6
翌朝。コハクはハインリヒの言いつけに従い、セバスチャンが御者をする馬車に乗って、屋敷から遠く離れた街の病院へ向かう事にした。コハクは当初一人で行くつもりでいたが、セバスチャンがどうしても同行すると言って譲らなかったのだ。過保護な彼は、コハクが一人で屋敷の外へ出ることを許してくれない。もしかしたら、コハクがどこかへ逃げ出さないように、ハインリヒから見張りを言いつけられているのかも知れない。そんな心配をせずとも、コハクには他に行くあてなどありはしないというのに。
しかし、セバスチャンと行動を共にできたのは街の入り口までだった。顔の半分を包帯で隠したセバスチャンの異様な姿は、日中の人間界へ溶け込むには目立ち過ぎる。本人は最後まで渋っていたが、説得の末に馬車の中で待機してもらうことにして、コハクは一人で病院へ向かった。そして、いくつかの質問と簡単な診察を受けた後、初老の女医師から告げられた結果は、コハクにとって思いがけないものだった。
「今の状態ではまだ断言出来ないけれど、恐らく妊娠している可能性が高いわね」
「妊娠………?」
予想外の言葉を耳にして、コハクは小動物のような丸い瞳をきょとんと瞬かせた。そう言えば、しばらく来るべきものが来ていない事実に今更ながら気づく。とは言え、コハクは先頃初潮を迎えたばかりで、月経の周期が乱れがちであり、数ヶ月訪れがないこともさして珍しくはない。何かの間違いではないかと尋ねるも、カルテに目を落とした医師は首を振った。
「月経の遅れ、貧血からくる目眩、微熱……どれも妊娠の初期症状を示しているわ。もう少し詳しく調べてみないと分からないけれど………」
果たして、その後の詳細な検査により、コハクの体は現在妊娠三ヶ月目である事が判明した。診察台の縁にに腰を下ろしたコハクは、呆然とした顔で恐る恐る己の腹を撫でた。ただでさえ痩せ型であるコハクのそこは平らで、とても命が宿っているようには思えない。父親は間違いなくハインリヒである。コハクはこれまでその腕に数え切れないほど抱かれながらも、ハインリヒとの間に子供ができるなど考えたこともなかった。それほど異種族間における子供の出生率は限りなく低いのだ。特に永久の時を生きる吸血鬼は己の子孫を残すことに執着がなく、繁殖能力が低いとされている。まるで奇跡のような出来事が自身の体に起こっているとは信じられず、コハクは青ざめた顔で震える唇を押さえた。
「………何か、事情があるようね?」
妊娠の事実に喜びを見せず、俯いたまま黙り込むコハクを見つめ、医師が笑みを消して言った。コハクはのろのろと虚ろな顔を上げ、消え入りそうなか細い声でぽつりと呟いた。
「望まれない子供なのです………」
吸血鬼と人間の間に生まれた子供は『ダンピール』と呼ばれ、どちらの種族からも忌み嫌われる存在だ。ダンピールの血は、親である吸血鬼にとって死をもたらす猛毒となる。故にその多くは、生まれる前に母親ごと始末されてしまう。ダンピールを孕んだ事を知られれば、ハインリヒは確実にコハクの存在を消そうとするだろう。愛しい主の手にかかるなら、いつ死んでも構わないと日頃から覚悟していたコハクだが、目の前に迫った現実的な死の影に、なす術もなく戦いた。
「………あまり思い詰めてはだめよ。母体に負担がかかるけれど、妊娠初期の今なら堕胎させる選択肢もあるわ。私で良ければ相談に乗るから、いつでも訪ねて来なさい」
一体どんな事情を想像したのか、真摯な眼差しで助言してくれた医師に頷き、コハクは覚束ない足取りで病院を出た。外はすでに陽が高く昇り、目に痛いほどの眩しい光が降り注いでいる。
「う………」
不意に強いめまいを感じ、コハクは近くの壁に手をついた。息苦しい。胸を焼くような吐き気に襲われ、思わずその場にうずくまった。早く戻らなければ、セバスチャンが心配しているに違いない。そう頭では分かっていても、体がいうことを聞かず、コハクは壁に凭れたまま固く目を瞑った。
「………気分が悪いのか」
ふと、聞こえるはずのない声が頭上から降ってきた。コハクが驚いて顔を上げると、現在最も会いたくない人物が、大きな日傘を片手にこちらを見下ろしていた。
「旦那さま?」
―――どうして、こんな所に?
本来ならば今頃、棺桶の中で深い眠りについている時間である。
「………どうした。何か重い病だったのか」
コハクが言葉を失っていると、ハインリヒは感情の読めない低い声でさらに問いかける。
「いいえ………ただの貧血だそうです。薬を飲めば、すぐに良くなると」
コハクは咄嗟に嘘をついた。真実を伝えることは、出来そうになかった。殺されるよりも、ハインリヒに疎まれるのが恐ろしくて。幸い、太陽を避けて目深に日傘をさしたハインリヒは、コハクの偽りに気づかなかったらしく、「そうか」と短く頷いただけだった。黒絹の手袋に包まれた優雅な手が、コハクの前に差し出された。
「早く帰るぞ。セバスが向こうで待っている」
ハインリヒの視線を辿ると、少し離れたところに停車している黒塗りの馬車が見えた。その扉の前に、帽子を深く被ったセバスチャンが姿勢を正して待っている。
「ああ………これ以上、太陽の下にいると気が狂いそうだ」
ハインリヒは忌々しげに紅の目を細め、小さく舌打ちをした。吸血鬼にとって、その白すぎる肌を焦がす太陽の光は大敵だ。にも関わらず、わざわざその身を危険に晒してコハクを迎えに来てくれたハインリヒの優しさに胸が詰まった。愛おしくてたまらない。けれどもう、今まで通りに過ごせないことは分かっていた。ハインリヒの手を取りながら、コハクは今後のことを考えて目の前が真っ暗になっていくのを感じていた。