第三話 断罪の夜会と誓約の指輪。陽だまりの庭園で、一生の愛を
クロードの介抱のおかげで、まだ痛みは残るものの、どうにか歩ける程度には回復したルシアは、ディランに命じられていた通り、遅れて夜会会場へと足を踏み入れた。
だが、会場の扉をくぐった瞬間、冷ややかな視線が一斉にルシアに注がれた。
「——遅いぞ、ルシア!」
会場の中心で、ディランがカトリーナの手を取ったまま、ルシアを指さして叫ぶ。
「公爵令嬢が怪我を負った際、お前はすぐに動かず、人助けを拒もうとしたな!」
蔑むような目で、ディランはルシアを見ていた。
「本当に拒否したのか?」
「……聖女様の服に庭園の土がついているようだけど……」
「先程、庭で倒れているのを見かけたぞ」
周囲の貴族たちから戸惑うような囁きがこぼれる。
だが、これまで王子側近によって密かに流されてきた“聖女への悪評”が、その疑念を完全には否定させなかった。
その声をかき消すような大声でディランは言葉を続けた。
「王命に背き、公爵令嬢の治癒を意図的に遅らせた罪は重いぞ! 聖女としてあるまじき行為だ! この冷酷で身勝手な女め。本日をもって、お前との婚約を破棄する!」
会場からどっと上がる嘲笑と失笑。
カトリーナはディランの隣で、勝ち誇った笑みを浮かべてルシアを見下ろしている。
「……っ」
ルシアは、そっと自分の胸元に手を当てた。
痛みに耐え続けた日々。苦しみ、もがいても見向きもされなかった食堂。芝生の上で放置された冷たい夕暮れ。
(ああ……私はずっと、期待していたんだわ。『大丈夫か』の一言を。——でも、もういいのね)
胸の奥で、何かが静かに、けれど明確に断ち切れる音がした。それは怒りでも憎しみでもない。
ただ、もうこの人に期待することをやめるのだと、ルシア自身が理解した瞬間だった。
(……悲しい。でも、もう縋らない)
ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には涙も悲哀もなく、ただ透き通るような静けさだけが宿っている。
ルシアは迷いのない手つきで婚約の証であるブローチを外すと、静かに床に置いた。
「……承諾いたしました、ディラン殿下」
「ふん、反省しても遅い――」
王子が鼻で笑った、その時だった。
「なるほど。あなたは今、自ら認めたわけだ」
会場の空気を一瞬で凍りつかせるような、冷徹で気品に満ちた声が響き渡った。
「彼女に毒見を命じ、傷を癒やすことを命じ、その痛みすら当然のものとして扱っていたことを」
カツンと石床を歩く靴音が響くたび、辺りはその圧倒的な威圧感にのまれ、静まり返っていく。
「……実に愚かな男だ」
人波が割れ、そこから歩み出てきたのは——色鮮やかな正装を纏い、威風堂々とした笑みを浮かべる青年だった。
「な……っ!? 極秘滞在中のはずのクロード王太子殿下が……なぜここに……!?」
ディランは息を呑み、手にしていたワイングラスを落としてガタガタと膝を震わせる。
クロードの母国は、この小さな国など到底及ばない大国。この国はその庇護を受ける属国に過ぎない。
今回の使節団の来訪は、属国への定期視察を兼ねた極秘のものだった。その存在を知らされていたのは、王族の中でもディランを含むごく一部のみ。
だが、滞在していたクロードはある噂を耳にしていた。
——『聖女が王家のために、痛みを引き受け続けている』と。
「……その真偽を確かめるため、証言と記録を集めていた。だが王家を裁くには決定的な証拠が足りなかった。——今日、この場でそれが揃った」
クロードは低い声でディランへ冷たく告げる。
(クロード……様? クロードが……隣国の王太子様……!?)
ルシアが驚愕に目を丸くする中、クロードは呆然とするディランを無視して静かに歩み寄る。
彼女の手を取り、優雅に口づけを落とすと、ルシアの首元から覗くあの指輪を指先で優しく掬い上げた。
――その瞬間、ディランは金縛りにでも遭ったように絶句した。
「な……!? 外交の席で見かけたことがある……。その指輪は……隣国の王家にのみ伝わると、互いの命と痛みを分かち合う誓約の証……! なぜ、なぜお前が……っ!」
ルシアの胸元の指輪を凝視するディランの声が、激しく震えていた。
「え……?」
ルシアは首元の指輪を見つめ、続いてクロードの顔を見上げた。
「クロード、これ……ただのお守りでは……?」
首を傾げるルシアに、クロードは愛おしげに微笑んだ。
だが、ディランとカトリーナへ振り向いたその瞳には、氷のような冷酷さが宿っていた。
「——気づいたか? 君たちが彼女に押し付けた痛みの半分は、俺が背負っていたんだよ。この指輪は、“誓約の証”。正式な契約が成立すれば、痛みも生命も共有される」
会場に悲鳴のようなざわめきが、波のように走った。
「我が国の王家が認めた伴侶を虐待し、その身を通して私にまで危害を加えた。……これは我が国への重大な敵対行為とみなす」
昏く微笑むクロードの威圧感が、見る者すべてを震え上がらせる。
「彼女が耐えた痛みを、あなた方は理解していないようだ。——安心するといい。感情で裁くつもりはない。すべて証拠を揃え、法と外交に則って、正しく償ってもらう」
「あ、ぁ……」
顔面を蒼白にし、膝から崩折れるディラン王子とカトリーナ。
クロードは二人を一瞥することすらせずに、ルシアをふわりと横抱きにした。
「クロード……私……」
「もういいんだ、ルシア。君を傷つける奴らは、俺がすべて片付ける」
これまでルシアは、誰かを守るために痛みに耐えてきた。でも今、初めて誰かがルシアを守るために怒ってくれている。
クロードの力強い腕の中で、ルシアは生まれて初めて「守られている」という温もりを感じていた。
◇◇◇
エピローグ
その後、事態は急速に進んだ。数週間にわたる調査と外交交渉の末、同盟関係は破棄され、厳しい制裁が課されることとなった。
国王自らが謝罪を行ったものの、処分が覆ることはなかった。
愚かなディラン王子は王位継承権を剥奪され、王都から遠く離れた過酷な辺境開拓地へと送られた。
公爵家も家柄ごと没落し、カトリーナは周囲から「痛いくらい我慢したら?」と冷たく見放され、惨めな末路を辿ったという。
◇◇◇
「……ルシア、体調はどうだ?」
隣国の豪華絢爛な王宮。その陽だまりが差し込む庭園で、クロードはルシアの手を優しく握りしめていた。
能力を強制されることのなくなったルシアは、数年ぶりに痛みのない穏やかな日常を過ごしていた。
「とても……体が軽いです。どこも痛くありません……」
彼の配慮は、時々呆れてしまうほどに徹底している。
ルシアが少しでも指先を冷やしていればすぐに自分のポケットへ引き入れ、食事の前に少しでも顔を曇らせれば「口に合わなかったか? すぐに作り直させる」と本気で心配するのだ。
かつてルシアにとって食事といえば、毒がないか確かめるための恐ろしい時間でしかなかった。けれど今は、ルシアが一口食べるたび、クロードが「美味しいか?」と優しく尋ねてくれる。
その表情は、料理の味よりも彼女が幸せそうに笑っていることの方を大切にしているようだった。
以前のルシアなら、こんなにも誰かに大切にされることを「申し訳ない」と思っていただろう。
けれど、今は違う。
誰かに守られる幸せを、少しずつ受け取れるようになっていた。
クロードの手の温もりを感じながら、ルシアはじんわりと幸せを噛み締めた。
(痛みに耐えるのが当たり前で、誰も助けてくれなかった。でも、クロードは自分の身を削ってまで私を守ってくれたんだ……)
「痛くないって、こんなに幸せなんですね」
ルシアは微笑み、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「あの、私……少しだけ、甘えてもいいですか?」
クロードはどこまでも愛おしそうな目で見つめ返すと、そっとルシアを抱き寄せた。
「少しじゃない。これからは一生、俺に甘えてくれ」
ずっと一人で痛みを我慢し続けてきたルシアは、震える指で、初めて自分からクロードの胸に顔をうずめた。
嬉し涙をこぼす彼女を、クロードは壊れ物を扱うように、優しく抱き返したのだった。
◇◇◇




