EP 8
あんたは運べ。殴るのは俺がやる
「――なら、俺は行けん」
その一言のあと、部屋は誰も口をきかなかった。
キャルルが言いかけ、飲み込んだ。ニャングルが算盤を握ったまま固まっている。
優太だけが、真っ直ぐに男を見ていた。
「あんたの掟だな」
「ああ」
「悪に子供がいたら手を引く。……理由を聞いていいか」
龍魔呂は答えなかった。
優太も、それ以上は聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「――なら、手を引け」
「……なに?」
「掟は守れ。あんたはボルグに指一本触れるな。娘にも近づくな」
優太は地図を丸め、立ち上がった。
「あんたは運べ。殴るのは俺がやる」
龍魔呂の目が、初めて大きく見開かれた。
「……いいのか」
「良くはない。あんたが殴ってくれたほうが百倍楽だ」
優太は肩をすくめた。
「けどな、掟を曲げた奴は、次はもっと簡単に曲げる。あんたがそれを三年守ってきたんなら、俺が守らせる。……俺は、あんたの主治医だからな」
「主治医」
「勝手に決めた」
龍魔呂は、しばらく黙っていた。
そして、椅子から立ち上がった。
「――運び役だ。それ以上はやらん」
「上等だ」
* * *
深夜。西の廃坑。
「配置を確認する」
優太は膝をつき、坑道の入口を見上げた。
「入口はここ一つ。中は南北二本の坑道、奥に採掘場の広間。敵は九人。子供は三人プラス一人」
「プラス一人?」
「ボルグの娘だ。あの子は敵じゃない。誰も撃つな、殴るな、近づけるな」
優太は全員の顔を順に見た。
「ネギオ、正面。あんたは音を出していい。派手に暴れて注意を集めろ」
「承知」
「キャルル、南坑道。速度で抜けて、子供の位置を最速で特定してくれ」
「任せて」
「ルナ、外周。逃げる奴が出たら木で止めろ。殺さなくていい」
「あらあら。優しくしておくわね」
「キュララ」
「はいはーい♡」
天使がM4を掲げた。
「坑道内では絶対に撃つな」
「えぇー」
「岩壁だぞ。跳弾が子供に当たる」
「……あ。それは、確かに」
「外に出た奴だけ落とせ。それ以外は空撮と通信に専念」
「了解ですぅ」
優太は最後に、後方を振り返った。
毛布の山を抱えたリーザと、湯を張った大鍋を担いだ村の女たちが立っていた。
「リーザ、入口に前線基地を作れ。出てきた子供は真っ先にお前に渡す」
「……はいっ! あったかいスープ、もう作ってあります!」
「上等だ」
そして――
「龍魔呂」
「ああ」
「子供を四人、外まで運べ。四人だ。一人も減らすな」
男は無言で頷いた。
* * *
突入は、静かに始まった。
ネギオが正面の坑道口を長ネギで叩き割り、見張りの二人が悲鳴を上げた瞬間、キャルルは既に南坑道の奥にいた。
優太はその後ろを走る。
――ワスプ薙刀は、抜いていない。
狭い坑道で長物は不利だ。優太が握っているのは折り畳みナイフと、消石灰の小袋だった。
「二人来るわ! 右の分岐!」
「任せろ」
角から飛び出してきた男の顔面に、優太は白い粉を投げつけた。
「ぐあっ! 目が――」
視界を失った男の顎に、掌底。倒れた身体を蹴って通路に転がし、後続の足を止める。
二人目が短剣を突き出す。
優太は避けなかった。軌道の内側へ滑り込み、手首を極め、そのまま岩壁に叩きつけた。
「四秒」
「速い!」
「あんたの半分だ」
* * *
「――いたわ!」
キャルルの声が坑道に響いた。
奥の広間。木製の檻。その中に、三人の子供が身を寄せ合っていた。
「ノノ! トト! メル!」
「むら、ちょう……?」
ぼろぼろの服。手首に縄の痕。だが、外傷はない。
優太は檻の鍵を叩き壊しながら、三人を素早く診た。
――脱水。低体温。恐怖による過緊張。骨折なし、出血なし。
「よし、全員生きてる。運べる」
「先生……せんせい……!」
ノノが優太を見て、震える手を伸ばした。
怒鳴られた記憶より、助けに来た事実のほうが勝ったらしい。優太は、その小さな手を握った。
「悪かった。あの時は、悪かったな」
「……ううん」
「もう大丈夫だ。飯が待ってる」
その時、広間の奥の闇から、拍手が聞こえた。
* * *
ぱち。ぱち。ぱち。
「――大したもんだ。村の農民が九人を潰したか」
現れたのは、痩せた大男だった。
節くれだった腕。潰れた耳。そして、右手に握られているのは剣ではなく――
小さな、女の子の手だった。
「ボルグだな」
「そう呼ばれてる」
男は娘の手を握ったまま、こちらへ歩いてきた。
五歳ほどの少女は、怯えた顔で父親を見上げている。
「動くな。娘がいる」
「……」
「お前ら、良い奴なんだろ? 良い奴は、子供の前じゃ何もできねぇ」
優太の胃の底が、冷えた。
――こいつは、分かってやっている。
自分の娘を、盾として使う手順を、完全に理解している。
「……あんた、それが父親のやることか」
「父親だからやってんだよ。この子を食わせるためだ」
「子供を三人売って、か」
「売れるもんを売って何が悪い」
* * *
その時だった。
「ふ……ふぇ……」
優太の腕の中で、ノノが震え始めた。
極限まで張り詰めていた七歳の心が、父親と娘の光景と、大人たちの殺気に、耐えられなくなった。
「うっ……うぁ……」
「ノノ、大丈夫だ。声を出すな。俺がいる」
「うわああああああん!! かあさん! かあさぁぁぁん!!」
子供の泣き声が、坑道の岩壁に反響した。
トトとメルも、つられて泣き出す。
三人分の泣き声が、狭い岩の空間で、幾重にも重なって膨れ上がった。
* * *
その瞬間。
優太の背後で、何かが落ちる音がした。
振り返る。
龍魔呂が、抱えていた毛布を取り落として、立ち尽くしていた。
「……龍魔呂?」
男は、動かなかった。
いや――震えていた。
優太は、医者の目で見た。見てしまった。
瞳孔、散大。対光反射、消失。呼吸数、毎分四十以上。頸動脈の拍動、視認できるほどの頻脈。皮膚は蒼白で、額から顎へ、汗が滝のように流れている。
そして視線は、坑道の岩肌の一点に固定されていた。
――この場所を見ていない。
(過換気。解離。フラッシュバック……!)
「――龍魔呂! 聞こえるか! 龍魔呂!」
男の唇が、かすかに動いた。
優太は聞き取った。
たった二文字だった。
「……ユウ」
* * *
男の頭の中で、何が再生されていたのか。
優太には分からない。
炎の色か。崩れる天井か。届かなかった手か。呼んでも返事のなかった名前か。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――この男は今、ここにいない。
龍魔呂の右手が、ゆっくりとポケットに入った。
取り出されたのは、真鍮のオイルライターだった。
カチ。
金属の音が、坑道に響いた。
カチ。
二度目。
優太の全身の毛が、逆立った。
初めて店の裏で聞いた時、理由もなく背筋が凍ったあの音。
――今なら分かる。
あれは、この世界のどこかにいる悪党たちが、震え上がるための音だ。
カチ。
三度目。
* * *
空気が、変質した。
坑道の温度が、目に見えて下がる。松明の炎が、風もないのに真横に流れた。
龍魔呂の身体から――赤黒い何かが、陽炎のように立ち上り始めた。
闘気などという生易しいものではなかった。それは光ではなく、色でもなく、空間そのものが軋んで漏れ出す音のようだった。
「……なんだ、これは」
ネギオが、一歩後ずさった。
二メートルの樹人の枝が、恐怖でざわめいている。
「木々が……森が、悲鳴を上げておる」
「ちょ、ちょっとぉ! センサーが全部落ちました! カメラが映らない!」
キュララが翼を強張らせた。
「な、なによこれ……この気配……」
キャルルの兎耳が、限界まで倒れた。
そして、ボルグが。
「ひっ」
娘の手を握ったまま、後ずさった。
* * *
男が、顔を上げた。
優太は、その目を見た。
――何もなかった。
怒りも、憎しみも、悲しみもない。
ただ、この世の全てを片付けるべき「作業」として見ている目だった。
角砂糖を齧る男は、そこにいなかった。
子供にシャボン玉を吹く男も、味噌汁を作る男も、傷の角度で優しさが分かる男も、そこにはいなかった。
いるのは――
かつて地下の闘技場で、死を呼ぶ四番と呼ばれた処刑人だけだった。
その足が、一歩、前に出た。
向かう先は、ボルグ。
そして――その手に握られた、五歳の少女だった。
「――待て」
優太は、走り出していた。




