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そこはどこにでもあるような、街の小さな食堂。木造の店舗は古く、店内に並べられた椅子やテーブルはどれもがたついていて、清潔とはほど遠い。だが、昼時ともなれば力仕事で腹を空かせた男達が集まり、狭い店内はあっという間に満席となる。求められているのは質よもりとにかく量。客から丸見えの厨房で、恰幅の良い女主人のヒルダが大きなフライパンを豪快に振るい、縁が欠けた大皿にスパゲティを山のように盛りつけていく。
「メノウ、これを早く大テーブルに運んで!」
「はいっ」
地味なワンピースの上に前掛けをつけた少女は大きな声で返事をし、両手に皿を持って混雑する店内を早足で駆け抜ける。
「お待たせしました!」
大急ぎで料理を大テーブルに運んだメノウを、馴染みの客達がにこやかな笑顔で迎える。
「ありがとさん」
「メノウちゃんは今日も可愛いねえ」
「仕事が終わったら飲みに行かないかい?」
メノウは男達の誘いを微笑みだけで曖昧にかわし、テーブルと厨房を何度も行き来する。時折、悪戯な手がすれ違いざまにメノウの身体に触れることもあったが、その度に目聡いヒルダの容赦ない罵声が飛び、店内がどっと沸く。それが食堂の日常だった。
やがて繁盛時が過ぎ、日が暮れかけた頃。メノウとヒルダが二人きりで後片付けをしていると、準備中の札が掲げられているはずの扉が開き、幼い少年がひょっこりと顔を出した。
「母さま」
蜜のように甘い声が母の名を呼ぶ。五歳くらいだろうか。質素な服を着ているが、透き通るように白い肌と艶やかな黒髪をした、ひどく美しい顔立ちの子どもだった。
「おや、坊や。今日も一人でお迎えかい? 小さいのに偉いねえ」
ヒルダは赤ら顔をほころばせ、ついさきほどまで客に怒鳴り散らしていたとは思えないほど優しい声で少年に語りかけた。少年は得意げに胸を反らし、
「そんなの当たり前だよ。ぼくが家まで母さまを守るんだ」
「そうかいそうかい。メノウ、お前は良い息子を持ったねえ」
「ええ、おかげさまで」
メノウは目を細めて微笑んだ。彼女が幼い息子の母親であることを、この街の人間は意外と知らない。メノウが年齢より若く見られるため、二人で連れ立って歩いていると、親子ではなく姉弟に間違われることがほとんどなのだ。
「今日はもう上がって良いよ」
「ありがとうございます、おかみさん」
この店は昼は食堂だが、夜は酒場に変わるのだ。昼の担当をしているメノウは前掛けを外し、息子と手を繋いで店を後にした。少年は別れ際にヒルダから握らされた飴を頬張りながら、隣を歩く楽しそうに母を見上げる。
「おかみさん、とってもいい人だね」
「ええ、そうね。それに、あなたは目が不自由だから、余計に優しくしてくれるのよ」
メノウは我が子の顔を見下ろし、悲しげに眉を顰めた。少年の両目は不自然に閉ざされていた。少年は盲目だった。
「ごめんね………母さまが至らないばかりに」
「そんなことないよ! ぼく、母さまの側にいられるだけでとっても幸せだよ」
少年は無邪気に微笑み、水仕事で荒れた母の手をぎゅっと握りしめた。メノウは密かに涙ぐむ。親子二人、決して裕福ではないが、慎ましく暮らす毎日は楽しく、充実している。この生活がいつまでも続けばいいと、ただそれだけを願っていた。