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俗欲  作者: 九条 九重


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10/10

滴る月

夕食に親父がいないのも当たり前のことになっていた。飯を済ませて風呂に浸かり、今日は話がぎこちなくなっていたと思うのを反省しなければなるまい。風呂を出て着替えを済ませてリビングを通ると優香から「何かあった?」と聞かれたが、疲れているだけだと言って二階へ上がった。絵が進むにつれて自分がどんどんと穢れていくように漠然と感じるようになった。だが期限もある、遅らせる訳にはいかない。


次の日は一階に降りたのが夕飯の呼び出しがあってからだった。昼も呼んだが寝ていたのか?元気がないのかと優香からは聞かれたが、また疲れているだけだと生返事をした。そうして飯だけ済ますとまた絵を描き始めた。


そんな調子で絵を描き進めた、その甲斐あって絵は順調に進んでいく。優香は毎日のように夜食を持って来てくれるようになった。その度に「程々にしなさい」と言って抱き寄せようとするが、最近では断っている。他にも「何かあるならば話して欲しい」とも言われていたが、新太には今の生活を壊しかねないような事を面と向かって話す勇気などなかった。ついには夏休みも明けて学校が始まる、虫は秋の声を伝えている。


会話の機会が減っていく一方で、絵は完成しつつある。終わりが近ずくごとに鬱々としていたが、優香の言動からは親父が言っていたようなことは知らないものと思われる。やはり一時の感情に任せて言った世迷言か、それともただ言い負かす為の方便か。なんにせよだ、これさえ無くなればまた元に戻れるような気がして今では早く終わることの方を願っていた。


ある休日の秋の月夜、ついに絵は完成した。目元には歴然と隈ができている。その目で絵を隅々まで見回して完成を確認する。終えた時、丁度扉がノックされて驚いた拍子に筆が手から滑り落ち、咄嗟に床に着く前に取ると冷たい感触がし、次第に手の中に広がる。どうやら筆先を掴んでしまったようだ、黄色く手が濡れていた。そうこうしているうちに夜食を持ってきた優香が痺れを切らして扉を開けた、そして新太の手を見ると慌てたように持っていた物を机に置き、筆を拭く事に使っていた小汚いタオルを取って新太の手を拭った。拭きながら「大丈夫?」と聞く、ただ筆を落としただけだから大丈夫だと言い、それよりも優香さんの寝間着に付いてしまわないかが心配だと説明しても丁寧に拭いている。それでもやはりシミが残って綺麗にはならない、水で流すしかないかと思い扉から出ようとすると優香に止められた。

「この絵、完成したの?」

まじまじ感心したように見ている。

「やっと完成したよ」

何だか清々しく答えた。優香は真剣な表情で絵をもう一度見回していた。新太は優香をおいて部屋から出ようとすると優香も続いて部屋から出る。それから優香は新太の手を取って新太が呆気に取られているうちに隣の新太の部屋に入った。そのまま抱き寄せられた時、新太は取り返しのつかない事をしてしまったと思った。優香は新太を離すと新太のベッドに行き腰を下ろし、自分の横をさすって暗に隣に座るように誘導する。新太は部屋の真ん中から動かず、戸惑いの影が差している。優香はベッドに寝て寝間着のボタン外していく、そして「大丈夫だから」と言って手を優しく迎え入れるように広げている。声からして優しく受け入れるようであり、優しく迎える手の奥に見える包み込む為に開かれた胸元は美しくも毒があるかのようである。新太には聖母のようにさえ見えた、まるでここが自分の部屋ではないかのようにも思われる。母親に甘える事のなかった人生において、これ程まで自分を受け入れようとしてくれている事が素直に嬉しかった。だがそれに甘えてしまえば母親ではなくなってしまう。何も出来ぬまま、時は刻一刻と自分を置いて過ぎていくように感じる、それでもまだ秒針は一周もしない、千秋の苦悩の真っ只中にあった。


秋の長夜に近所の爺さんは山まで散歩に来ていた、時間はいつも通りなのでもまだ空には月が煌々としている。連れていた犬は山に登りたがっている、いつもなら登らずに着いたらすぐに帰るのだが、今日は奮って月に向けて登り始めた。頂上までは一キロ半、犬に導かれ存外早くに登り切った。朝日は無い、暗い明け方の空に高くに浮く月を見る。そんなに空に居ってはさぞかし苦労するだろう、ともすれば夜の滴りとなるかもしれない。突飛に想像を飛ばして無意味な心配でも考えながら帰路に就くと、存外に杞憂でもなかったらしい。朝日が徐々に昇り始め、漏れ出た光が優しく包む道すがら、ある池の畔でベンチに腰掛け、顔を覆っているシミのある手との隙間から、月が滴るのを見た。

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