

 再度険悪な雰囲気になってしまう。ヤレスの発する重圧で息が詰まる。ヒビキの胸に顔を埋めると、抱く手の力が強くなった。

「…ヒビキさま、ヤレスさま」

 タローが赤い花弁を揺らしてか細く名前を呼んだ。ゴンザが心配そうに顔を向けた。

「本当にソレが役に立つんですか」

「…あぁ、約束するよ」

「ソレを使えば、おれたちに平和が来るんですか」

「絶対とは言えないし、近いうちとも言えないが。てかソレ呼びやめてね」

「……いつだってヒビキさまは曖昧で不確定ですね」

 ハラハラと慌てながらゴンザが相棒の動向を見守る。メガネのズレを直したヤレスが何を言うか察して何度目か分からない溜め息を吐いた。

「…ヒビキさまを信じます。もう戦争に行かなくて済むんなら、血を流す事が無くなるのなら何だってやっちゃってくださいよ」

「タローがそう言うんなら、俺もヒビキさまに大賛成っスね。そもそもニンゲン如きが貴方に敵うワケ無いんで」

 どうやらタローとゴンザの説得に成功したらしい。安心したヒビキは、千春を抱いている手の力を緩めた。ヤレスは一生溜め息をついている。

「言祝ぎの会の方々にはこれから?」

「オウ」

「あー…ご健闘を祈りますね」

「ナディエリさま、荒れますね。どう治めるつもりです?」

「そりゃもう、こうよこう!」

 拳を作ってブンブン振り回すヒビキの頭がド突かれる。大爆笑の二人に別れを言い、ホールを後にする。寂れた長い廊下を大窓から暖かい陽光が差す。空は青く下の方に街並みがある。ヨーロッパの建築様式に似ており、おとぎ話に出てきそうなメルヘンチックな感じだ。青い空に白い雲が漂い、変わった姿の鳥?が群れを成していた。改めて別世界であるのを実感する。

「…あの、ヒビキさん」

「なに?」

「これからどこに行くんですか?」

「あそこの城ってか箱みてぇな屋敷見える? アレに向かうの」

「お、お城ですか…当然なんですけど初めて見ました」

「ベイビーブルー城って言うんだ。城っていう城の形してねぇのにな。この国の王さまとお妃さま、それとアタシらが暮らしてる」

「お、王さまと? ヒビキさんって一体何をしてる方なんですか?」

 ずっと気になっていた事を尋ねてみると、ヒビキの顔から笑みが消えた。

「戦争屋だよ。国を守るためにニンゲンたちを殺してる。チハルみたいな幼い子どもの命を奪うのが、アタシの仕事だ」

 暗く小さな声でそう答えた。自分の手は汚れ切っていると。

「言祝ぎの会っつー組織があってな。王さまがアレコレ指示してアタシら言祝ぎの会が手足として動くんだ」

「戦争毎日してるワケちゃうで。あちらさんが性懲りも無く来やがった時に戦える奴を向かわせてるんや。普段は国の運営とかなんかやっとる」

「一応リーダーはアタシで、ヤレスは右腕やってもらってる。つってもアタシ政治とか書類仕事とか一切出来ないから皺寄せがヤレスに全部行ってんだけどネ」

 予想以上に偉い立場の人だった。トップもトップだった。そんなやんごとない方に抱えてもらう訳には行かないと下りようとしたら力が強くなった。駄目らしい。

「他にもメンバーがいてさ、城行ったら早速招集かけて紹介するわ。ヤレス、みんな今どうしてるかわかる?」

「あーっとちょい待ち」

 ヤレスが軍服のポケットを漁るとリボンの形に包装されたお菓子らしき物が零れた。おそらく飴玉なのだろうが、なぜ溢れんばかりに詰め込んでいるのかは謎である。お目当ての紙を取り出して落ちた飴玉をポケットにしまう。

「えーっと、ヴァレリーとギル、サリアは外交で来週までおらん、シャオロンはちびっ子部隊連れて時計塔の修繕でもうじき戻り、ザネリとナナ、カナエは東パディエットで迎撃戦でいつ帰って来るか不明、ベティ嬢はお妃はんとお茶会やから呼んだらあかん」

「…つまりシャオちゃんしか紹介出来ないじゃん! てかなに、ザネリとナナどこ行ったって?!」

「東パディエットやね。一昨日ニンゲン共の侵攻をギギが感知してウッキウキで飛んでったで」

「あーあ、今回は腕何回吹っ飛ばすんかなー」

 全員の所在を紙にメモするという意外とアナログな手法だった。怒涛の勢いで飛び出してくる情報を追い切れず、千春は頭がこんがらがった。さらっと腕を吹っ飛ばすという意味の分からない残酷表現が易々と出てきてはいけない。

「まぁいいか、シャオちゃんにだけでも周知しとこ。ヤレス頼む」

「リョーカイ。行ってくるわ」

「……えぇえっ!」

 大窓を開け、ヤレスはなんとそのまま飛び降りていった。下半身が馬の体になったヤレスが宙を駆けて行く。蹄が触れた部分が凍り付き、それを足場にしているようだ。踏んだ後には砕け、光る氷の結晶が落ちて行く。夢のような光景に見えてバリバリの現実である。

「ケンタウロスって言えば伝わるかな? ヤレスはその種族でね、氷の魔法を使うんだ」

「ま、まほう…」

「魔法とも能力とも何とも言えないんだけど、きっとそう表現した方が伝わりやすいっしょ? ああやって大気中に含まれる水分を瞬時に凍らせて宙を走る氷渡りをよくするんだ」

 ヤレスはケンタウロス。なら、ヒビキは何の種族なのだろう。これと言って特徴は尖がり耳以外は見当たらない。

「アタシはさ、実を言うと完全な魔族じゃねんだ」

「…ハーフって事ですか?」

「お、当たり~。そっちで言う悪魔的な種族の母と、あっちの下っ端兵のクソ野郎との間に出来たのがアタシってワケ」

「に、ニンゲンと魔族の間で起こり得るんですか」

「クッソ稀にあんだよね。純愛してくっついた例もあるけど、アタシは全然そんな美しい背景は無いよ。捕まえたアタシの母を遊戯みたいなモンで穢した末だから」

 戦争に敗け、捕らえられたらおしまい。都合の良い奴隷として男性魔族は使い捨ての駒や研究材料、ニンゲンの設備の動力源などに割り当てられ、死ぬまで働かされる。女性魔族も同様であるが、見目の良い者はそういった掃き溜めとして使われる。生まれた子がいればソレは肉壁の役目を背負う。どこまでも救いの無い所業を、ニンゲンは涼しい顔をして行うのだ。

「よく覚えてるよ、母さんの美しさと、強さは」

 気持ち悪くて仕方がないであろう自分を愛してくれた、と乾いた笑みが零れた。

「三才ぐらいでアタシは母と引き離された。その時離すまいと抵抗したせいで、呆気なく殺されたよ。一番綺麗だの何だの重宝して弄びまくっていた癖に、そんなあっさり殺すんだコイツらって思った」

 気分を害すると考え、息絶えて血まみれの彼女をまだ凌辱する奴が居た事は千春には伝えない。ヒビキは生涯を終えるまで、脳裏に焼き付いた悪夢を忘れる事は無いだろう。

「回収されたアタシは、確か八才だったかな? そんぐらいになるまで電源装置みたいなの動かすバッテリーになってたんだ。でも戦争兵が足りないっつってそっちに異動になってさ」

 ボロボロの肌着に擦り切れたズボンと、使い古された壊れ気味の銃剣を装備して放り出された。血煙、硝煙、走る度踏みつけるニンゲンと魔族の死体。千切れた足や腕、どこの部位か分からない肉片で転ぶと意思の無い瞳孔がヒビキを映す。あちこちで起こる爆発と悲鳴は容易に思い起こせた。

「ま! それからなんやかんやあって奴隷辞めてこの国にやって来て、楽しくやってるからオッケー!」

「……ど、どうしてそんなに教えてくれるんですか」

「だって、チハルの味方だもん。全部開示しないとチハルが信じられないでしょ?」

「みかた」

「チハル、約束する。他の誰が騒ぎ立てようとアタシは必ずお前を守るよ」

 柔らかい声で言い、小指を向けてくる。指切りという文化はこの世界にも共通するようだ。千春もおずおずと自身の小指を絡めた。

「ゆーびきーりげーんまん、うっそついたら首ちょーんぱしましょ」

「えっ?」

「ゆーびきった!」

 千春の想定していた針千本より確殺の制裁方法だった。首を切り落とすのがトレンドらしい。

「よっし、行こうか!」

「えっままま待ってくださいよ、同じように飛び降りるんですか?!」

「ヒビキさん流の移動方法があるから体験させたげようと」

 窓枠に足を乗せ、空に向かって指を鳴らした。数秒の後に黒い塵が集まり二人を呑み込める程の巨大な渦が出来上がった。唖然としていると渦の中から五本指の黒い手が伸びてくる。金色の光を放つ模様が蠢いている。

「…手?」

「アッシー君なのに、手なんすよ! 笑えねえカスギャグは置いといて、コイツに運んでもらえば一瞬で城に到着するぜ」

「な、なんか本当に別世界なんですね…夢じゃないんだ…」

「もっと規格外の奴らいるからこんぐらいでビックリしてちゃ心臓持たないよう」

 中指に飛び移り、城がある方角へ向きを変える。もう一度指を鳴らすと、数十もの渦が現れ伸びる手と手が絡み合い、橋のような物が作られた。ヒビキはしっかりと千春を抱え直し、長い脚で間を軽やかに走り抜ける。

「ひいいいいいいっ!!」

「ハハハハハ!! 高いトコ怖いかー!」

「だだだ誰だって怖いですよこんなのお!」

「すぐだからなー!」

 ニンゲンである千春が万一ヒビキに見放されて落とされでもしたら確実に肉塊になれる高さだ、ギャアギャアみっともなく喚くのは無理も無い。ヒビキのシャツが皺くちゃになっても関係無いと必死に握り締め、下を見ないように努める。爆走中なのに揺れが少ないのはヒビキの不思議パワーのおかげか。

「あ、そういやこれから会うシャオロンって子な、トラの獣人でさぁ、メチャ良い子だから多分殺されないぜえ」

「たぶんって何ですかぁああ」

「トラってネコ科じゃん、ネコって気まぐれじゃん、だからシャオロンも気まぐれが結構あるしまだ八才のおチビちゃんだから我儘なんだよねー」

 トラは千春の想像するトラに該当するのだろうが、獣人となるとどんな姿形をしているのか。二足歩行のトラなのか、頭がトラで下は人型なのか、下半身がトラになっているのか。それよりもまず八才の子どもも戦争組織に属しているという事の方が千春にとって引っかかった。なにせ弟と変わらない年頃なのだから。

「そんな小さい子もいるんですか」

「ところがどっこい、ニンゲン年齢で換算するとチハルよりもお姉さんなんだなーコレが。やっぱ寿命の長さが関係するからさ」

「で、でも子どもには変わりないんですよね? 部外者だし何も知らない私が言うのも何ですけど、子どもが戦争に関わるのっていいんですか?」

 痛い所を突かれたとヒビキが苦い顔をする。この世界では戦う力があれば誰だって戦線に放り込まれるのだと言う。老人だろうと幼子だろうと。

「その非情さが当たり前になっちまってんだ」

「…間違ってますよ、そんなの」

「分かってる、だからアタシは変えたいんだよ。殺しあう敵同士なんかじゃなくて、ただの隣人になりたい、それだけだ」

 だからヒビキは千春を助けた。別の世界からの来訪者ではあるがニンゲンだ。上手く利用すれば話はスムーズに進み、終戦まで持っていける見込みがある。千春だって協力しないと帰る手立てを考えてもらえないし、小さな子が危ない目に遭っているとなれば見て見ぬふりは出来ない。千春は自分より幼い子どもは等しく弟と重ねて見てしまう癖があった。

 眼下の街を観察する余裕が生まれた頃には目的のベイビーブルー城が近付いており、黒い手は螺旋階段に組まれていった。近くで見るその城は、ややボロボロさが目立つ豪華絢爛とは言えない状態ではあるが、全体的に白と青を基調とした壮麗なものであった。方位が分からないせいで何とも言えないが、城の後方には豊かな森が広がっていた。屋敷のイメージとして、バロック様式が近いのかもしれない。

「ワクワクするような立派な城じゃなくてすまん。そも城っていう城の見た目じゃねえ箱型だし、直すのダル過ぎてサボりまくってる結果」

「い、いえ…そ、それより修繕もヒビキさんたちがやるんですか?」

「ほぼアタシがさ、気が向いたときにトンカチでガンガンやるんだワ。いかんせん魔族の奴らだと力加減がムズくて逆に壊すの」

 だったら魔族の力にも耐え得る建築資材を使えばいいのに、と千春は言おうとして止めた。使ってこれなんだろう。屋敷、いや城の正面の広場に二人が降り立つと黒い手はヒラヒラと振って渦の中に消えて行った。気さくな良い手だ。千春も振り返した。

「…?」

 長い石畳の先に綺麗な噴水があった。中央には小さな女の子の石像が花束を持って立っている。表情も無いし色も付いていない普通の石像なのに、千春はその子を見た事がある気がした。記憶を漁ってみてもシクシクと虚しい痛みが返って来るだけだったので、千春は目を逸らした。

「アー、ヴェっゴホンゲッフン!!」

「?!」

「…ようこそ、ベイビーブルー城へ」

 血を吐きそうな咳払いの後に、キザな声音で改めて歓迎してくれる。若干顔色が怪しい。

「のんびり帰って来たからヤレスとシャオちゃんいると思うなー」

「図々しいのは分かってるんですけど、スリッパとかサンダルみたいなのがあれば貸し出してもらえませんか?」

「アタシとしてはずっと抱っこしててもいいよ?」

「そこまでは流石に…」

「冗談冗談、服と下着とかも諸々用意してやるからな」

 千春の着ている長袖短パンは汚れがひどかったり穴が開いていたりしているので、その申し出はありがたく受ける。臭いもちょっとアレだったので余計に抱っこを止めてほしい思いもあった。

「お、おじゃまします…」

「ウヒャヒャヒャ、そんなかしこまんなくたっていいぜ? 中もボロだから」

「え?」

 花と蝶の繊細な意匠が施された扉を押し開ける。ヒビキの言う通り、内装もボロボロであった。ホールに吊られているシャンデリアはゆらゆらと今にも落ちてきそうに揺れており、とても危険だ。足元の色褪せたレッドカーペットは敷かれた当時はさぞ上等な一品だったのだろうが、見る影もなく擦り切れて床の石畳が見えている。更にはその石畳すらも剥がれて下の謎の空間が覗いていた。高い天井も穴が空いて暖かい日の光が差し込んできている。ヒビキが継ぎはぐよう申し訳程度に打ち付けたらしい木の板があるが、全く意味を成していない。千春は言葉が出ない。

「いやー、ワロス」

「笑ってる場合なんですかコレ?!」

「まあ落下物で怪我するような貧弱モンはいねぇから急いで直す必要無いし?」

 そう笑って近くの石柱を叩いたヒビキ。それがとどめの一撃で限界を迎えた柱が壁と一緒に崩れ、噴水が見えた。千春とヒビキが顔を合わせた。だんだん汗が噴き出てくる。

「やっべー…ヤレスがおかんむりだーっはは…」

「ひぇええ…」

「バレる前に逃げようぜっ!」

「ほお!」

「ギャアアアアアアアアアア!!!」

「こんのドアホォ!」

 崩れた向こう側にえらく笑顔のヤレスが立っていた。逃亡を図ろうとしたヒビキの首根っこを目にも留まらぬ速さで摑まえる。千春の一人や二人簡単に殺せそうな恐ろしい殺気を、ヒビキと共に抱えられている千春も必然的に浴びる事になった。血の様に赤い瞳が二人を射抜く。

「おかえりんさいなぁ、お二人さん? シャオはヒビキの部屋で待たせてあるで、ほな、いこか??」

「しーましぇん…ゆるしてヤレスぅ」

「ええよええよ、直すんはお前やし。まあ経費ひり出す必要出たけど、うん、怒ってへんし全然ええよ? かまへんかまへん」

「かまってない奴はそう言わねえだろお! ごめんてええ!」

 顔をべしょべしょにして叫んでいるヒビキがどうしても上司には見えない。怒っていないと言いつつ思い切り怒っているヤレスが二人を吊るしたまま歩き出した。そういえばヤレスは人型形態に戻っていた。ひび割れた階段を上り出したのでヒビキの部屋は上の階層にあるらしい。

「シャオちゃんに説明してくれた?」

「オウ。今の所は興味湧いとる」

「おっ、じゃあ大丈夫そうかな」

「どやろなぁ」

 二階に上がり、木の板に変わった長い廊下を進む。城は小高い丘の上に位置しているようで、廊下の窓から街が一望出来る。床板もやはり老朽化しているようで、ヤレスが歩く度にギシギシ軋む。すると一部踏み抜いたようで体勢が崩れる。アカン!と焦った。

「ヒビキ」

「喜んでやらせていただきます」

 そんなやり取りを数回繰り返して。歪んで外れかかった木の扉の前でヤレスがヒビキを投げ捨てた。千春は何ともないがヒビキはしこたま体をぶつけたのか涙が滲んでいた。そんな二人を気にも留めず、血も涙もないヤレスは扉を開けて中に入った。その扉は完全に外れて倒れてしまう。腰をさすりながらヒビキは立ち上がり、続いて中へ。ヒビキの部屋というより、執務室と言った方が正しいのか、あちらこちらに書類の山や高く積み上げられた本が放置されている。嵐でも過ぎ去ったような荒れた室内で、窓際にヒビキの使っている大きな机があるが、そこも書類の山が出来ている。そして山盛りになった灰皿が三つ。中央にはこじんまりとした木のテーブルと緑色のソファーが置かれていた。可愛らしい寝息が聞こえてくる。

「ぷぅ…ぷぅ…」

 茶色の編み上げブーツを脱ぎ捨ててソファーに丸くなって寝ている女の子がいた。長い金髪に黒いメッシュが入れられ、おさげに編まれている。ヤレスと似た軍服を着ているが、この子は半ズボンのタイプだ。オレンジ色の長い爪に、傷の無いもちもちとした褐色の肌。頭のてっぺんには大きな動物の耳と、ひじ掛けから床に垂れた長く太い縞模様の尻尾。白と黒、オレンジ色のトラのような模様。ヒビキは千春をソファーに下ろしてその少女の顔を覗き込んだ。ぷに、と頬に指を当てる。

「あり? シャオロン寝ちゃった?」

「いやこれ狸寝入りやよ。今に起きるで」

 それが当たったのか、少女の耳がピクリと反応して飛び起きた。ヤレスに看破されたのが悔しかったのか頬を膨らませている。

「むぅうう! ヤーち! なんでシャオにそんなイジワルするの!」

「訓練が足らんっちゅー事や。精進しいや?」

「ふんだ! あ! ヒビちーおかえり!」

「ただいまシャオちゃん、今日もお疲れ様」

「ふふん、今日ね、シャオね、すっごくがんばったんだよぉ。だからオカシたくっさんチョーダイね!」

 尻尾を盛んに振り回してヒビキに頭を撫でてもらい、子どもらしい明るく高い声ではしゃいでいる。八才というと、小学二年生ぐらいに当たるはず。身長もその年頃らしいちんまりとした小ささである。ヒビキの腰までしか無いので、いかに足が長いかよく分かる。

「あんな、シャオちゃん。紹介したい子がいるってヤレスから聞いてるっしょ?」

「ん! 白いニンゲンがいるんでしょ? かじっていい?」

「ダーメ、かじるもんじゃありません」

「ぶぅ」

「ほら、そこの子」

 トラの少女、シャオロンがキョトンとした顔でくるりと千春を向いた。まん丸の大きな目はオッドアイで、右目は夕焼け色、左目は淡い桜色と左右で異なっている。千春は初めて見る美しさに見惚れてしまった。

「あ、えっと、初めましどええっ!!」

「ニンゲンだ!」

 挨拶は第一印象を決める。悪い印象を与えないよう爽やかに挨拶を決めようと立ち上がって、シャオロンに突撃されて床に倒れた。背中と後頭部を強く打ち付け、腹部にはシャオロンの頭が突っ込んできたせいで胃液がまろび出そうになるが耐えた。千春は死を覚悟した。

「くんくん、くんくんくんくん!」

「うっ……ぐええ…ひいいいい!」

 鬼気迫る勢いで猛烈に匂いを嗅がれている。その上身を清めていない体を舌で舐められるのも嫌である。ザラザラとした変わった感触はネコ科特有なのだろう。

「…どや、シャオ?」

「…………」

 キュッと狭まった瞳孔が千春を見つめている。ヤレスが気遣うように名前を呼んだ。

「…おかしい! ニンゲンなのに、こわい匂いしない!」

「はぇ?」

「え?」

「あまくてやさしい匂いー! シャオの好きな匂いがするー! ねぇどうしてー?」

 きゃらきゃら嬉しそうに笑って千春の首筋に顔を埋めた。またしきりに匂いを嗅いでいる。尻尾が千切れないか心配になるレベルの力強さで暴れている。ヒビキは勝ち誇った笑みを浮かべ、ヤレスは面食らってあんぐり口を開けている。顎が外れそうだ。

「勝ったわ、チハルもう心配ないよ」

「たたた食べられちゃう勢いですよ?!」

 抱きついて離れようとしないシャオロンを引き剝がし、落ち着いて四人向かい合ってソファーに座った。千春の隣にシャオロンが陣取り、向かいにヤレスとヒビキの配置だ。シャオロンのパーソナルスペースはとち狂っているのか文化の違いか分からないが、ピッタリ隙間無くくっついて興味津々に見上げている。

「ねー!」

「は、はいっ」

「シャオはねー、シャオロンっていうんだ! ニンゲンはー? なんで髪の毛白いのー? はじめてみた!」

「あっ、ち、千春と申します、髪が白いのは…えっと…じ、事情…が」

「じじー?」

「事情っすね…」

 脳裏に呼び起こされるのは、鈍く光る銀の刃物。伸びてくる荒れた白い手。

「…チハル? 大丈夫か?」

「ぇあ、はっはい! 大丈夫です」

「本当に? なんでも言ってくれよ」

「…ありがとうございます。でも本当に大丈夫なので、気にしないでください」

「そ。それならいんだ」

 悪い記憶を振り払い、笑顔を繕う。横のシャオロンが手をいじって遊んでいる。

「じゃあ、ちはるんるんね!」

「ち、ちはるんるん??」

「それかはるちー! んふふ、シャオと仲良くしてね?」

「うっ」

 屈託の無い無邪気なシャオロンがひたすらに千春のハートを打ち抜く。年上だといえ見た目は自分よりいくつも下の子なので、撫で回したい気持ちが溢れる。気に入られたようではあるので、ひとまず殺される心配は無くなった訳だ。

「し、シャオロンちゃん」

「シャオでいいよー!」

「シャオちゃん。な、撫でてもいいですか?」

「いっぱいなでなでしてー!」

 そっと耳の間に手を乗せてみる。ふわふわなネコ毛の髪質だ。つむじを円を描くように撫でたり、高等部まで滑らせてみたりを繰り返す。シャオロンの顔がだらしなくなってきていた。

「ふへへええ。はるちー上手ぅ」

「ふかふかで可愛い頭だねぇ」

「耳もいーよ!」

「なんやてぇ?!」

 一段とふわふわなトラ部分である耳を触り始めると、なぜかヤレスが叫んだ。メガネがずれかかっているので余程の衝撃だったと見える。隣のヒビキが膝を叩いて爆笑している。

「だーっはっはっはっは!!!」

「ぐっ…クソぅ……ワシでさえたまにしか触らせてもらえへんのにぃい!」

「こ、コイツな、シャオと一番付き合い長いのに耳とか尻尾スゲーたまにしか触らせてもらえねぇんだよっ」

「そうなんですか? シャオちゃん」

「だって、ヤーち長いんだもん。おしゃべりもしないでずっとだまって撫でるからシャオつまんなーい」

 どうやらアニマルセラピーとしてシャオロンを撫で回すようだ。何度目か分からない徹夜をして限界を迎えたヤレスが突然シャオロンを捕まえて無心、無言でひたすら撫でくり回すのだと言う。目が死んでいて怖い。そうはっきり言われたヤレスが胸を押さえてしだれかかった。

「ヒビキィ! ブッコロシテヤルゥ!!」

「冤罪でーす」

「ねぇねぇはるちー。はるちーは今日からウチではたらくんでしょー?」

「み、みたいですね」

「でも、なにするのー? はるちーこんなに細っこいし、ニンゲンなのに」

 それもそうだ。ニンゲンと魔族の架け橋になってもらう、補佐的な役割についてもらうとは言われたものの、具体的な内容まではまだ教えてもらっていない。ヒビキの方を二人で向くと、とぼけて壁を向いた。

「いやヒビちーだよう」

「ささささようですかぁ? ひび、ちー? はて…」

「噛んでいい?」

「ダメダメ!…あー、はっはっは! なんも考えてねー」

 ダウンしていたヤレスが復活してヒビキの頭をド突いた。まさかまさかの何も考えずの発言だった。

「うそやろお前ぇ! これから考えるとかで済まされへんぞぉ?!」

「誤差誤差! 架け橋だの補佐だのはホラ、ここの奴らと仲良しになってからじゃないと話進まないとヒビキさん思ってんすよぉ!」

「なんやねんフワッフワしやがってぇ!」

「ナナをチハルが誑し込めれば魔族全体誑し込んだのと一緒ですやん?!」

「あんのチョロ男を基準値にするなやぁ! もおおお! 何でお前はそうなのぉ!」

 襟を掴んで激しく揺さぶるヤレスを尻目に、シャオロンは千春に頭を撫でてもらってご満悦の様子。さっきからチョコチョコ話題に出ている「ナナ」とは誰だろう。愛称からして女の子だと思ったが、ヤレスがチョロ男と言ったので違うみたいだ。

「…ね、シャオちゃん」

「なぁに?」

 なんとなく声を潜めて聞いてみると、シャオロンも小さな声で返してきた。コソコソ話が好きなのかニコニコと笑っている。

「そのナナさんって方は、どんな感じなんですか?」

「ナナー? んっとね、デカい!」

「でかい」

「背でっかくて、おっぱいあるよ!」

「おっぱい」

 巨乳らしい。背がでかくて、巨乳。男なのに、巨乳とは。千春には理解が出来ない。

「シャオロンさーん、チハルにおかしな嘘吹き込まないのー!」

「えー! シャオうそついてないよ! ナナおっぱいあるじゃんー」

「ありゃ胸筋だよきょ・う・き・ん! 筋肉モリモリマッチョマンだからなのー」

 見かねたヒビキから訂正が入った。ムキムキの男らしい。

「いわゆる逆三角形ってやつ? 上から下に向かってシュッと細くなってくやつ」

「…はぁ…?」

「シャオより濃いめの褐色で、腰ぐらいまで黒髪伸ばしてんの。顔半分アタシと同じように前髪流してんだけどさ、アレ絶対アタシの真似だよなー。ちげえって毎回蹴られるけど」

 暴力的な性格が多い。今の所ヤレスはヒビキの頭をド突く係の印象が強い。

「背はマジでデカい! 二メートル…二十ぐらいあんじゃなかったっけ? ヤレス、この前の健康診断誰が一番デカかった?」

「サリアが二百四十センチでいっちゃんデカかってんな。その次でナナやからー…たしかそんぐらいちゃうん?」

「自販機はたぶん怖がって逃げるデカさじゃないかな」

 千春の知っている自販機はおそらく逃げたりしないと思うが、この世界の自販機なら自分で動き出すかもしれない。認識を改める機会が多い。いや、もしかしたら千春が無知な世間知らずなだけで元の世界の自販機も動くかもしれない。何を信じていいのか分からなくなってきた。

「ま、顔は良いよ。美丈夫、ハンサム、男前? とりあえず高身長イケメンって覚えとけばおけ!」

「あ、はい」

「ちっとばかし性格に難ありって感じだけど、仲良くなればカワイー末っ子だから」

「…ちっとばかし…かぁ……???」

 顎に手を当てて神妙な面持ちで唸るヤレス。ちっとばかしではないらしい。

「ニンゲンぶっ殺し野郎ってだけで、そんなそんな!」

「大分私アウトですよね、ニンゲンってだけでもう終わりですよね??」

「そんな事はー…大丈夫! チハル可愛いからアイツ一目惚れするかもしんない!」

「テキトーすぎですよねヒビキさんってば! そんなんで助かってたらこんなに苦労しないですよ!」

「あははー」

 話が変わって来ていよいよ死ぬ日が近い。千春はその怖い方に会いたくないとさえ思い始めて来た。しかし仲良くしなければ命は無い。かと言って挨拶をした時点で命が無い可能性もある。

「はるちー、だいじょうぶだよう? 最初がタイヘンかもだけど、ナナと仲良くなれればホントさいこーだから!」

「会ってすらないんですよ…」

「まあまあ」

 書類に埋もれている黒電話がけたたましく鳴り出した。ヤレスが即座に反応して書類を崩して受話器を取った。ヒビキが悲しそうに書類が、とぼやいた。パステルのシールが貼られているのはシャオロンの仕業だろう。

「はいもすもすヤレスですぅ」

 気の抜ける応対だ。徐々に表情が険しくなっていき、声も固くなっている。ギクリ、と錆びた動きでシャオロンが膝の上から下りて、そそくさと廊下に飛び出して行った。

「あ、シャオちゃん」

「ま、またねーはるちー…」

 千春が声をかけると戻って来て廊下の向こう側から青い顔を出した。手を振って今度こそどこかへ行ったみたいだった。丁度そこでヤレスが受話器を力任せに置いた。

「アタシの電話ー!」

「ゴルァアシャオロンー!! ってどこ行きよった!!」

「シャオちゃんならもう逃げたよー。どしたん?」

 わなわなと震え、顔を真っ赤にして激昂するヤレス。どんな電話だったのだろう。

「シャオたちが直しに行ったはずのコルディア時計塔が爆発したんやと!!!」

「………あは~、ドンマイケル」

「ほんっまにチビ共はぁあ!! 何をどうしたら爆発すんねん! シャオロン!! シャオローン!!」

「いってら~」

 鞘から剣を抜き、半身をケンタウロスに変化させて部屋を駆け出して行った。床板がいくつも踏み抜けている事に気付いて、ヒビキと千春は顔を顰める。

「はぁ、しゃあねえな。よっし」

「ヒビキさん?」

「それじゃあ、チハルに記念すべき最初の仕事を与えてからアタシは二人を追いかけるぜ」

 首をかしげる千春に、どこからか取り出したゾウのじょうろを手渡した。ズボンの尻ポケットに入る大きさでは無い。ヒビキともなれば謎空間からじょうろを取り出すのもスマートだ。

「アタシの部屋から下に見える花畑っつーか庭園っつーか花畑だな、花畑に水やりしてほしいんだ!」

「花畑、ですか」

「うん。忙しくて水やれてなかったからさ。一緒に行こう」

「はいっ」

 おもむろに千春を抱いて窓辺に寄る。屋敷の中庭が見え、美しく整えられた見事な花畑があった。庭園と言った方が似合うと思うのだが、ヒビキが花畑と言うなら花畑だ。

「きれいですねー…」

「だろ? これ全部ナナが手入れしてんだよ」

「そうなんですか?」

「植物とか動物好きなんだよアイツ」

 思わぬ一面があるニンゲンぶっ殺しマン、ナナ。それのおかげで恐怖心がほんの少しだけ和らいだ気がした。

「それじゃ、行こう!」

「えっ」

 本日二度目の窓からダイブをした。花壇を避けて通路に着地。内臓が浮遊する感覚を初めて体験した。黄色い蝶々が通過した。

「………」

「どした?」

「……じ、事前に飛ぶとか言ってくださいよ! そもそも階段を使うとかしないんですか?!」

「ショートカットって楽ですやん~」

「私の事も考えてくださいよ…」

 傍には水場が整備されていて、土仕事用の道具が立てかけられていた。小さな池の中にはぷっくりとした金魚らしき生き物が泳いでいる。散らばったままの子ども用サンダルの土を払い、千春の足に履かせる。ピッタリサイズだ。

「お、ぴったりだ」

「どなたのですか?」

「シャオちゃんの。何で履けんだよウケる」

「あー、足小っちゃいんですよ、お恥ずかしい」

「かわいーからいんじゃね?」

 ヒビキの黒い手召喚といい、ヤレスの氷渡りといい、神秘的な力が席巻している割には普通の設備で、蛇口から水を汲む。ゾウのじょうろも見たことのあり過ぎるデザインの物だ。しかしこの可愛いサイズのじょうろで水をやるには、些か広すぎる花畑である。急いでも三時間近くはかかってしまうだろう。

「こんな小っちゃいのでいつもやってるんですか」

「ナナのやり方とアタシのやり方違うんだよなー。アイツはお供の奴らと一緒にやるからすぐ終わんだけど、アタシはサボりがてらだからワザとこのサイズでやってんの」

「あー、いけないヒトですねー」

「賢いと言ってくれたまえ」

 ずるく指を当てて口角を上げたところで、横目で外壁にかかった時計を見やる。

「うし、そろそろ行くわ。そんなかかんないと思うから、先に水やっててよ。んで帰ってきたら一緒に水やろー」

「はい。あの、もし誰か来たらどう説明しましょう…」

「そうだなー…アタシの妹分とでも言えばいいと思うぜ」

「切り抜けられますかね…」

「じゃ、これ預けとく」

 ズボンのベルトから下がっていた逆十字架のペンダントを外し、千春の首に掛けてあげる。金色の細やかな装飾がされている。

「ついでに言葉が分かるようまじないもかけとく」

「ありがとうございます。大事な物なのに」

「いいんだ、お前のためならね。じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい、ヒビキさん」

 ペンダントに軽く口づけ、千春の顎をくすぐってから黒い手に乗って去って行く。姿が見えなくなるまで見届けてから、寂しさを堪える様にじょうろを握り締めた。

「…やるぞ」

 気が遠くなりそうな広さに眩暈がしたが、色とりどりの綺麗な花々を見て元気を取り戻す。見覚えのあるつくりの形もあれば、物理法則を無視したような滅茶苦茶な形の花もあり、楽しい。甘い匂い、爽やかな匂い、すっぱい匂い、苦い匂いと飽きが来ない。飛んでいる虫も蝶々がよく目につくが、妖精みたいなのもいる。

「え、妖精?」

 絵本で出てくるような人型の羽がついた生き物がいる。可愛らしい女の子の見た目だ。

「わー…きれい…」

 きらきらと輝く鱗粉を撒いて千春の頭上を飛んで、どこかへ消えて行った。うつつを抜かしている場合ではないと頬を叩いて、水やりに戻る。

「もし」

「…え」

「もし、お嬢さん」

 チューリップに似た赤い花に水をかけていた時、その花が千春に声をかけたのだ。幻聴を疑ってしゃがんでよく観察すると、顔は無いし口も無い。

「ナナは帰って来ておらんかえ?」

「あ…えっと、すみません。私新人でして…面識が無いんです」

「おやそうかい。お名前は?」

「千春と言います」

「チハル、チハルさんか。良い名前をもらったね」

 分からないが笑いかけてくれたように感じて、千春も会釈を返す。大好きな父に貰った大事な名前を褒めてもらうのはとても嬉しい事だ。

「…あ」

 その後も会話が続き、落ち着いた頃に立ち上がってふと気付いた事がある。千春は服の下、肌着の下に手を突っ込んで元々首から下げていた逆十字架のペンダントを取り出した。ヒビキから預けられた金色のペンダントとよく似た、銀色のペンダントだ。

「…一緒だよね」

 逆さの十字架を背に男にも女にも見える人物が赤子を抱いているそのペンダントが二つ手元にある。銀色の方は、小さい頃にいなくなった父が千春にオルゴールと一緒に贈ったものであった。なぜヒビキの方と同じ作りをしているのか。

「…なんで」

 お父さん、と声に出なかった。墨色の長い髪をなびかせ、悠然と立っていた男が千春を見つめていたからだ。黒い羽織の前を開け広げて鍛えられた身体を露わにし、足元を覆い隠す長さの袴を穿いている。千春には顔の良し悪しがよく分からないが、そんな彼女でも近くで見なくとも分かる浮世離れした美しい顔の作り。満月を閉じ込めた切れ長の瞳に千春が映っている。シャオロンより濃い褐色の肌、横長のピンと張った耳。千春よりいくつも高い身長。

「……誰だ、お前」

 耳心地の良い、男らしさのある低い声。ヒビキのペンダントのおかげで聞こえて来た日本語に安堵する。特徴からして、彼こそがシャオロンたちの言っていた気の難しい「ナナ」なのだろう。彼自身と同じぐらいの長さの太い尻尾を引き摺っていた。黒曜石の煌めきを放つ鱗に多くの痛々しい古傷が刻まれている。

「っ…あ、あの…わ、私は、千春と申しますっ。ヒビキさんの…えと、妹分で…」

「…ヒビキの?」

「は、はいっ。それとその、どうか怒らないで聞いていただきたいんですが…わたわた私っ、ニンゲンでして…」

 男の耳がニンゲンと言う単語に反応して吊り上がった。耳に感情が表れやすいのかもしれない。そんなくだらない事を考えていたら。千春は自分が浮いている事に気付いた。正確には、浮いているのではなく首を掴まれている。千春の細い首をいとも簡単に折る事が可能な手の大きさと強さだ。

「ひっ…ぐぇっ」

「どんなイカサマ使ってここに入ったのか知らねェけど、今すぐぶっ殺してやるよ」

「ま、まって、くださっ」

「白い髪なんざ初めて見るからどの種族かと思ったが…やっぱニンゲンはつくづく汚ェ手ばっか思い付くのな」

 ジワジワと力が込められて気道が遮断されて行く。手足が痺れ、目の前は赤黄と点滅を繰り返す。手を解こうと必死に引っ搔いてみても解ける気配は無いし、それどころか痕すらも付かない。ニンゲンぶっ殺しマンの異名は伊達じゃない。

「っ……ひ…び……さっ…」

「ニンゲンがアイツの名前を気安く呼ぶんじゃねェぞ」

「あっ……う…」

 涎も涙も溢れさせて惨めな死を迎えるらしい。酷い耳鳴りと心臓の音がうるさいせいで他の音を拾えない。とうとう視界が真っ暗になった。

「…………」

 ちかげ。大切な弟の名前を口ずさんでみるけど、それが声に出たのかどうか。ただ、暗い暗い遥か向こう側。しゃぼん玉を吹いて遊んでいる弟の姿が浮かんでいた。こちらを向いてほしくて名前を呼ぶ。しゃぼん玉に夢中なのか一切振り返ってくれない。満足したのか空になった容器と吹き棒を置いて背を向けたまま歩いて行ってしまう。

「……」

 また真っ暗な世界に独り残される。静寂だけが千春の傍で寄り添ってくれている。千景を迎えに行かないといけない。しかし、千春の瞼はゆっくりと下がって来て、完全に閉じてしまった。



「おねえちゃん、おきて」



お付き合いありがとうございます、よしこちです。かわいそうは可愛い、そんな過激思考で、主人公をもっといたぶりたい、そんなモチベーションで生きています。

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